2026.9 SEPTEMBER 74号
Keynote 1
総合地球環境学研究所 プログラムディレクター・特任教授 荘林 幹太郎
1 はじめに:
なぜ私はODAの世界を離れたのか
本論を個人的な経験を吐露するところから始める不規則を読者にはご容赦願いたい。筆者はこれまでの国内・国際公務員や研究者としての職業人生の中で、ODAに直接的に携わったのは30代の6年間に過ぎない。現在はJICAに統合されたOECF(海外経済協力基金)での2年間と世界銀行での4年間のみである。OECFではサブサハラアフリカ諸国担当課で主にケニアとナイジェリアの円借款業務に、世界銀行ではパキスタンの農業部門プロジェクトに対する融資業務を担当した。学生時代はODAにおける農業開発に大きな関心を有していたことから、キャリアの途中での6年間の連続したODA経験では多くのことを学ばせてもらった。
2国間援助機関としての内政干渉への慎重な配慮が必要だったOECFと異なり、少なくとも当時の世銀での融資業務についてはコンディショナリティと呼ばれる政策的な条件を受け入れ国に対して要求することが普通だった。私が携わっていた灌漑部門案件についても農家からの維持管理費徴収や水利管理組合関連法の制定などがコンディショナリティとして設定されていた。
これらのコンディショナリティは理論的には妥当であり、また現実的にも穏当なものだったように思う。たとえば灌漑用水をはじめとする水資源については限界費用(水を1㎥新たに開発するために必要なコスト)による価格付けが資源配分上は理論的にベストとされる。一方で建設費用も含めた全費用に関する限界費用を課すことは、現実的な観点から実効性は乏しかった。また、グローバルノースの国でも灌漑用水に対して建設費用も含む全費用を農家から徴収している国は基本的にはなかったうえに、現実的あるいは政治的な観点から、さらなる負担軽減がなされるケースが多かった。日本はそのような中で灌漑排水にかかわる建設費用や維持管理費用については他国に比して高い水準での農家負担を課してはいたものの、政策的な方向性としてはそれを弱める方向に過去数十年にわたり進んできた。
そのようなグローバルノース出身の職員として、相手国政府にこのコンディショナリティについての説得を行う際にはいささかの葛藤があった。自国で実施できていないことを求めることの内心の抵抗は、維持管理費徴収を行う必要はあるという職業的信念によって覆い隠すことはできた。しかしながら、自分自身をある種、安全な立場において規範的な政策を語ることについての「居心地の悪さ」は強く残った。ある政策選択が仮に理論と現実のバランスを踏まえた穏当なものであったとしても成功を保証されるものではない。その場合、ODA機関が提言したことであっても最終的な実行責任は当該国にある。その構造自体は援助プロジェクトのオーナーシップの根源にかかわるものであり、非難されるべきことではない。しかしながら、自分自身の職業観としては、「安全なところに身を置くなら言うのは楽だよな」という仮想の非難を意識せざるをえなかった。
ODAの世界に残るという選択肢はあったものの、それを選ばずに帰国した理由の少なくとも一つはこの「居心地の悪さ」から逃れたいということだった。それ以来、農政や農村振興の世界に身を置いてきたが、基本的には国内あるいは国内農政に関連した国際関連の仕事のみに従事してきた。研究職についてからも、技術援助の関係での中国への訪問や、農業部門の排出権取引の調査でケニアを訪れたのがグローバルサウスに関する数少ない経験だった。ODAの仕事から距離を置きたいという深層心理があったのかもしれない。
グローバルサウスの多くの国々は現在、農業構造変化、農業保護政策の再設計、灌漑インフラの維持更新など、グローバルノースが過去数十年間に経験してきた課題に向き合いつつある。もちろん、それぞれの国の歴史や制度は異なる。したがって、経路依存性の強い農業政策の分野では、グローバルノースの経験がそのままグローバルサウスに適用できるわけではない。
一方で大きな変貌を遂げた後に、事後的に見れば異なる政策選択が適切だったと後悔するグローバルノースの農業政策担当者は多い。そのような後悔は「失敗の知」の共有というグローバルサウスの国にとって重要な政策資源となりうるのではないだろうか。それが、ODAから離れて久しい筆者が本稿を執筆する動機である。このような観点で、本稿では以下の3つの政策分野において我が国を主たる事例としてグローバルサウスの今後の農業農村開発にとって何らかの示唆をもたらすと思われる教訓を考えてみたい。具体的には、農業構造政策、直接支払政策、灌漑排水政策である。
2 農業構造政策:
家族農業をどうとらえるか?
グローバルノースの農業構造、特に穀物生産にかかわる農業構造は大規模農業経営体の出現という形態をもって変化してきた。例えば、我が国の最新のデータである2025年農林業センサスによると、25年前には20ha以上の経営規模を有する経営体の耕作面積は全農地面積の26%程度だったのが、2025年には50%を超えている。EUにおいても100ha以上の経営体が経営する耕作面積シェアは2020年時点で53%になっている。これらの数値が示す通り、穀物を中心とした土地利用型農業においては農業構造の変化はおおむね経営規模の拡大と同義である。
これに対して、多くのグローバルサウス国・地域においては依然として小規模農家が耕地面積の大宗を占めている。古いデータではあるが、グローバルサウスにおける穀物生産大国の一つであるインドの2016年センサスによると、同国で大規模と定義されている10ha以上の経営体により耕作されている耕地面積シェアはわずか9%に過ぎない。農業構造の変革は今後の事象である可能性が大きい。
農業構造が変化する過程で非家族農業の重要性はグローバルノースの国々では増大している。例えば米国では非家族農業の面積シェアは2022年センサスで16%に及んでいる。EUにおいても非家族農業の面積シェアは2020年数値で39%である。我が国でも欧米的な非家族農業のイメージに比較的に近いと思われる法人化されている経営体の数も面積シェアも増加傾向にある。
このような中で、筆者の問題意識の中核にあるのが、家族農業をそれぞれの社会においてどのようにとらえることが適切かという観点である。上述の通り、米国やEUのように規模拡大が大きく進行し、非家族農業の重みが増大してきた国や地域においても、農業統計上は「家族農業」という区分を残している。また、例えばEUの共通農業政策においては所得支持のための直接支払予算のうち少なくとも10%以上を小規模農家に再配分することを加盟国に義務付けている。そして小規模農家の圧倒的大部分は家族農業である。また、米国にも家族農業をターゲットにした政策が存在する。このように家族農業と非家族農業のバランスについては、軽重はあれども政策事項の一つとなっているケースが多い。
これに対して、我が国は2015年までの農林業センサスにおいては「家族経営体」という区分があったが、2020年からはその区分が廃止され、法人化されている家族経営体は「団体経営体」に、法人化されていないものについては「個別経営体」に区分されることとなった。このような変更の背景には、「家族」という区分よりも「法人化」という区分の方が政策的に重点を置かれるべきとのある種の価値判断があった可能性がある。この区分の変更により「家族経営体」に焦点を当てた政策のモニタリングが困難になる懸念がある。
もちろん、小規模な家族経営体が世代を超えて持続的に存在することに過度な期待を置くことの是非は問われるべきではある。一方で、現在世代において家族労働を中心に先進的なあるいは大規模な経営を行っている経営体は確実に存在する。そしてそれらの家族経営体が地域社会や環境の維持に対しても重要な役割を担っている事例も多い。家族単位で農業を営むことの社会的意味について、単に経営効率性の観点のみからではない深い議論が必要と考えるゆえんである。換言すると、農業という職業観にもかかわる問題でもある。農業を地域社会や環境とより密着した職業と考えるときに「家族」か否かという補助線を必要とするのではないか。そして、そのことを農業構造が大きく変化する前から社会で広く議論するための土台を維持する必要があるのではないか。
上述の通り、多くのグローバルサウス諸国では、今後、農業構造変化が本格化する可能性が高い。その際に重要なのは、規模拡大や法人化そのものを目的化するのではなく、それぞれの社会が家族農業にどのような価値を認めるのかを事前に議論しておくことである。農業構造の変化が進んだ後に家族農業の位置付けを再定義することは容易ではない。日本の経験は、そのような議論の土台を早い段階から維持することの重要性を示している。
3 直接支払政策:
目的をどう設定するか?
グローバルノースに属する多くの国や地域は高い水準で自国・自地域農業を支援しているものの、その多くは政府から個別農家への財政支援(直接支払)の形態をとっている。図1はOECD(経済協力開発機構)で毎年、農政モニタリングの中心的作業として計測しているPSE(Producers Support Estimate: 生産者支持推計量。政府から個別農家への直接支払と、関税等による価格支持額を合算した金額)を農家手取り(農産物売り上げに政府からの直接支払を加えた金額)に対する比率として示したものである。計測対象はOECD加盟国のグローバルノース国・地域と新興国を中心とするグローバルサウスの一部の国である。これによるとOECD加盟国のうちスイス、ノルウェーなどの非EUのヨーロッパ諸国や日本・韓国が高い支持水準を示しているが、支持の内訳で見ると、これらの非EU欧州諸国は他のOECD加盟国と類似の構造を有していることがわかる。いずれも価格支持よりも直接支払の割合が極めて大きいことである。30年前の段階ではほとんどのOECD加盟国は価格支持による農業保護が主体であったが、その後、直接支払の割合を急激に伸ばしてきている。
図1 PSEの内訳
Composition of Producers Support Estimate (2020-2022)
Percentage of gross farm receipts

出典:OECD (2023) Agricultural Policy: Monitoring and Evaluation 2023
これに対して日本、韓国は多くの新興グローバルサウス国と同様に価格支持の割合が依然として大きい点に特徴がある。日本の場合、コメを中心とした高関税による国内価格の維持がその主たる原因となっている。また、財政力に脆弱性を抱えるグローバルサウスの国の多くは国内農業保護を関税に依存するケースが多い。日本や韓国は価格支持から直接支払への転換というグローバルノースの農政の潮流と異なるパスを歩んできたこととなる。
一般的に直接支払の価格支持に対する利点としてあげられるのは、農家所得を支える方法としての効率性である。同じ1ドルの農家への所得移転を目指しても、1ドル相当の価格支持ではその相当部分が投入財の生産者等に「漏れる」のに対して、直接支払、とくに生産要素(生産量や生産面積、価格など)に関連付けない「デカップル」された直接支払の方が農家への1ドルの移転効率が高いとされるのが、多年にわたるOECDにおける政策研究の結論である。もう一つの大きな利点は、支払対象農家を絞ることができるため、より効果的な政策実施が可能になる点である。例えば、洪水防止機能が極めて重要な流域の水田に限定してコメの生産に対する支援を行う直接支払のイメージである。
これら2つの直接支払の利点のうち、所得移転の効率性についてはその正当性が最近30年でみれば脆弱化してきたというのが筆者の認識である。完全に生産に対して中立的な支払(デカップリング)はないというOECDの理論的分析に加えて、やはり筆者が深くかかわったOECDにおける農業の多面的機能に関する政策分析を経て、農家の所得支持が正当な政策目的となりうるかという根源的な疑問の表出がその認識の背景にある。実際、所得支持が政策目的となるなら、全産業の所得水準を平均化する必要があるが、最低賃金を設定する以外に他産業において所得支持を目的とした政策が実施されることはまれである。
一方で支払対象にターゲットを絞れるというメリットは依然として有効である。とくに、地球環境問題や人口減少の程度に応じて必要な支援方法の地域差が拡大している現代的文脈のもとでは、ターゲット可能な直接支払の重要性は増している。また、農業支援の目的が多面的機能の保全にあるなら、直接支払により納税者負担にする方が価格支持による消費者負担よりも受益者負担の公平性の観点で望ましいという、やはりOECDでの多面的機能政策議論の結果もある。
グローバルノースの農政改革の最大の原動力となってきたのは間違いなく貿易自由化に伴い構築されてきた、WTO農業協定に代表される農業保護をめぐる国際ルールである。だからこそ多くの国や地域はそれらのルールに整合的な価格支持から直接支払政策への転換を進めてきた。一方で、日本はこのようなパスを取らなかったことから、対象と目的を明確にする農政のための有効なツールを使いこなせる状態になっていない。
以上の直接支払政策に関しての経緯からもたらされる教訓は、グローバルサウスの国が価格支持から直接支払への転換の可能性や意義について早い段階から検討を深めることの重要性である。その転換の時期は経済発展に伴う国家財政基盤の安定性に依存する側面が強いが、仮にそのようなタイミングが到来したとしても政治的には転換は容易ではないかもしれない。とくに現在のWTO体制の揺らぎのもとでの農政改革のドライバーが弱体化している現状ではなおさらである。しかしながら、政治的な決定を支えられるような議論を広く国民レベルで共有しておかずして、劇的な農政改革はなしえない、それが我が国が共有しうる重要な教訓ではないだろうか。
価格支持から直接支払への転換は、単なる政策手段の変更ではない。それは農業政策の目的を明確化し、限られた財政資源をどこに重点配分するのかという社会的選択でもある。環境保全、気候変動対策、水資源管理、条件不利地域対策など、農業政策に求められる役割が増大する中で、ターゲットを明確化できる直接支払の重要性は今後さらに高まる可能性がある。グローバルサウス諸国にとっても、将来の選択肢として早い段階から議論を蓄積しておく意義は大きい。
4 灌漑インフラ:持続性を支える政策とは?
グローバルサウス、ノースにかかわらず多くの国や地域の農業生産は灌漑農業に依存している。FAOの2025年レポート(THE STATE OF THE WORLD’S LAND AND WATER RESOURCES FOR FOOD AND AGRICULTURE)によれば、2023年時点で世界の農地の約23%が灌漑され、それらの灌漑農地が世界全体の農産物の48%(金額ベース)を生産している。1964年から2023年の約60年間の間に灌漑農地は世界全体で倍増し、アジアに灌漑農地の71%が集中し、60年間の増加の78%もアジア地域で起こっている。近年の新規灌漑農地開発は鈍化しているものの、灌漑農地面積は依然として増加傾向にある。
そのような中で灌漑をめぐる持続性に関する課題も多い。まず、積みあがった灌漑排水ストックの維持管理更新の持続性の確保の重要性も必然的に増加していく。例えば、維持管理更新の費用負担については、コストリカバリーの文脈で多年にわたり議論されてきた。さらに、農業生産の観点のみならず環境負荷の低減の観点からも水生産性に代表される利用効率性の改善は、多年にわたる重要な政策事項である。また、多くのノース諸国ではその段階はおおむね終了しているが、淡水資源新規開発をめぐる他セクターとの競合の調整もサウス諸国では引き続き重要課題と認識されている。
一方で、日本では、膨大に積みあがった水利施設ストックがすでにマクロレベルで減耗してきている。内閣府が定期的に推計している日本の社会資本ストック調査では、同じ水資源を対象とする下水や水道インフラに比して農業インフラ(その多くは灌漑排水インフラである)では顕著に減耗が発生している。図2が示す通り、基本的にはストック量に比して更新に対する予算が十分でないことが主たる要因の一つである。
図2 農業部門公的インフラのストック推計
Net Stock of Major Public Infrastructure in Japan (million Yen: 2015 Prices)
Percentage of gross farm receipts

出典:内閣府(2023年)のデータより作成:社会資本ストック推計- 内閣府
しかしながらその背景には、多年にわたり更新事業に対する農家負担を軽減してきた政策がある。土地改良事業の実施にあたっては受益者同意を取得する必要がある。そのうえで、受益者は事業完了後の一定期間において農家負担分を償還していくこととなる。農産物価格の低迷等により負担金の償還が困難となるに従い、更新事業の同意取得が困難化したために、更新事業の農家負担金自体を軽減する、これが過去40年程度にわたって継続されてきた。
しかしながら灌漑施設更新の財務的持続性を考えると、農家負担のあり方については、他の農業支持政策との関連性、負担と受益の公平性、更新費用逓減のための研究投資の必要性、さらには、更新事業の事前同意取得の有効性・必要性など幅広い観点から検討が必要だった。負担金に対する政治的な緊張のもとでは負担金軽減はやむを得ない判断だったかもしれない。しかし、現在の激しいストックの減耗状態を考えると、やはりこの点もグローバルサウスと共有されるべき貴重な教訓ではないだろうか。
5 グローバルノースとサウスの新たな「協力」に向けて
グローバルノースとグローバルサウスの関係は、これまでしばしば「先進国の経験を途上国と共有する」という構図で語られるケースが多かった。しかし、気候変動、生物多様性の損失、人口減少、財政制約など、農業農村開発を取り巻く課題が複雑化する中で、そのような単純な構図はもはや成立しない。グローバルノース、サウスともに共通の世界的課題に直面していかなければならない。
そのような状況だからこそ、グローバルノースが経験してきた政策転換の困難や制度設計上の限界を率直に共有することがより重要になる。グローバルノースとサウスが共通の課題に直面しなければならないからこそ、それらの共有に基づく真の協働が必要になるのではないか。
本稿で取り上げた家族農業、直接支払、灌漑インフラはいずれも、その時々には合理的な判断の積み重ねの結果として現在の姿に至っているケースが多い。したがって事後的に振り返れば異なる選択肢もあり得たという意味では、これらの経験を「失敗」ととらえることはフェアではないかもしれない。しかしながらあえてそれを「失敗」と呼ぶ背景はそのような協働の構築への期待がある。