マリ そこにある危機
─砂漠の祭典よ、再び─

独立行政法人 国際協力機構(JICA)
アフリカ部参事役  飯村 学   

1.難民と化した「砂漠のフェスティバル」

 毎年9月から10月に国連難民高等弁務官駐日事務所が開催するUNHCR難民映画祭。あまりに重いテーマが取り扱われるため、「楽しみにしている」という表現はふさわしくないが、私も例年、かかさず足を運ぶ。今のアフリカを知るうえで興味深く、見過ごせない作品が紹介される。
 そうしたなか、今年ひときわ目を引く映画が紹介された。それは「トンブクトゥのウッドストック」*1である。この映画が、今年、このタイミングで紹介されたことは、非常に意義深い。

写真1 農民の農地に設置した自動雨量計、ザンビア南部州
写真1 映画「トンブクトゥのウッドストック」
    (C)/Britta Mangold 提供:国連難民高等弁務官駐日事務所UNHCR難民映画祭2013
    ホームページ(http://unhcr.refugeefilm.org/2013/title/

 サハラ砂漠に暮らし、遊牧の伝統を引き継ぐトゥアレグ族。毎年開催される砂漠の音楽フェスティバルは、彼らの主張であり、アイデンティティとなってきた。独特の文化と独創的な感性は世界中の多くの音楽ファンを魅了し、祭典は多数の観光客を引きつけてきた。
 作品の舞台は2011年1月、マリ北部、トゥアレグ族の文化の発信地であるトンブクトゥ。この映画を作り上げるトゥアレグ人ミュージシャンや舞台裏のスタッフのインタビューを交え、祭典にかける想いや希望を綴ったメイキング・オブ・ストーリー、ドキュメンタリー映画である。

 本来、文化であり、伝統が語り継がれるべきフェスティバル。しかし、関係者が口々にしたのは、イスラム武装勢力の存在であり、治安の悪化であり、そしてフェスティバル存続の危機感だった。翌年、砂漠のフェスティバルが開かれることはなかった。いってみれば、祭典そのものが「難民化」して、離散してしまったのだ。
 いったいこの映画の舞台背景に、どんな事態が進行してきたのだろうか。西アフリカを定点観測してきた私の目に映ったクロノロジーを、この映画のメインキャストであるトゥアレグ族に注目しながら綴ってみたい。

2.サヘルに進行した危機*2

(1)貧困のなかの平和

 昨今、サヘル地域、マリについて話題に出すと、「治安の悪い国」「テロの温床」などというイメージを持っている方が多いように感じている。これは、この地域が日本では以前、ほとんど紹介されてこなかったこと、そして一気に注目を浴びたのが、2013年1月のアルジェリア、イナメナスにおける人質事件だったことに起因する。
 私のイメージは全く逆である。たしかに長年にわたり、貧困や開発の遅れが指摘されてきた。しかし、当の住民の顔に悲壮感や絶望感はあまり感じられない。厳しい環境のなかでも、苦悩と宿命を受け入れ、家族やコミュニティ、部族の絆を基礎に、楽天的に生活を営んできた。そして、そこに暮らす部族は争いを好まず、部族や宗教を超えて共存してきた。私はよく、「貧しいなかでも、違いを超えて、一つのパンを分け合って暮らす社会」と表現する。それは、今も基本的には変わっていない。


(2)トランスカルチャー

 しかし、歴史を紐とけば、異なる社会グループ間で、摩擦が生じる場面もあった。生産資源が限られる乾燥地の厳しい環境のなかで生活している以上、ある意味当然の成り行きである。
 マリは、南北で開発ポテンシャルを大きく異にする。南部は一定の降水量があり、ニジェール川の肥沃な氾濫原を擁する。蛇行して流れる大河の北限がマリ北部地域の南縁、トンブクトゥ、ガオが位置するゾーンである。ここがちょうど定住の農耕民と非定住民の放牧民、ニジェール・コンゴ族系の黒人とアラブ系の白人がグラデーションをかけて混じりあうゾーンにあたる。そこから北は、ほぼ砂漠地帯に溶け込んでいく。
 トゥアレグ族*3はこの地に暮らす主要部族だ。近代以前はサヘル地域を、砂漠を超えてダイナミックに移動してきた。しかし近代以降、フランスによる植民地化、その後の独立の流れのなかで、彼らの生活空間は複数の国に分断される格好となった。マリにおいては、彼らの本拠は主に北部の地域である。ほぼ砂漠地帯に位置し、開発ポテンシャルに乏しい*4。人間が生活を営むうえでの限界に置かれているといっても、過言ではない。異なるルーツを持ち、異なる言語を話し、異なる生活スタイルを持つトゥアレグは、しばしばバンバラ系を中心とする中央政府と対立する構造にあった。

図1 マリおよび周辺国
図1 マリおよび周辺国

(3)イスラム武装勢力の影

 イスラムは、砂漠を超えて西アフリカに伝えられてきた。今回取り上げているサハラ砂漠南縁地域でも、イスラムが主要な宗教だ。人々の生活に深く溶け込み、また熱心に信仰されてきた。そこに排他的、選民的思想はなく、他の宗教と広く共存が図られてきたことも特徴であった。

 この地域に、聖戦主義(Jihadist)*5と呼ばれるイスラム勢力が頭をもたげてきたのは2007年頃。それまで「預言と戦闘の為のサラフィスト集団」(Groupe Salafiste pour la Predication et le Combat:GSPC)を名乗っていたグループが、「マグレブのアルカイダ」(Al-Qaida de Magreb Islamique:AQMI)を称し、サハラ地域でテロ行為を始めたのが、この頃だった。
 そもそもAQMIの源流は、90年代を通じてアルジェリアで活発化したイスラム原理主義勢力にあるといわれる。ブーテフリカ政権による沈静化と、その後の原理主義勢力の彷徨、サヘル地域への南下は因果関係をもって整理できる。

 2007年当初、アルジェリアやモーリタニアにおいて、より頻繁に観察されたテロは、その後、ニジェールやマリを主な舞台と移していく。また、北緯17度線といわれた警戒ラインは、2009年前後には北緯15度線を超えて南下していった。テロの主な犯行手口は、人質誘拐であった。実行には、土地勘と砂漠での機動性に優れたトゥアレグ族が報酬と引き換えに関与した、と報じられたこともあった*6
 さらに注目を引いたのが、ナイジェリアのイスラム・セクト、ボコ・ハラムである。ナイジェリア北東部を活動の本拠とし、イスラム国家建設を標榜、主に爆弾テロを実行してきた。その後、時とともに矛先がアブジャ政権、国際社会へと向かっていく。また、爆弾テロの大規模化、犯行の地理的拡大、人質誘拐の実行など幅を広げていった。AQMIとの連携、連帯も報じられた。

 この地域は、フランスの支配的な影響力が及んでいたとはいえ、国際社会の関心が十分には及ばない、事実上の真空地帯にあったといえるだろう。国際的無関心のなか、残念ながら当事国の各国政府は、このような武装勢力に断固たる有効策を打つことができなかった。その後も、水面下でのイスラム聖戦主義者の勢力拡大を許し、2012年にかけて、状況は悪化の一途をたどっていく。

 冒頭に紹介した映画「トンブクトゥのウッドストック」、その制作の舞台は2011年1月に開催された音楽祭「砂漠のフェスティバル」。まさに、このような危機のなかで撮影が進行した。映画のなかでの関係者のインタビューでは、この当時のコンテクストが浮かび上がってくる。
 ちなみに、この地を主要ルートとして開催されてきたもう一つのイベント、「パリ・ダカールラリー」。こちらも同じコンテクストにおいて、2008年以降、同地での開催は見合わせとなっている*7


(4)貧困、食料安全保障

 この地域にはそもそも絶対的貧困、そして食料安全保障の問題が横たわってきた。国民1人当たりの国民総所得(世界銀行による)、人間開発指数(国連開発計画による)をはじめ、就学率、妊産婦死亡率、安全な水へのアクセス率など、サヘル砂漠南縁の諸国は軒並み低位に甘んじている(表1)。

表1 サヘル・サハラの開発指標
表1 サヘル・サハラの開発指標

 また気候変動の影響を受けやすく、食料安全保障の問題が常に付きまとう。 普段は水がないことに頭を悩ませている地域であるにも関わらず、雨期がくれば、近年、多発するようになった豪雨に襲われ、洪水となる*8。皮肉な話だ。
 図2および図3を、ご覧いただきたい。それぞれ、AQMIの勢力範囲、食料危機の範囲を示したものである。もちろん政治的、社会的、地理的、あるいは民俗学的要因がそれぞれの分布範囲を決めているのであって、科学的な相当因果関係が説明できるものではないが、イスラム聖戦主義者は食料危機の広がる、「食えないゾーン」で勢力を広げてきたことは少なくとも見て取れる。

図2 「マグレブのアルカイダ」の勢力範囲
図2 「マグレブのアルカイダ」の勢力範囲
出所:AFP

図3 サヘルの食料危機
図3 サヘルの食料危機

(5)脆弱(ぜいじゃく)なガバナンス

 こういった貧困や食料安全保障の脆弱性、治安問題に対して、残念ながら当事国は有効な策を打つことができなかった。それに加え、西アフリカではガバナンスや民主主義の脆弱性に起因する問題が連続して発生し、地域の安定を揺るがしてきた。表2は、その主要な事件を綴ったものである。

   
表2 西アフリカの主要な政治的事件(2008-2013)
表2 西アフリカの主要な政治的事件(2008-2013)

 とくに、ニジェールの政情は国際社会から危惧された。当時、イスラム聖戦主義者のテロ実行の舞台となりつつあり、また南からはボコ・ハラムの影響を受けていた。2009年、憲法規定を無視して再任を強行した前タンジャ大統領に対し、関係国は制裁発動に動かざるを得ない状況に置かれた。その状況が継続すれば、国際社会はニジェールを排除することとなり、同国がテロ勢力の温床となることが懸念された。これに対し、2010年、軍部がクーデターを敢行。皮肉にも暴力的な形で、同国の民主化、正常化へのロードマップが示された。
 翌2011年には、ブルキナファソ*9で兵士による騒乱事件が発生する。同時期に、コートジボワールにおける選挙後の内戦が進行した。この他にも、ギニア、ギニアビサウなどで政変が発生している。本来、地域の問題に対応しているのが西アフリカ諸国経済同盟(ECOWAS)であるが、当時、地域の安定と秩序に重大な影響を及ぼす事態が連続、多発しており、地域全体の安定に影を落としていた。
 そういったなかで、マリは民主主義が浸透した国、民主化のお手本国、安定した国と評されていた。しかし残念なことに、その信頼はもろくも崩れ去ることになる。西アフリカにおける政権の安定、民主化の進展には、常にこのような脆弱な面があるということを改めて思い知らされた。

3.マリ内戦の経緯

(1)引き金─カダフィ体制の崩壊

 2011年、マグレブで進行したアラブの春。リビアのカダフィ体制が崩壊すると、その影響はサヘル地域を直撃する。カダフィ政権を支えた傭兵部隊のなかには、少なからず、前出のトゥアレグ族がみられた。90年代のバマコ政権との対立の後、リビアはかれらの身の置き場であり、また一つの雇用機会、生計手段ともなってきた。
 そもそもサヘル地域では、リビアの存在感が大きく、親近感が強い。当時、ホテルや通信事業、不動産投資などでリビア資本が目についた。また、「アフリカの論理」、「貧者の論理」を代弁するカダフィ大佐は、概してサヘル地域の民衆からも人気を博し、「カダフィ」は子供に命名すべき人気の名前の一つであった。
 そういう背景のなか、カダフィ政権崩壊とともに、相当数のトゥアレグ人傭兵が、武器と資金を携え、陸路ニジェールを横断し、マリ北部に帰還する。そして歴史的課題となっていたマリ北部の開発、自治、トゥアレグの処遇の問題を再燃させた。武器と兵員を擁するトゥアレグ族と装備・練度で劣るマリ国軍の間で生じた非対称な軍事バランスが、散発的な戦闘を誘発し、マリは内戦に突入する。


(2)サノゴ大尉の政変と南北分断

 トゥアレグ勢力を前に、マリ国軍は十分な対処を行なうことができず、北部戦線は膠着した。トゥーレ大統領の弱腰な姿勢と、国軍の手ぬるい対処に不満を持った青年将校、アマドゥ・サノゴ大尉は2013年3月に政変を敢行。憲法を停止し、「民主主義と国家再建のための国家委員会」(CNRDRE)を組織。北部への攻勢を宣言した。しかし、軍事政権は事実上ほとんど有効な策を打つことができず、国家機能は全面的に停滞した。
 こうしている間にも、北部は戦線を拡大。トゥアレグ勢力側は、AQMIを含むイスラム武装勢力に共闘を呼びかけ、内戦はイスラム化。2012年6月までには、ほぼ北部地域が武装勢力の手中となる。また、イスラム勢力には内外から多くの兵が動員された。こういったなか、戦線や北部支配の主導権はイスラム勢力が握ることとなった。

 冒頭で述べた映画「トンブクトゥのウッドストック」。2011年1月の祭典を最後に、フェスティバルは開催されていない。2012年、北部の拠点都市であるトンブクトゥやガオでは、イスラム武装勢力の支配下、シャリーア法典の極端な解釈を強要し、人々の生活と日常を恐怖と緊張に陥れた。犯罪者には、鞭打ちや手首の切断といった刑が執行され、音楽や踊りが禁止された。霊廟や寺院などの歴史的遺産が破壊の対象となり、アフリカでは極めて貴重な書物が焼き払われた*10。多くの白人系住民は身を隠し、また離散した。祭典の関係者も然りだ。
 戦線は膠着状態となるが、ドラスティックな解決策に踏み切る客観状況がなかなか見出せず、手詰まり感のままに、2012年が暮れていった。武装勢力の北部地域支配という既成事実が、固定化することが危惧された。


(3)事態の急転─フランス軍の介入と再建への動き

 2013年に入り、事態が一気に動き出す。この間のクロノロジーを示したものが表3である。
 マリの正常化を巡っては、国連、アフリカ連合(AU)、ECOWASなど、国際社会が支援と支持に回ったが、国土と秩序の回復に実質上の主導的役割を果たしたのはフランスであった。2013年1月のフランス軍の介入を発端*11に、北部主要都市の拠点奪還、イスラム武装勢力掃討作戦が開始された。4300人規模のフランス軍、また2000人規模のチャド軍の動員を含め、4月にかけ、主要都市の奪還にほぼ成功した。
 これと平行し、国際社会はマリの正常化に向けた動きを加速化。5月にはフランス、EU主導の支援国会合、7月には国連マリ安定化ミッション(MINUSA)への移行、大統領選挙*12。そして9月には大統領が就任し、いったんは国家再建の道筋がつけられたことになる。

 
表3 サヘル・カレンダー(2013)
表3 サヘル・カレンダー(2013)

(4)正常化への道

 マリ問題は、これまで見てきたように、地域の貧困と脆弱性のうえに、武装勢力の進行、政変といった治安、政治イシューが絡み合った複合災害である。地域の再建のためには、絡まった糸を、一本ずつ、プロセスを組んでほどいていくことが必要である。
 この問題を解きほぐす主なキーを書き出してみたが、相当の数に上った。そこから、本稿でひとつハイライトするとすれば「国民和解」、なかでも「トゥアレグ族との和解」である。
 先述のとおり、マリ政府が対峙し、掃討を図ったのは複数の共闘する武装勢力であるが、このうちイスラム聖戦主義勢力とトゥアレグ勢*13については分けて考える必要がある。前者は外来の過激な聖戦主義者集団であり、マリ政府にとっても、国際社会にとっても交渉や妥協の余地も理由もない。他方、後者は和平のために和解を追及し、マリ社会にうまく取り込んでゆかなければならない、重要な存在なのである。


 表3で示したサヘルカレンダーに、「6月 ワガドゥグ合意」という項目がある。これは、マリ政府がトゥアレグ勢力と結んだ和平合意で、簡単にいえば、選挙プロセスの実施と引き換えに、選挙後の和平交渉を確約したものである。予定通りに進めば、11月24日には国民議会選挙も終了し、マリの国家秩序が名実ともに回復していくはずだ。以降が本当の意味での、国民和解の始まりである。


おわりに

 冒頭に紹介した映画「トンブクトゥのウッドストック」。映画が世に出たのは2013年、残念ながら彼らの想いを先取りすることはできなかったが、貴重な追体験ができる映画であった。地域において危機が進行しつつある様子をリアルに描写し、また彼らの危機感と、これに立ち向かっていこうとする強い気概とともに映している点で印象深い。
 また、私がこれまで見てきたマリ史観が、南部のバンバラ人を中心とするものであることも気づかせてくれた。マリの独立はトゥアレグの独立と同義ではなく、また闘争のなかに身を置いてきたトゥアレグ族にとって、バマコの政権は対立する客体に過ぎないのだ。

 トゥアレグ勢力による武装蜂起で始まったマリ危機。イスラム勢力の伸張と北部制圧、非人道的な戒律の強要、フランス軍による介入、その後に展開したマリ軍の白人系民族に対する暴力等々、たくさんの不幸な事件が生まれた。伝聞情報であるが、北部では以前にはなかった住民間の軋轢や疑心暗鬼がはびこっているという。

 冒頭に述べた「貧困のなかの平和」、「違いを超えて助け合って暮らす社会」を真に取り戻すには、語り尽くせない苦難を伴うことだろう。

 彼らがこの地に再び帰還し、生活とアイデンティティを取り戻し、そしてマリ北部社会が受容する真の「砂漠の祭典」が復活するまで、乗り越えるべき障害はまだまだ多い。その動きを関心深く見守り、支持、支援していくことは、われわれにもできることであると思う。何より、無関心が招く危機を、二度と許してはいけない、と私は思うのだ。

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