日本の食と農のゆくえ:2030 年に向けて

東京大学 大学院農学生命科学研究科 科長 生源寺眞一

1. 世界の食料問題
  2 0 0 6 年から0 8 年にかけて急騰した世界の食料価格は、ここへ来てある程度落ち着きを取り戻した。問題は中長期のトレンドである。今回の価格上昇局面のただ中にあった0 7 年に、2つの機関の予測が公表された。経済協力開発機構(OECD) ・国連食糧農業機関(FAO)とアメリカ農務省による1 0 年後の予測である。どちらも急騰状態を脱したのちの価格について、「高止まり」ないしは「緩やかな上昇」を見込んでいる。日本の農林水産政策研究所が0 8 年に公表した予測も、今後1 0 年間について、畜産物や乳製品を含む食料の国際価格が「上昇基調」で推移するとしている。
  平凡な予測ではある。けれども、こうした国際的にも定評のある機関による予測の内容からも、様変わりした世界の食料事情を読み取ることができる。というのは、いまから1 5 年ほど前にもこの種の予測が相次いで公表されたのだが、多くは価格の大幅な低下、したがって食料需給が緩和するとの見立てを行っていたからである。たとえば1 9 9 3 年の世界銀行の予測では、9 2 年を1 0 0 として2 0 1 0 年の小麦価格は5 7 に低下するとされ、9 4 年のアメリカ農務省の予測は、9 0 .9 2 年を1 0 0 として0 5 年の小麦価格を6 3 と見通していた。
  2 0 3 0 年に向けて、需要を押し上げる要因の作用は続くものと見込まれる。途上国、なかでも中国やインドといった人口大国の経済成長は、動物性タンパク質や油脂の大量消費による食料需要の増加をもたらすことであろう。供給面については、技術進歩に期待がかかるが、面積当たり収量の伸び率が長期傾向的に低下している現実がある。食料需給の緩和をもたらす材料は乏しいといわざるを得ない。
  将来の食料需給が単なる予測の問題ではないことも念頭に置く必要がある。所得水準の向上による飼料穀物や油糧種子の消費増は、途上国の人々が貧しい食生活から解放されるという意味で望ましいことである。けれども、そのための努力が実を結ぶとき、需要の増加と食料価格の上昇につながり、価格の上昇が食料消費に対するブレーキとして作用することも否定できない。ここには地球社会が、食生活の面で福祉の向上に努めた結果として、自分自身の首を絞めるという巨大なジレンマがある。むろん、日本社会もこの巨大なジレンマの外側にあるわけではない。

2. 低成長と少子高齢化
  国内に目を転じると、2 0 3 0 年に向けた日本社会の展望に際して、低い経済成長率と少子高齢化の進展の2つを大前提とすることに異論はないであろう。むろん、さまざまな手立てを講じることによって、少しでも成長率のアップを図り、少子化にいくらかでもブレーキをかける試みはあってよい。しかしながら、歴史の大きな流れを堰き止めることは不可能である。加えて、低い成長率と少子高齢化は、歳入減と社会保障費の増大に直結する。
  低い成長率、少子高齢化、財政の逼迫(ひっぱく)の3つは急に浮上した問題ではない。これらに対処する方策をめぐる議論はさまざまに割れているものの、大局的なトレンド自体については、すでに社会は織り込み済みであるといってよい。しかるに、昨年のリーマン・ブラザースの破綻をきっかけに拡がった世界的な経済危機は、日本社会のあり方に別の観点からも問題を提起することになった。それは、外需依存型の経済が安定感を欠いいることへの認識の深まりである。むろん、好調な輸出によって経済成長が牽引される状態が再現されることはありうる。けれども、他国の景気動向に大きく左右される経済構造がハイリスク・ハイリターンの要素を内包していることも間違いない。
  安定性という意味では、リーマン・ショックは実物経済の大切さを社会が再認識することにもつながった。リーマン・ショックの背景には、実物経済を補完する潤滑油であった金融がひとり歩きをはじめ、それが制御不能の暴走へと急展開した経緯がある。そこで、不安定な金融経済に対する懐疑的な見方とともに、実物経済を見直す機運が高まっている。とくに農業や食品産業は生活と密着した実物経済の代表であり、社会の好意的な評価が追い風として作用することであろう。
  低成長と少子高齢化のもとで、日本の食生活はどこに向かうか。高度経済成長の時代に顕著に変化した食料の消費は、今日ではほぼ落ち着いている。所得水準が横ばい状態のもとでは、今後ともトレンドとしての食生活に大きな変化は生じないであろう。人口も減少局面に入った。問題は食生活を支える農業である。とくに水田農業の高齢化が著しい。『平成2 0 年版食料・農業・農村白書』のデータによると、農家数で7 3%を占める1ha 未満層の経営主の平均年齢は6 6 歳に達している。兼業農家の世代交代が進んでいないのである。むろん、専業や準専業の農家がいないわけではない。けれども、全体から見れば依然として点的な存在である。

3. 食のネットワーク
  2 0 3 0 年の日本の食と農をめぐる環境を構想するうえで忘れてならないのは、アジアの動向である。とくに食文化に共通項の多い東アジアでは、得意とする食品が相互に行き来する食のネットワークの形成が進むことであろう。現に、底堅い成長の続く東アジアの富裕層は、日本の農産物や水産物の顧客の一角を占めるに至った。こうした食のネットワーク形成に現実味があるのも、今後の日本社会の低成長段階への移行と無関係ではない。なぜならば、成長段階の終焉(しゅうえん)した日本と成長の続くアジアの国々のあいだでは、農業の競争力が次第に接近するからである。これまでのアジアの農業の競争力を支えてきたのは、途上国特有の低い賃金であった。成長するアジアとは途上国から脱却するアジアにほかならない。賃金は着実に上昇する。
  一方、アジアの国々がアジアの外の世界と向き合う際には、飼料用穀物や油糧種子といった原材料型の食料の調達をめぐって、互いにライバルとしての関係に立つ。むろん、日本も厳しい競争関係のもとに置かれることになる。また、外の世界からの食料調達が進むにつれて、成長アジアの食料自給率は低下するであろう。つまり、極度に低下した食料自給率は、日本だけの現象ではなくなる可能性が高い。同じ悩みを抱え込むことになるといってもよい。いかにして、国内の農業生産力を維持するか。農業の保護政策を効果的に組み立てることも課題になる。そうなると、WTO の規律との関係も問われることになるはずだ。2 0 3 0 年に向けて、成長の続くアジアはこの意味でも共通の悩みに直面する可能性が高い。

4. 明日の担い手政策
  では、2 0 3 0 年に向けて何をなすべきか。日本の農業には難問が山積である。とくに優先度の高い課題をあげるとすれば、担い手の確保、とりわけ水田農業の担い手の確保である。このまま放置するならば、昭和一桁世代のリタイアとともに、いまは過剰問題に頭を痛めているコメの供給力に陰りが生じる事態すら考えられないではない。こうした危機感は社会に徐々に共有されつつあるが、ここで強調しておきたいのは、第一線で活躍中の担い手を支えると同時に、卵やヒナの段階の担い手候補を支援する「明日の担い手政策」の重要性である。
  担い手不足は、ここ5年、1 0 年のあいだに急に現れた問題ではない。2 0 年前、3 0 年前に若者だった人々の就業選択行動が累積した結果として、現在の危機的な状況が生み出されている。だとすれば、「明日の担い手政策」を欠いた担い手政策に長期の持続性はないといわなければならない。多様な入口からの新規就農者を迎え入れ、独り立ちした農業経営者へと育て上げるキャリアパス(生産技術や経営管理を習得できる道筋)を整備する必要がある。若い農業者を育成する場として、法人経営や集落営農にも期待がかかる。
  担い手の卵は所有農地の小さな農家の子弟であってよいし、非農家の出身者であってもよい。現に、雇用されるかたちの新規就農者の8割が非農家出身である。重要なのは、「明日の担い手政策」から独り立ちした農業者に対する支援策へのリレーのかたちで、「担い手政策」が所有農地の大小や農家の子弟であるなしにかかわらず、農業を職業として選択する人々すべてに開かれていることである。

5. 省資源・環境保全型農業
  水田農業とは対照的なのが、施設園芸や加工型畜産といった集約型の農業である。これらは土地面積当たりの生産額の大きい部門であり、経済成長とともに経営の規模拡大が急速に進んだ。専業的な農家や法人経営を中心とする農業構造が形成され、近年は企業の参入も少なくない。若い担い手も育っている。ただし、経営の規模拡大といっても、農地面積を大々的に拡大したわけではない。ガラス温室や畜舎などの施設を高度に利用し、広い農地を必要としない集約的な農業であるからこそ、急速な規模拡大を実現することができたのである。
  集約型の農業にも問題がないわけではない。好調な伸びを維持していた1 9 9 0 年代半ばまでとは異なって、需要の伸び悩みや輸入品の増加のもとで、近年の生産は停滞から縮小傾向に転じている。集約的な付加価値農業をめぐる環境も厳しさを増しているわけである。もう1つ見逃せないのは、施設園芸や加工型畜産に燃料や飼料の価格高騰の逆風が吹いている点である。石油エネルギーに依存した施設園芸や、輸入飼料を大量に投入する畜産の持続性に疑問符がつきはじめたとみることもできる。
  経済成長への適応に成功した部門ではあるが、成長の終焉と食料やエネルギー資源の逼迫基調への転換によって、さまざまなレベルで新たな適応が求められている。他産業を含めて地域のエネルギー利用の体系を見直す動きや、食品残渣(ざんさ)の飼料化や肥料化といった代替的な原料調達の道を探る動きが、先駆的なかたちで生まれている。2 0 3 0 年に向けて、日本の農業資源に根ざした食生活のあり方を模索する機運が強まることも考えられる。真冬に赤いトマトがテーブルに並ぶ食生活でよいのか。大量の飼料を輸入しながら、国内の水田が遊んでいる状態はおかしくはないか。集約型農業には、こうした疑問に正面から向き合う時代が訪れようとしている。

6. 食生活が支える農業・農村
  国内の資源を有効に利用する農業や、環境の保全と修復に深く配慮した農業を促進するためには、2つの要素が重要である。1つは政策的な後押しである。省資源型農業と環境保全型農業は、いずれも農業の生産工程の健全性を高める取組みである。問題は、生産工程の健全性が最終製品の特色に結びつかない場合が多いことである。たとえば、糞尿(ふんにょう)の垂れ流し状態の酪農の生乳であっても、乳質だけを取り出してみれば、環境保全に万全を期している酪農の生乳と差がないということがあった。乳価にも違いがない。努力が報われないとすれば、環境保全型農業への取組みにも意気が上がらない。このような構造のもとで、環境保全型農業の社会的利益に配慮した政策支援は合理的な根拠を持つ。
  もう1つの要素は、消費者の選択によって国内資源活用型や環境保全型の農業が支えられる関係を作り出すことである。ここでのポイントは、製造工程の健全性を伝える情報である。農産物に添えられた情報を手がかりに選択が行われ、その結果として消費者が間接的に省資源や環境保全に貢献するというわけである。食料自給率の向上との関わりでいうならば、食生活が農業を支える関係性は、広く日本の農産物全体に拡げて考えることもできる。消費者の選択行動のあり方が日本の農業を支え、あるいは支えない、という因果関係にもっと注意が払われてよい。
  多少は割高であっても、国産の農産物を選択する。このような行動が日本の農業と農村を支える。1つの鍵は、人々の購買力にそれだけのゆとりがあるか否かである。日本が低成長段階の社会に移行するなかで、懸念されるのは所得格差の拡大である。低い所得に苦しむ家計や公的な扶助に依存する家計の増加は、できるだけ安価な食品を必要とする家計の増加を意味する。日本の農業と農村のあり方は、日本の社会全体のありようと深く結びついているのである。もう少し踏み込んで述べるならば、消費者の無理のない選択の結果として、日本の農業が支えられる社会であること、これが望ましい社会の要件の1つなのである。

7. 国際社会への発信
  世界の食料需給が逼迫基調に転じた今日、国際社会に向けて何をどのように発信すべきか。2 0 3 0 年に向けたポイントは、アジアの国々との連携にある。食料調達をめぐるライバルとしての競合関係を緩和するためには、なによりも各国の食料供給力の強化が重要である。そのための国際協力を惜しむべきではない。日本の農業者や研究陣営に蓄積されている技術は、灌漑農業や稲作の面で、あるいは高品質の作物生産の面で手堅い貢献を期待できるはずである。農産物の加工や流通の面でも、日本の経験を有効に活用してもらうことができる場面は少なくないであろう。さらに東アジアを中心に食のネットワークが広がるなかで、トレーサビリティ・システムを国際的に連結するといった新たな課題も浮上するに違いない。
  ところで、農業生産力の増強というテーマを論じるとき、WTO協定との整合性の問題を避けて通ることができない。WTOは国内農業の保護措置に厳しいスタンスをとり続けているからである。けれども、農産物の貿易をめぐって重要な新局面が現れていることも見逃してはならない。それは、近年の食料価格高騰のなかで、少なからぬ国が農産物の禁輸措置に踏み切ったことである。国際社会もこれを容認した。絶対的な必需品に関して、自国民優先の行動は当然だというわけである。しかるに、フード・セキュリティの観点から食料の輸出規制が容認されている事態は、反射的に、食料輸入国がミニマムの食料生産力を確保するために講じる手段の容認に結びつく。人間の生存条件である食料の確保という点で、輸出国側と輸入国側に違いがあってはならない。
  農産物をめぐる貿易摩擦の本質は、絶対的な必需品の領域を超えたレベルで手厚く講じられている保護政策にある。真の問題は、フード・セキュリティの確保に必要なレベルを逸脱した過剰な農業保護政策である。食料に関しては、絶対的な必需品としての領域と、それを超える選択的な財としての領域を峻別する必要がある。このような立論は、国際社会において必ずしも広く受け入れられているわけではない。けれども、底堅い成長の続くアジアでは、日本と同様の農業問題に直面し、国内の食料供給力の後退という共通の悩みを抱える国が増えていくに違いない。いま求められているのは、共通の悩みを共同の働きかけにつなげることである。

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