インド農業における水事情と課題について

国際協力銀行(JBIC) 開発セクター部 調査役 北田裕道

1.はじめに

写真1 小規模農家支援を目的とする公設市場(アンドラ・プラデシュ州ニルマール)
写真1 小規模農家支援を目的とする公設市場
(アンドラ・プラデシュ州ニルマール)

  1991年の外貨危機後、インド経済は年平均6%台(1991〜2006年)の高い成長率を実現している。その成長過程では、ソフトウエアやITサービス事業といった最先端分野での存在感を急速に増大させて、国民総生産(GDP)では世界第12位(06年)、購買力平価で計った国民総所得(GNI)比較では、日本を抜き、アメリカと中国に次ぐ世界第3位の経済大国となっている。
  また、人口規模では、05年国連推計で約11億337万人と、世界の人口64億6500万人の約17%を占め、中国に次ぎ世界第2位の人口大国となっている。人口増加率も1990〜2000年平均で1.8%と高く、今後インドは中国を抜いて世界第1位の人口大国になるものと予測されている。
  かつて慢性的な食料輸入国であったインドは、「緑の革命」を契機に農産物輸出国へと改革を図ってきたが、成長する経済と増加し続ける人口を維持していく上で、食料需給および農村の貧困問題は同国が直面している最優先課題であり、そこには農業生産と水利用が大きく影響している。

2.農業の概況
  世界で7番目に広い国土面積を有するインドは、その約55%が農地として活用されているが、地域によって気象も多様で、それに対応した作付が行われている。収穫期は基本的にカリフ(雨期)とラビ(乾期)に区分され、前者では主にコメ、綿花、落花生、雑穀、後者では小麦、マメ類が作付されている。
  地域特性を見てみると、小麦はインド北西部で多く栽培されている。インド随一の小麦作地帯ともいえるパンジャブ州やハリアナ州では、平年の年間降水量が600〜650mm程度という半乾燥地域であるが、インダス川などを水源とする用水路灌漑と井戸を利用した地下水灌漑によって農業生産が維持されている。一方、年間降水量が少なく、灌漑の普及が遅れている地域では、乾燥に比較的強い雑穀やマメ類、油糧種子などが主要な作物となっている。また、栽培に大量の水を必要とする稲作は、年間降水量の多い西ベンガル州やタミル・ナードゥ州など東部や南部(とくに、降水量が多い沿海地域)、灌漑の普及が進んでいるパンジャブ州など、北西部で発達している。
  農業生産はGDPの約2割(04年度)、輸出全体額の約1割(05年度)を占め、コメ、水産物(エビなど)が輸出品の上位を占めている。食料事情については、1960年代半ばまでは年間数百万トンから一千万トンの穀物輸入が恒常化する大国であった。その後「緑の革命」を契機に高収量品種の小麦が導入され、70年代後半にほぼ穀物自給を達成し、それ以降はコメを中心とする輸出を行い、現在に至っては穀物輸出の常連国へ仲間入りするという劇的な変遷を遂げている。人口の急増に対応する形で自給率を達成したかのように見られるインドであるが、近年の穀物生産が200万トン台であるのに対し、2025年には350万トン台へ増産しなければならないと言われている。農業生産の増大を図るためには水資源開発・水利用の増大は必要不可欠であるが、農村部は貧困層の75%が居住するなど多くの課題を抱えており、農業・農村の再構築が今後の経済成長のカギを握っている。

3.水利用のマクロ評価
  インドは世界の水資源の約4%を占めており、北はヒマラヤ山脈、西はタール砂漠と自然条件も地域的に多様である。インド政府の評価(93年)によると、年間平均降水量は約4兆m3とされ、そのうち利用可能水量は地表水と地下水などを合わせて1兆8690億m3と見積もられる。しかし、実際には地形やその他の制約条件により、利用可能水量の約60%が便益をもたらしている。インドの降雨時期は年間のほぼ3〜4か月に限られるが、多様な自然・地形条件から、この降水量は西部ラージャスターン州の100mmからメガラヤ州チェランブンジの1万mmと地域格差が大きい。 
  水利用をみると、その約8割が灌漑目的で占められている。灌漑利用に対するポテンシャルは独立した当時1950万haであったが、2000年の終わりには9500万haと約5倍に拡大している。これに加え、成長過程における経済活動の拡張に伴い、現在、飲料用、産業、水力・原子力発電、環境目的に再配分を強いられている。1人当たりの年間総利用可能水量では50年代には5000m3を超えていたものが、現在では2000m3まで低下、2025年には1500m3まで低下すると予測されている。一方、1人当たりの貯水量を見ると、インドは約200m3とロシア(6103m3)、ブラジル(3145m3)、アメリカ(1964m3)、中国(1111m3)と比較しても格段に少ない。国際基準では1人当たりの年間総利用可能水量が1000m3以下で水不足が生じるといわれている。インドの場合、たとえ現在稼動およびポテンシャルを有する貯水施設がすべて機能しても、1人当たりの貯水量をわずか400m3しか増加できないといわれ、人口増加は水の需給バランスを損なう大きな要因となっている。

図1 水利用バランスの将来予測(インド水資源省)

  将来においても、人口の増加等による需要量の著しい増加に対して、利用可能量に大きな伸びが期待できないため、水需給バランスはより厳しいものになることが見込まれている(図1)。

4.灌漑開発の現状
  農業は約1億9000万ha(2003年)の耕作農地のうち、43%が灌漑され、残りの57%が天水に依存している。計画されている事業が完了しても、耕地の約70%までしか灌漑できない。また、これまで多くの灌漑事業が計画されてきたものの、04年時点で388事業、総事業費で約9200億ルピー(日本円で2兆5000億円相当)が完了できておらず、これに加えて約220に及ぶ大中規模の灌漑事業が着工待ちとなっている。他方、施工単価も単純比較はできないが50年前の約100倍に上昇し、事業実施主体となる州政府の財政不足をまねき、水利用向上の大きな障害となっている。
  中央政府は事業採択の判断基準の厳格化を図る一方、州政府の財政悪化を受け、既往灌漑事業の早期完了と適切な施設管理のための政府支援スキームを導入した他、参加型水管理を通じた水利費徴収業務の移管による維持管理費用の確保、適切な維持管理水準確保のため水利組合への管理責任の移管といった改革を進めている。

写真2 円借款事業によって改修された幹線水路および基幹施設(アンドラ・プラデシュ州クルヌール)
写真2 円借款事業によって改修された幹線水路および基幹施設
(アンドラ・プラデシュ州クルヌール)

5.灌漑ポテンシャルの理想とのギャップ
  水資源開発や水利用の拡大を図るインドではあるが、灌漑現場を見てみると、実際の灌漑可能能力は計画との大きなギャップがあり、政府試算によると1400万haの格差が生じているといわれている。その理由にはさまざまな要因が考えられるが、現在の業務を通じて感じた主だった要因を以下のとおり列挙してみる。
(1)事業計画と異なる営農実態
  通常インドでは、修正ペンマン法を用いて作物別の蒸発散量を算出し、作期毎の管理用水量、有効雨量を加味したうえ、地形や土壌条件に応じて作物毎に一定率を乗じて計画上の必要用水量を算出しており、これら必要用水量の70〜80%をもって灌漑できる面積を決定している。他方、実際の作付状況を見ると、乏しい営農技術や限られた流通・市場環境などにより、農作物の多様化が進まず、多くの農家は消費水量が大きいものの、収益性の高い作物を導入する傾向が強い。確かに事業実施で灌漑の利便性が向上するため、市場価格の優勢な作物を導入する傾向はどの国でも見られるが、インドの農業形態は依然として天水依存型であり、加えて毎年のように発生する洪水や干ばつに対して、農家は少しでも減収分を補おうとしており、計画と実態との格差が埋められていない状況にある。
(2)水管理能力と意識の低さ
  インドの灌漑システムは幹線水路、2次水路、3次水路以降の末端水路に区分される。このうち幹線水路・2次水路までは州灌漑局が水利組合の参加を得て建設・改修し、3次水路以降の末端水路の改修は灌漑局やNGOの支援を得て水利組合が行うこととなっている。一方、施設の維持管理については、基幹施設や幹線水路を除く2次水路以降を管理上適切な一定の受益エリアで組織した水利組合またはその連合体で行うこととなっている。
  参加型による維持管理は90年代より導入されたが、依然としてその管理形態は定着しているとはいい難い。水利組合の運営資金となる水利費徴収についても、低い水準のままである。従来、灌漑施設の整備・維持管理は政府が行ったが、施設の維持管理不足と財政負担の圧迫などを受けて、農民参加型の維持管理体制を導入した。インド国民には、飲料水と灌漑は政府が整備してくれるものとの考えがあり、トップダウンでの施策導入は、維持管理の手法や費用確保など予備的知識や経験を有していない一般農民にとって、素直に受け入れ難いものであったと推測される。
(3)事業計画・制度上の課題
  維持管理に当たっては、施設設計面でも大きな問題がある。先に述べたように事業計画は作物必要水量の約70〜80%しか灌漑されないとともに、水管理・制御施設の整備が十分なされていない。これに加えて施設の老朽化や維持管理不足などによる施設の機能低下が進行し、上流優位での過剰取水や盗水、自己中心的な作付などにより、上下流間や末端農地において、水配分の不均衡がいっそう加速することとなった。
  現在の灌漑事業は新規開発から、16世紀のイギリス領植民地時代に整備された大・中規模灌漑施設の改修・拡張へシフトするとともに、新たな水資源・水利用を確保する場合でも、施設目的の多様化を追求している他、地域開発が遅れ貧困率が高い条件不利地域などで、2000ha未満の小規模灌漑事業を実施、水利組合の組織化・維持管理にも力を注いでいる。現在の制度は事業実施に当たり、各州政府は水利組合と共同踏査、計画・設計の確認、建設の共同管理などの事業協力を確認する覚書を締結することになっているが、一般的な組織形成手順は灌漑工事完了後から開始されるため、新規地区において組織形成が遅れると、施設管理の移管が遅れ、農民の更なる意識低下をまねいている。

図2 種別灌漑面積の推移

(4)地下水が支える灌漑
 インド農業にとって灌漑は大きな役割を果たしているが、その主流となっているのが実は井戸を利用した地下水灌漑である。緑の革命が始まった当初は、地表水を使った灌漑が農業生産増大の中心的な役割を果たしてきたが、現在、地下水灌漑が全灌漑面積の半分以上を占める状況になっている(図2)。
急速に普及した地下水灌漑は、政府による大規模灌漑事業がなかなか完了をみないことに比べて投資額が少なく、個々の農民は自己資金や銀行などの融資を活用し、積極的な導入を図った。また、地下水資源の所有権があいまいで、土地持ち農民は誰もがポンプを設置することが可能であったこと、農業・灌漑用の電力料金体系が非常に安価に設定されていたこと、電力料金が揚水量ではなく、ポンプ能力に応じて徴収されていることなども挙げられる。この結果として、水資源に乏しい半乾燥地域での過剰揚水・地下水枯渇という事態が発生し、農業生産に深刻な影響を与えつつある。

6.おわりに

写真3 老朽化・維持管理不足により機能低下した2次水路(アンドラ・プラデシュ州チュウジチャラ)
写真3 老朽化・維持管理不足により機能低下した2次水路(アンドラ・プラデシュ州チュウジチャラ)

  インドにとって、水問題は死活問題といえる。先行きが不安視されるインド農業であるが、ここ数年インド政府は政策転換を図り、農業の再構築に向けて、農村や貧困削減に向けた積極的な政策を打ち出している。水資源の確保および水利用効率の向上を通じて食料需給および人口を維持することは決して容易ではないが、我々が携わる灌漑技術・制度は大きな役割を果たすだろうと期待している。

〈参考資料〉
Ministry of Agriculture, Government of India, Agricultural Statistics at a Glance 2006-07
Ministry of Water Resource, Government of India, National Water Policy 2002
Ministry of Agriculture, Government of India, Agriculture Policy: Vision 2020
National Development Council, Govern-ment of India, 10th Five Year Plan 2002-2007
須田敏彦、「インド経済の諸課題と対印経済協力のあり方に係る研究会」報告書第3章(財務省委託)、国際金融情報センター、2006

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