中国の農業水利

(有)プラグマティカ 飯嶋孝史

1.はじめに
  一衣帯水の関係といわれるように、中国と日本は、地理的に近く、古くから文化、社会、経済などのあらゆる分野で密接な関係があり、私たちが隣国として、中国に興味を持つのは当然のことである。それに加え、多くの人口を有する中国の農業水利は、日本あるいは世界の経済、社会に大きな影響を与えうる問題と密接な関係がある。このため、私たちは隣国の事情に対して自然に抱く興味ということだけでなく、特別な視点をもって中国の農業水利を注視していくべきであろう。ここでは、食料生産および水問題という二つの視点から中国の農業水利を概観する。

2.食料生産と灌漑
  中国は約960万km2の国土面積(日本の約26倍)、約13億人の総人口(日本の約10倍、世界人口の約1/5)を有する大国で、総人口は年1%程度の増加を続けており、近年は増加率が鈍化する傾向にはあるものの、それでも今世紀半ばのピーク時には約16億人に達するといわれている。このように膨大な人口をかかえる中国の農業生産、とくに主食であるコメや小麦などの食料生産の動向は、全世界の食料需給に大きな影響を与えるものとなっている。

図1 中国の食料生産量と作付面積の動向(1978〜2006)

図2 中国の食料の作目別生産量(1978〜2006)

  1990年代前半、中国の食料作物(中国の統計では「食料」には穀類、マメ類、イモ類を含んでおり、ここではその定義に従う)の生産量は年間4.4億〜4.5億トン程度で安定的に推移していたが、96年から99年までの4年連続で年間約5億トンの豊作を記録した(図1)。しかし、2000年には作付面積が前年に比べて約4%、470万ha(日本の総農地面積を上回る)も減少し(図2)、総作付面積に占める食料作物の作付面積の比率が史上初めて70%を下回った。また、食料生産量も約4500万トン減少しておおむね95年の水準となった。
 90年代におけるこのような食料生産の動向は、中国農政の変化が反映されたものである。
 中国政府は農家の生産意欲を刺激して食料増産を図るため、94年からそれまで低く抑えてきた穀物の政府買付価格を引き上げるとともに、無制限に買い付けるという価格支持政策を実施しており、96年から99年までの豊作はその効果の現れといえる。
 しかし、この連年の豊作は食料の過剰在庫の増大とそれに伴う深刻な財政負担をまねいた。そのために中国政府は価格支持政策の見直しを行い、99年には買付価格を引き下げ、2000年には低品質のコメや一部地域の小麦とトウモロコシの支持価格による買付対象からの除外といった措置を講じた。これらは高品質産品、経済作物、畜産への転換といった農業構造調整の一環でもあり、その頃に加入手続きが進められていたWTO加盟後の価格支持廃止の準備という意味合いもあった。2000年の食料作物の作付面積、生産量の大幅な減少は、この政策見直しの反映といえよう。
 その後、2000年から05年にかけて食料作物全体の生産量はおおむね増加傾向にあるが、作物別に見るとトウモロコシがとくに増加している。畜産振興に伴う飼料用トウモロコシの需要が増大しているためと思われ、是非はともかくとして農業構造の調整が着実に進行している様子がうかがえる。
 なお、03年には、食料生産量、作付面積ともに急に落ち込んでいる。その要因について、農民の農業生産意欲が減退したためであると説明している文献もある。たしかに、中国全体の経済発展に伴って都市への出稼ぎ者が増加するなど、農民の農業離れは進んでいるが、それがさらに拡大していると見られる04年以降に再び食料生産量の増加傾向が見られるので、意欲減退だけで03年の落ち込みを説明するのはやや無理があるだろう。とはいえ、03年において食料生産にこれだけ大きな変化をもたらすだけの大災害などがあったという情報もなく、この落ち込みについては、今後の調査・研究を待ちたい。
 膨大な人口を養うための食料を確保することは中国政府の大きな政策課題であるとともに、人類全体の食料安全保障に関わる重大な関心事であるが、ここで、その食料生産は農業水利が支えているということを指摘しておきたい。
 中国も他の諸国と同様、第2次世界大戦後に灌漑面積を増大させており、過去の半世紀あまりに、中国の灌漑面積は約1500万haから現在の5660万haまで増加した。また、全農地面積の46%を占める灌漑農地で生産された食料作物は、全国総量の75%を占めており、経済作物にあっては、全体の約90%以上を占める。
 中国の食料生産は、大まかにいえば長江流域以南の湿潤地帯における水田地域と、黄河流域を中心とした乾燥・半乾燥地帯における小麦やトウモロコシを主体とする畑作地域が担っている。前者の水田地域におけるコメの生産が、用排水路などの灌漑システムとその適切な管理がなければ安定しないのはいうまでもないが、後者の畑作地域においても河川からの引水や地下水による灌漑がなければ成り立たない。日本は降水量が比較的多いため、小麦およびトウモロコシ畑への灌漑の重要性はなかなか実感し難いが、中国の乾燥・半乾燥地域の穀倉地帯では灌漑が不可欠なものであることに注意する必要がある。
農業水利の発展による食料生産の拡大と安定は、中国の歴代政権が一貫して重視してきた政策課題であり、灌漑・治水・舟運を内容とする水利事業は古代から歴代王朝や地方政権によって連綿と営まれてきた。中華人民共和国成立(49年)後もそれは引き継がれ、50年代から70年代にかけては近代土木技術と莫大な労働力の投入によって大規模なダム、頭首工、水路などの基幹的な農業水利施設の建設が盛んに行われた。さらに、90年代以降においては、後述の水資源問題とも絡み、節水灌漑技術の普及や水利施設の更新・改良、さらには灌漑管理体制の改革などが加速されている。
 90年代以降の節水灌漑技術の普及などは、水資源問題の緩和を第一の目標に掲げて展開されているが、中長期的な観点からは膨大な人口を養い続ける食料生産を支えるための条件整備であることは間違いない。その動向は、日本を含む世界全体の食料安全保障につながる問題として注視していくべきであろう。

3.水問題と節水灌漑の取り組み

図3 中国の用途別用水量の推移(1949−2002)

  中国では70年代末の「改革開放」以来、経済・社会の急速な発展に伴って工業用水や都市生活用水の需要量が急速に増加してきた。用途別の用水量の推移(図3)を見ると、80年頃までは農村用水(農村地域の生活用水も含む。大部分は灌漑用水)がおおむね9割以上を占めており、用水量全体の増加も主に農村用水の増加によるものであった。しかし、それ以降の農村用水の用水量はほぼ横ばいであり、一方で、工業用水、都市生活用水の増加割合が大きくなっている。
  このように用水量が増大を続けているのに対して水資源の開発が追いつかず、深刻な水不足が発生することが懸念されている。90年代後半には黄河本流の下流部で流水がなくなる「断流」現象が頻発したが、この時期に黄河断流が深刻となったのは、上・中流域での用水量の増大が大きな要因であるといわれている。黄河断流は日本のメディアでも大きく報じられ、中国の水不足問題が現実のものであるということが強く印象づけられた。

表1 中国の水需給長期予測

  中国内の研究によれば、水資源の開発可能量はまだ十分にあり、水供給量を増加させることは可能だが、今世紀初頭には需要量の増加速度が供給量のそれより上回るために水需給のアンバランスが顕著になり、2030年頃には水の不足量が年間400億〜500億m3のピークに達すると予測されている。
 90年代、社会全体で水需給の逼迫(ひっぱく)傾向が顕著になってきたことを背景に、用水量のうち大きなウェイトを占めてきた農業用水の合理化が強く求められるようになってきた。とはいえ、灌漑は食料生産を確保するための重要な役割を担っており、単純に灌漑用水を減らすわけにはいかない。
 そこで「節水灌漑」がクローズアップされ、水利用を効率化することによって、灌漑用水量を増大させずに、あるいは地域によっては灌漑用水量を減らして他の用途に転用することをも可能としつつ、灌漑面積を維持ないしは拡大して、食料生産の安定と水不足問題の緩和を両立させていこうとしている。加えて、節水灌漑の推進は、節水灌漑のための施設、灌漑手法の改善を通じて、伝統的な農業から効果の高い現代的な農業へ転換し、農家収入を大幅に向上させ、農村経済を発展させるという意義も併せ持つ。

写真1 水路のライニングによる漏水防止
写真1 水路のライニングによる漏水防止

  なお、日本で「節水灌漑」というと、一般には降雨の有効性を高めるための少量灌漑や、作物の根元のみに部分灌漑を行うなど、標準水量より少ない水量で灌漑する方法を指し、点滴灌漑のようなマイクロ灌漑などが該当するが、中国では、それらに加えて水路のライニングによる漏水防止(写真1)、低圧パイプライン送水、スプリンクラー灌漑なども含まれ、さらには管理設備の設置や管理体制の整備までも節水灌漑のための対策とされており、非常に幅の広い概念となっている。
 90年代における水不足の顕在化と農業用水の合理化に関する中国政府の対応は、いくつかの具体的な政策として現れている。まず、93年には水利部直属の機関として中国灌漑排水技術開発研修センター(2000年に「中国灌漑排水発展センター」に改組)が設立され、節水灌漑技術の開発や普及に本格的に取り組む体制が整えられた。96年の中央農村工作会議では、国民経済社会発展第9次5か年計画(以下第9・5計画)期間(96〜2000年)において全国で300か所の「節水増産重点県」建設を行う方針が決定され、それらに対する中央政府の財政支援(利子補給など)が行われることとなった。さらに96年からは、老朽化や資金の不足による管理の不備などから機能が低下し水資源の有効利用の妨げとなっている大規模灌漑地区を対象として、水利施設の更新や改良に対する中央政府による直接投資(補助金)も始められた。
 第11・5計画(06〜10年)では、節水灌漑に関する目標を、灌漑面積の増加104万ha、灌漑システムの改善475万ha、節水能力の増加125億m3/年などとしており、具体的には、70の大型灌区の節水改造を完成させるとともに、30の灌区をモデル灌区として、灌漑排水システムの改造と管理体制・メカニズムの改造を行い、灌区管理のメカニズム・方式の基準を確立し、全国の節水型灌区に普及・指導することとしている。
 また、「節水」は農業部門に限らず経済、社会全体で取り組むべき問題であるとの認識も高まり、90年代における中国内の水を巡る議論は、第10・5計画(01〜05年)における「節水型社会を確立する」という政策目標に結実した。さらに第11・5計画(06〜10年)では、水以外の資源問題や環境問題とも絡んで「資源節約型・環境友好型社会を建設する」という政策目標の中に昇華され、用水の節約は引き続き中国国内において重点的な課題として取り上げられており、中国の食料を支える水資源政策について引き続き注目する必要がある。

〈参考文献〉
中華人民共和国国家統計局:中国統計年鑑各年版、中国統計出版社
水利輝煌50年編集委員会:水利輝煌50年、中国水利水電出版社(1999)
中国水利部南京水文水資源研究所,中国水利水電科学研究院水資源研究所:21世紀中国水供求、中国水利水電出版社(1998)

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