水資源と世界の食料生産
―イスラムの膨張と水資源―

東京大学大学院 農学生命科学研究科
准教授 川島博之

 農業と水とは、切っても切れない関係にある。農業とは植物を育てて食料を生産する産業であるが、いうまでもなく水がなければ植物は育たない。一方、食料を消費する人間の数は増え続けている。2000年の世界人口は60億人であったが、2050年には90億人になるとされる。人口が増えれば必要な食料も増えるが、地球には増加する人口を支えるに十分な水が存在するのであろうか。食料の多くを海外に依存するわが国にとって、世界の水事情を正確に把握しておくことは重要な課題である。しかしながら、これまで世界の水問題を食料生産との関連で論じたものは、ほとんどないように思う。ここでは、世界の水資源と食料生産の関係について、マクロな視点から検討してみたい。

1.農業と灌漑

表1 灌漑面積が全栽培面積に占める割合   農業と水の関係を考えるとき、世界の農業は天水農業と灌漑農業に分けることができる。ここで、天水農業とは雨水に依存した農業である。日本では水稲の栽培が盛んであるが、水稲作に灌漑は欠かせない。適切な水管理ができなければ、安定的にコメを作ることは困難である。このため、狭い国土に多くの人口を抱えるわが国では、有史以来、営々と灌漑施設の整備と拡充が行われてきた。日本では灌漑面積の全栽培面積に対する割合である灌漑率は81%{灌漑率はFAOデータに示される灌漑面積を総作付面積で除すことにより求めた}(03年、FAO)にもなる。ところが、東南アジアでは未だに雨期になると籾をまき、水稲を栽培しているところがある。このような水田は天水田と呼ばれるが、水の供給は天候まかせであることから、毎年一定の収穫をあげることは難しく、また、水管理が十分にできないことから収量も低い。日本人は水稲を中心に農業を見るから、天水田の連想から天水農業は遅れた農業との印象を抱きがちである。しかしながら、広く世界を見るとき、天水農業を遅れた農業と見なすことはできない。
  世界の農業はきわめて多様であり、一まとめに論じることは難しい。ただ、あまり細かく分けても、却って全体像の把握が困難になる。ここでは世界を20の地域に分けて検討してみたい。表1には20に分けた地域ごとの灌漑率を示すが、先進地域である西ヨーロッパや北アメリカの灌漑率は必ずしも高くない。北アメリカの灌漑率は18%、西ヨーロッパは13%に過ぎない。その北アメリカで05年において4億1700万トン、西ヨーロッパでも1億4300万トンの穀物が生産されている。これは1人当たりの生産量として北アメリカでは1261kg、西ヨーロッパでは574kg(05年、FAO)に相当する。天水農業でも、十分な食料が生産できているわけである。
  北アメリカや西ヨーロッパでは主に小麦やトウモロコシが栽培されている。小麦とトウモロコシはコメと並んで3大穀物と称されるが、それは水田ではなく畑で栽培される。トウモロコシで年間800mm程度、小麦では500mm程度の降雨があれば栽培が可能であり、むしろ小麦の場合には降雨量が多いことは生育の妨げになる。
  このような理由から、北アメリカやヨーロッパの灌漑率は低いものになっている。先に東南アジアには天水田が存在することに言及したが、このことにより東南アジアの灌漑率は17%と低い。この地域には、開発途上国が多くて灌漑設備の建設が遅れているためであるが、一方で降雨量が多いために、天水田でもある程度の収穫が得られ、加えて水田面積当たりの人口が日本や韓国などに比べて比較的少ないので、天水田でも十分な食料が得られたという事情もある。
  一方、水稲作をほとんど行っていない西アジアと旧ソ連(アジア)における灌漑率が高くなっている。穀物としては主に小麦が栽培されているが、小麦は降雨量が少ない地域でも栽培できるため、両地域に好適な作物であるが、その必要最小限の降雨量すら得られないところが多い。そのようなところでは、灌漑水により小麦が生産されている。

2.水資源と取水量

表2 水資源と灌漑

  表2に各地域の水資源量と取水量を示す。ここで、水資源量とは各地域で毎年新たに使用することができる淡水の量である。取水された水は家庭や工場、また農業に使われることになる。地域により若干の違いはあるものの、世界全体を見れば水資源の約7割は農業に使われている。
  世界には4万1204km3もの水資源があるが、これは東京ドーム3300万杯にも相当する。現在、人類が利用しているのはこのわずか7%に過ぎない。世界全体を考えるとき、地球にはまだまだ十分な水資源があるといってよいだろう。取水率(取水量/水資源量)では東南アジア、オセアニア、太平洋諸島、北ヨーロッパ、旧ソ連(ヨーロッパ)、西アフリカ、中央アフリカ、南アメリカでは2%以下にすぎない。西アフリカや中央アフリカでは人口爆発が懸念されているが、表2に示すほどの水資源があれば、その絶対量が問題になることはない。
  一方、東アジア、南アジア、西ヨーロッパ、南ヨーロッパ、東ヨーロッパでは取水率は15〜28%になっている。これらの地域は人口密度が高く、また長い歴史を有していることから、有史以来、少しずつ水資源の利用が拡大したのであろう。ただ、これらの地域では人口爆発が収まりつつあることから、今後、中国北部やインド南部において部分的に水不足が問題になることはあっても、現在の取水率からして、全体として水不足が深刻化することはないものと考える。

3.イスラム人口の増大と水危機

表3 イスラム人口の膨張

  すでに水不足であり、今後、ますます悪化するであろう地域がある。それは、取水率が153%の北アフリカ、57%の旧ソ連(アジア)、49%の西アジアである。北アフリカの取水率が100%を超えているのは、水資源量の多くを域外に依存していることによる。たとえば、ナイル川の水源は東アフリカにある。
  この3地域には砂漠が広がり、またイスラム教徒が多く住んでいる。表3に示すように、1950年において1億3700万人に過ぎなかった3地域の合計人口は2000年に4億7200万人、2050年には8億9200万人と1950年比の6.5倍にもなると予測されている。とりわけ、西アジアの増加が著しい。因みに、同じ期間に世界の人口は3.6倍にしか増えない。
  これは大きな目で見れば、16世紀頃からヨーロッパのキリスト教徒に敗れ続けてきたイスラム教徒が、石油の産出により自信を取り戻し、復権運動を行っている過程との見方もあるようだ。しかしながら、もともと砂漠が広がり水資源の少ない地域での人口急増は、この地域における水供給、ひいては食料生産を不安定なものにしている。表1に示したように、この地域の灌漑率は高いが、それに必要な水資源が十分に存在しているとはいえない。有名な環境問題に、旧ソ連(アジア)に所属するカザフスタンとウズベキスタンに跨るアラル海の縮小問題があるが、これはアラル海に流入する河川から灌漑用水を過剰に取水したことにより生じた。

4.地下水を用いた穀物生産
  サウジアラビアにおける穀物生産の現代史は、西アジアに位置する「砂漠の国」での食料増産がいかに困難なものであるかを教えてくれる。FAOの統計は1961年にまでしか遡れないが、この年の1人当たり穀物消費量は159kgであった。穀物消費量には直接食べる分と飼料に回す分が含まれるが、この量では家畜飼料に回す分はほとんどない。因みに、同年の日本では266kgである。
  しかしながら、石油輸出により所得が向上すると穀物消費量は増加し、84年には747kgと西ヨーロッパ並みになった。穀物が家畜飼料として大量に使われるようになったためである。この増加は主に輸入により賄われ、最大800万トンに迫る年もあった。しかし、自給率低下に不安を感じるのはどこの国も同じなようで、サウジアラビアでは豊富な石油収入により地下水を汲み上げる設備を整備し、穀物を増産した。その結果、90年の生産量は400万トンを突破し、穀物をほぼ自給できるようになった。しかし、この状態は長く続かなかった。穀物を生産するために汲み上げていた井戸の水が枯渇したためである。
  これにより90年代中ごろから生産量が急減し、それ以後は200万トン台に低迷し、穀物輸入量は再び増加して700万トン前後にも達することになった。ただ、人口が増加している割には、穀物輸入量は増加していない。これはサウジアラビアの食肉供給が、穀物飼料を輸入しての国内生産から食肉を直接輸入する方法に移行しつつあるためである。
  地下水の枯渇が一国の農業生産を左右するような現象は、広く世界に存在するのであろうか。地下水を汲み上げて行う農業としては、アメリカのロッキー山脈の東側に存在するオガララ帯水層の化石地下水を利用した農業が有名であるが、ここでは、その農業がアメリカ農業全体に占める役割について検討してみよう。
  同国は世界の穀物の約16%を生産し、世界最大の穀物輸出国である。この化石地下水の枯渇により穀物生産が低下すれば、日本の食料供給にも大きな影響を与えることになる。
  オガララ帯水層に関連する州はサウスダコタ、ネブラスカ、ワイオミング、コロラド、カンザス、オクラホマ、ニューメキシコ、テキサスの8州である。アメリカの07年のトウモロコシ生産量は3億3300万トン、小麦が5200万トンであった。同年の8州合計の生産量はトウモロコシが3900万トン、小麦が1900万トンであったが、全米に比べ8州では小麦が多く生産されているといえる。これは小麦の生産が、西部の8州のような乾燥した地域に向くためである。
  つまり、オガララ帯水層に関連する8州で、全米で生産される穀物の15%が生産されているわけである。ただ、この8州で生産される穀物の全てが化石地下水で生産されているわけではない。現在、8州の合計で約520万ヘクタールほどが化石地下水により灌漑されているとされるが、これは全米の現在の栽培面積の約5%に過ぎない。アメリカの農業はサウジアラビアとは異なり、その全体が化石地下水に大きく依存しているわけではなく、最大の穀倉地帯は五大湖の南側に広がり、この地域では主に天水に依存した農業が行われている。
  アメリカの穀物栽培面積は19世紀から20世紀前半にかけて増加したが、その後は徐々に減少している。これは農業技術の発達により単収が増加し、これまで栽培してきた全ての農地で生産を行うと、生産が過剰になるためである。ピーク時(9500万ha前後)と現在の栽培面積の差は4000万haにもなるが、これはオガララ帯水層により灌漑が行われている面積の約8倍に相当する。
  オガララ帯水層の化石地下水を利用しなくとも、全米としてみれば十分な穀物の生産が可能である。化石地下水を利用した農業が行われている8州は、東部やカリフォルニア州などにくらべて経済発展が遅れている。その遅れた州で営まれている農業の保護という観点から、化石地下水を利用した農業が維持されているということが、この問題の本質であろう。
  紙幅の関係で詳細は記述できないが、アメリカだけでなく南アメリカにも膨大な食料生産余力がある。一方、サウジアラビアなど西アジアでは人口の急増に食料生産が追いつかない。さらに、このような地域で無理に農業生産を上げようとすると、アラル海の縮小やサウジアラビアの地下水枯渇のような環境問題が新たに引き起こされる。
  地球上の人口と水資源は極めて偏在している。人類は21世紀において、地球のどこで食料を生産すれば環境に悪影響を及ぼすことなく生産が可能か、地球資源の有効利用を真剣に検討する時期にきている。

〈データ出典〉
Mitchell B.(1998)“International Historical Statistics” Macmillan Reference Ltd. (邦訳: 中村宏、中村牧子(2001)「マクミラン新編世界歴史統計 [1] ヨーロッパ歴史統計」、東洋書林)
United Nations, Department of Economic and Social Affairs, Population Division(2005)“World Population Prospects CD-ROM The 2004Revision” United Nations
http://www.fao.org/waicent/portal/statistics_en.asp
http://www.usda.gov/wps/portal/usdahome

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