私の履歴書 −国際編−

東洋大学 国際地域学部
教授 吉永健治

 著者は35年のキャリアのうち、国内外において国際的な仕事に20数年も関わってきた。海外での生活はローマ、パリ、マニラで10年を超える。仕事の内容も積み重ねた経歴とともに多様である。この機会を利用して、海外での生活や仕事の内容について、現在から過去に向かって振り返ってみたい。

新天地:大学で国際問題に取り組む
  現在、著者は東洋大学国際地域学部国際地域学科および大学院で国際協力論、農村地域開発論、地球的環境問題などの科目ついて教鞭を取っている。同学科は、主に開発途上国における村づくりや街づくりなど地域開発に関して、多様でユニークな科目を提供している。学生の多くは国際的な問題に関心を持って入学してくる。学生に対して、いかに自らの経験をもとに国際的な知識を付与するかに腐心している。その一環として、夏期休暇を利用してゼミ生に対する海外での現地研修を実施している。 2007年度は「フィリピンでミレニアム開発目標(MDGs)を学ぶ」をテーマにフィリピンにおける国連(FAO、UNICEF)、アジア開発銀行(ADB)、国際稲作研究所(IRRI)、フィリピン国家灌漑庁(NIA)、フィリピン大学農学部などを訪問して現地研修を行った(2006年度はラオスで実施)。こうした現地研修は学生にとって初めての経験であり、国際協力や国際問題について関心を高める絶好の機会でもある。現在は大学での国際問題との関わりは学術的で教育的な面に限られているが、今後その活動の範囲を拡大していきたい。その足がかりとして国連高等研究所(UN−IAS)の客員教授として、ポストドクター・フェローシップ・プログラムに参加している。

写真1 国際稲作研究所ロビーにて(フィリピン、2007年)
写真1 国際稲作研究所ロビーにて(フィリピン、2007年)

写真2 日本のNGOによる子供の家にて(ラオス、2006年)
写真2 日本のNGOによる子供の家にて(ラオス、2006年)

国連FAO:後ろ髪を引かれた退職
  FAO農業局土地・水開発部長のポストを4年間務め2年前に退職し大学に入った。FAOへの採用、退職は劇的であった。とくに、退職には決断と大変な努力を要した。自分の経験や能力を試すために応募した大学への転職とFAOを退職すべきかで大いに悩んだし、FAOの幹部や同僚、大学、農林水産省にも大変な迷惑をかけた。FAOは日本人の幹部が少ないこともあり、上司であったフレスコ局長(現アムステルダム大学教授)にぎりぎりまで留任を求められた。そのため、退職2週間前まで同僚に対してその旨を報告することが許されなかった。同僚の課長の一人が退職の判断は「部の職員全員の投票」で決定すべきと言い出したのには感激した。仕事にも慣れ、同僚にも信頼されるようになった時点でFAOを退職することには後ろ髪を引かれる気持ちであった。今なお後任の人事が滞っていることを耳にするたびに、FAOの退職は最適な選択であったかどうか考えさせられる。在職中は土地・水に関する技術的な面より、むしろ人事や予算など行政面での業務が中心だった。外からは見えない国連組織の非効率さや硬直性に、いやと言うほど直面した。その度に喧嘩腰で議論をした。部屋から一望できるコロッセオ、カラカラ浴場などローマの歴史的景観は多忙な毎日を癒してくれた(FAOビルの中で、最も展望の良い部屋で羨ましがられた)。
  一方では貴重な経験もした。在任中、ボン、京都、ヘイグなどで開催された一連の水会議などの国際会議の企画と参画や加盟国の現地視察など、国連職員として一味違った経験をした。また、4年目の後半には国連本部の持続的開発委員会(CSD)に2度参加する機会を得た。参加する以上、一言発言しようと競ってフラッグ(国名、機関名を書いた札)を立てた。国連の委員会は基本的には加盟国の発言を優先することから、発言の指名を得るのに5時間以上も待たされた。それでも国連本部での発言をできる機会を得たことは、目的としたところまで行き着いたかという感がした。FAO退職の決断の些細な言い訳にもなった。

写真3 FAO土地・水開発部長室で篠原孝衆議院議員とともに
写真3 FAO土地・水開発部長室で篠原孝衆議院議員とともに

写真4 エチオピア・アジスアベバで開催された国際水会議で同僚のMs.Sashaと
写真4 エチオピア・アジスアベバで開催された国際水会議で同僚のMs.Sashaと

OECD:多くのことを学んだ5年間
  1991〜95年の5年間、OECD農村地域開発プログラム(現、パブリックガバナンス・地域開発局)に勤務した。同プログラムは、1991年、日本と米国を中心とした働きかけにより官房直属の組織として発足した。その背景として、農業委員会で農業保護削減(PSE/CSE)の嵐が吹きまくっているなか、農業を農村地域開発の中で捉えようとする機運が高まってきたことにある。組織は、米、仏、日本、ドイツ、スイスの5名のスタッフからなり、農村地域における雇用創設、アメニティと環境、市場開発、農村指標開発などを手始めに作業と議論を開始した。
  著者はニッチ市場開発、指標開発、アメニティなどの作業に関わった。委員会の開催とそのための討議用ドキュメント作成が主要な業務で、その他にワークショップ、セミナーの開催などにも追われた。OECDのドキュメントはアカデミックでもあり官僚的でもあり、優れたドキュメントを作成するには対象となる課題に通じているばかりでなく、加盟国の興味をそそる内容であることが求められた。そうした英文ドキュメントを作成した経験がない著者にとっては大変な苦労を伴った。2年がかりで作業し議論を行った「農村地域開発戦略としてのニッチ市場開発」は好評を得た(もちろん他のスタッフの手助けを得て)。その後、EU主催のセミナーや欧州会議などに招待されるようになった。任期末になり、直接担当することはなかったが農村アメニティに関する作業がスタートし、その後農業局における農業の多面的機能に関する分析と議論に結びついた。この課題に関しては、帰国後、日本政府の一員として対応した。
  一方、委員会が終わると自由な時間も多く取れた。多くの時間を経済学やゲーム理論の基礎的な勉学に費やした。帰国後、農業総合研究所(現農林水産政策研究所)に勤務し、環境経済学、メカニズム・デザイン理論や情報の非対称性の経済学にも関心を抱き、ゲーム理論を中心とした論文で博士号を取得する機会に恵まれた。その後、後任の雜賀幸哉氏をはじめとする同僚達に押されてOECD農村開発委員会の議長を拝命することになるとは夢にすら思わなかった。OECDでの経験はその後の進路における貴重な羅針盤となり、現在の著者の関心や興味の礎となっている。また、パリでの生活は一番の思い出として残っており、その後も機会を見て訪れている。

写真5 発足当時のメンバーの紹介、入館証(議長と表示)、出版物
写真5 発足当時のメンバーの紹介、入館証(議長と表示)、出版物

写真6 OECD農村地域開発プログラム発足時のメンバー
写真6 OECD農村地域開発プログラム発足時のメンバー

フィリピン国家灌漑庁(NIA):駆け出しの頃
  フィリピンのマルコス政権のもとで、NIAはアジアで最も優れた灌漑機関と言われた。予算も十分で、幹部もスタッフも優秀でプライドも高かった。1978年から1980年にかけて、JICAの水専門家として勤務した。30歳未満の若さで海外勤務を経験することになった。当時の日本大使館勤務の岩本荘太書記官や先にNIAに赴任されていた宇和川正人専門家には仕事面、生活面を問わずお世話になった。NIAでの業務はUPRIIS(Upper Pantabangan River Integrated Irrigation System:世銀、後にJBIC支援)におけるパンタバンガン・ダムと約10万haの灌漑受益地における水管理を担当した。NIA本部のあるケソン市と現地事務所のあるカバナツアン市を、片道4時間かけて往復した。ダムまではさらに2時間要した。水管理に関する経験の浅さや英会話の未熟さもあって、仕事を円滑に進めるのに苦労した。むしろ、NIAのカウンターパートやスタッフに教えられることが多かった。
  フィリピンは年20〜25回の台風に見舞われる。1978年10月、ダムが満水になり乾季が始まろうとする時期に大型の台風Kadingが中部ルソンを襲った。隣接するアンガット・ダムではダム水管理の拙さから、数百人を超える多数の死者を出し大きな問題となった。パンタバンガン・ダムの管理についても、NIA長官が国会で答弁を求められるなど政治的な問題に発展した。著者は台風前後におけるダムの水位の変動を綿密に分析し報告した。結果として、その報告がパンタバンガン・ダムの水管理が適正であったことを裏付けることになった。著者がNIAに対して、最も自慢できる貢献でもあった。2007年8月に学生の現地研修でNIAとUPRIISを30年振りに訪れ、大変に丁寧な対応を受けた。フィリピン人のホスピタリティとかつてのNIAの同僚に対する思いやりを痛感した。

写真7 2007年度ゼミ生研修におけるNIA長官への表敬(右端は國枝JICA専門家)
写真7 2007年度ゼミ生研修におけるNIA長官への表敬(右端は國枝JICA専門家)

写真8 バナウエの棚田(世界遺産)を背景に宇和川氏と(1979年)
写真8 バナウエの棚田(世界遺産)を背景に宇和川氏と(1979年)

国内における国際業務:多様な業務への挑戦
  国内において海外技術協力や国際問題に関わった期間も10年を超える。現在の大学を含めて、農林水産省国際協力課、国際企画課、農用地整備公団海外事業部、農業総合研究所ヨーロッパ研究室と関わった業務の内容も国際協力、国際交渉、国際問題研究など多様である。なかでも、国際企画課OECD担当課長補佐時代の経験は最も過酷な国際業務として記憶に残っている。在籍した1985〜87年はOECDにおいて国別の農業政策レヴューが行われ、農業保護削減に関する議論が集中的に行われた時期である。OECDが開発に着手した各国の農業保護水準を示す指標PSE/CSE(生産者/消費者補助金相当額)とそれに基づく農業補助金削減をめぐって、日本、スイス、北欧などの輸入国と米国、オーストラリア、ニュージーランドなど輸出国間の対立が激化した。国内では当時の大蔵省、通産省、経済企画庁、農水省、環境庁間でOECDのドキュメントに対する各省庁のコメントをめぐって、厳しいやり取りが行われた。PSE/CSEに対する欠陥を説明するために幾度も大蔵省へ足を運んだ。パリOECD本部への出張も2年半で20回を超えた。農業委員会作業部会ではPSE/CSEの議論が深夜までパンをかじりながら続いた。輸出国による包囲網の中で、当時のOECD代表部の澤野俊彦書記官とともに、日本の立場を主張し抵抗したが、農業保護削減への流れを止めることは困難であった。
  この時期は農林水産省内においてもOECDに対する関心がようやく高まりつつある段階で、省内でのPSE/CSEに対する認識を高めることにも苦労した。その後、このPSE/CSEがWTOのAMS(Aggregate Measure of Support)に引き継がれ、農業保護削減の議論を加速することになったことは周知の事実である。OECDという国際機関の異様な雰囲気、英語での発言、輸出国の攻勢、問題を背負って帰国できないと言う責任など、二度と経験できないような精神的なプレッシャーを味わった。当時の塩飽二郎国際部長、熊沢英昭、高橋梯二両国際企画課長、篠原孝OECD担当参事官など多くの上司や同僚にも支えられた。この時期にOECDに関する国内業務を担当できたことはその過酷さやプレッシャーを考慮しても、その後の著者の国際化の大きな礎となったことは間違いない。

 こうして国際業務に関わる過去を振り返ってみると、いずれのポストでも常に先陣をきって走ってきた。NIA専門家(若手で)、国際企画課OECD担当課長補佐、OECD事務局、農業総合研究所室長、FAO部長、大学の国際学部など、いずれも最初に新天地を経験した。最後に、こうした機会を与えていただいた農林水産省や農業農村工学関係の上司や同僚に感謝の意を表したい。

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