私の海外協力側面史

前日本技研(株)、元農林水産省
木村克彦

1.異文化との際会
  インドネシアはカリマンタン島、バリト河調査出張の内示があったとき、その地名から先ず始めに思ったのは漫画“冒険ダン吉”の舞台かなと、その程度の予備知識しかありませんでした。出張の仕事はOTCA(※1)のバリト河流域開発計画調査であり、時は1970年の夏でした。
  私共団員18名が投宿したホテルの場所は、南カリマンタン州の州都バンジャルマシンの中心部を流れるクリークの脇でした。蛇口からの茶褐色の水をいぶかしく思い、水元をたどってみたところ、バリト河支流の流水を汲み上げて沈殿槽を通しただけの水でした。その支流の両岸には高床式住居が立ち並び、その周辺は洗濯、沐浴に用便など庶民生活の場でした。更なる追い討ちは、ホテルの馴染のコックを暫く見ないので、彼の同僚に尋ねたところ無造作に『コレラだよ』との返事があり、これには大仰天でありました。団員はパニックに陥りましたが、後に“コレラ”とは下痢の意の外来語と分かり安堵いたしました。
  この調査の目的はバリト河流域開発のマスタープランの概定と、流域開発可能性の概略把握でありました。バリト河流域の面積は約6万km2で、その南部のバンジャルマシン周辺を除いて、大半は未開の熱帯雨林でした。住民の人種構成は東には焼畑農業のバンジャル人、上・中流域の熱帯雨林には首狩族末裔のダヤック人と、中・下流域には近代的稲作のジャワ人が入植しておりました。

写真1
写真1 タジャックによる水田準備作業

  話は飛びますが、写真1はバンジャル人の田圃の準備作業の様子です。手にする農具はタジャックと呼ばれる鍬であり、柄の先に鎌状の金具が付いていて、動作は正にゴルフのフルスイングで代掻きに代えて表土を雑草と共に薄く起こすだけの単純な作業です。この農法はバンジャル人特有のものであり、初めて見たときは後進性の証として目に止りました。いま改めてこの写真を眺めると、焼畑農法から水田農耕への移行・進化の過程での省力型農具かと推量し、その文化の背景に想いが至ります。この粗放型稲作は低コストで単収も少ないが、その後もこの稲作はこの地域の生業として健在とのことです。
  私の海外協力人生は1970年9月のカリマンタンに始まって、2003年3月のマニラに終わる30余年でありました。ここではその人生の中心となる現在の国際協力機構(JICA)派遣の専門家時代の、即ちインドネシアおよびタイでの異文化とのふれ合いや人脈形成・情報源へのアクセスなど、業務の成就に係わった諸事体験につき、その一端を想い出すまま書きました。

2.インドネシアのバンドン

写真2
写真2 灌漑局計画設計部のバンドン時代の庁舎。
オランダの統治時代に建造された荘厳な建物で、現在は西ジャワ州の庁舎となっている

  農業土木分野で最初のインドネシアへの長期派遣専門家はK氏で、任地はジャカルタにある水資源総局灌漑局でした。翌1971年の9月には、第2陣としてU氏と私がバンドンにある同総局灌漑局の計画設計部に配置されました。職場の環境は明るく家庭的で、専門家の家族もその和に加わって、バンドンでの生活をエンジョイいたしました。
  ある日の仕事に、名門バンドン工科大学の実習生受け入れ指導がありました。用水路の流量測定を指導しましたが、水に浸かるのは工学士が行うことではないようで、戸惑いを与えました。地上測量も器具運搬、三脚の整立などは助手の作業とし、工学士は采配と数値を読むだけのようでした。あとで知りましたが、助手の職分を器用にこなすことは、学士としての出自と品位を問われるとの事でした。因みに本省の局長、総局長および大臣の要職は総て工学士によって占められて、法律系は少数の専門職でありました。
  ある時、スヨノ水資源総局長が私共職場の視察時に、私の手元にある農業土木ハンドブックに氏の目が留まりました。総局長の質問に応え内容の概要を説明したところ、その内容の素晴らしさを推察し、「(その背景には、必ず英語の原典があるはずで)その原書を是非みたい」とのことでした。このご要望に対し、「農業土木学会が総力を結集したのがこの原書です」と答えたところ、更に驚かれ、是非ともこの日本語版を入手したいとのことでした。追ってその最新版を寄贈したところ、自前の技術基盤整備に向けて、幹部職員啓蒙のためのシンボルとして総局長室に展示されました。

3.タイ王室灌漑局

写真3
写真3 日本の協力で建設されたRID灌漑技術センター。
約20年間、ここで農業土木技術者による技術協力が展開された

  バンドンから構造改善局設計課の専門官として帰任し、海外業務に係わる組織および補助事業の創設作業に従事、その後JICAに出向するなどを経て、1981年6月には、タイの王室灌漑局(RID)の専門家としてバンコックに赴任となりました。RIDではアドバイザー型専門家の受け入れは初めてで、プライド高きRID幹部から私に助言を求める接近はありません。私は書面で自己の業績を紹介し、交流を得るための努力をしましたが、手ごたえはありません。

写真4
写真4 チタルダ宮殿にて小規模灌漑事業の論議。
右から順次プミポン国王、小木曽大使。左端は筆者

  そんなある日、我が秘書と他の秘書との仲良しぶりを見て、ふとした考えが浮かびました。それは目ざす要人のゆとりの時間やご機嫌は如何かなどの状況を、双方秘書の連携による内報にて察知し、訪問の時機を捉えることでした。この作戦は功を奏し、要人とは構えることなく友好裏に話すことが出来るなど、その後は好調に仕事が進むようになりました。
  その要人の一人にレック氏がいました。氏は後に局長に栄進されたとのことですが、当時はプミポン国王の裏のスタッフで、氏の任務は国王が正に天職とされる、貧困農村小規模灌漑開発の技術支援でした。氏は国王とは直通のホットラインで結ばれて、昼夜を問わず夫々が同じ地形図を睨みながら案件形成に向けて、遠隔論議を交わすとのことでした。この小規模灌漑事業はキングズ・プロジェクトと呼ばれて国民に親しまれ、その成果は1500地区を超えると言われています。
  その頃、国王はご病気静養中で外交に係わる行事は全て避けておられました。駐タイの小木曽大使は国王のご病気お見舞いにつき、外交筋を通して申し込まれましたが、取巻きのガードが固く応諾は得られないとの事でした。そんな話を小耳に挟み、大使の意をレック氏に伝えたところ、「小規模灌漑の話題であるならば……、私が打診をして見ましょう」ということとなり、氏のホットラインで事は順調に進みました。私は大使ご一行に同行し、チタルダ宮殿で灌漑専門家としての役割を果たしました。その国王拝謁の映像は、その日の午後7時、ゴールデン・アワーのニュースとして国営テレビで全国に放映されました。翌日、私はRIDで話題の人となりました。また、これを機に大使館の灌漑への理解は一層深くなり、私共にとって大使館の敷居は低くなりました。他方、国王のご病気も小規模灌漑談論の効があってか、その後は無事快方に向かわれました。

4.二度目のインドネシア

写真5
写真5 スヨノ公共事業大臣の自宅にて

  RIDから帰国し、那須野原開拓建設事業所に2年半の在職の後、1986年にインドネシアの水資源総局に再度の赴任となり、累次の延長で在任期間は6年となりました。かつてのバンドン以来の旧知の者から、「お帰りなさい……」との歓迎を受けました。多くの者は夫々栄進し、その中にかつて総局長であったスヨノ氏があり、私は氏の大臣就任後も公私にわたり変わらぬご厚誼を受けました。
  1988年12月にスヨノ氏は、日・イ両国の友好増進に多大な貢献があったとして、我が国の最高位の叙勲を受け、大使公邸での伝達式に出られました。私は氏に請われて随員を務めました。
  私の家人も同様で、ダルマ・ワニタ(※2)の分会からお招きを受けるなど、人脈の輪は広くなりました。インドネシアは母系社会で家庭での権力は主婦にあり、家族同士の交流では私は随行の立場でした。そのイベントは、上はスヨノ大臣ご令嬢の結婚式から下は用務員の子供の誕生日に至るまで、そのお招きは種々頻繁でありました。このイベントは亭主にとっては絶好の情報収集の場となって、内助の功に感謝です。
  ある日、担当局長との用談で、米国国際開発庁(USAID)が支援する小規模灌漑事業(SSIP)の予算が欠乏し、事業中断の間際にあるとのことを聞きました。このSSIPは農民参加型のプロジェクトで、NGOの参画と営農指導サービスも併せ行うものであり、時代を先取りする斬新なものでありました。 同じ頃、JICA出向時代から知り合いのY書記官との歓談で、偶然にも日米協調融資の新規案件玉探しの件を知りました。
  日本側の意向と米国側の窮状を踏まえての協調融資の案件は、インドネシアのニーズに応えて事業化は順調に進展し、インドネシア小規模灌漑管理事業として1990年に事業開始となりました。また優れた運営も相まってこの事業は、この国で最も優良な事業の一つとして賞賛されるに至りました。その詳細はARDEC第32号の佐藤氏によるKey Note“灌漑農業開発におけるNGOの役割〜東方インドネシア開発15年の経験〜”にあるとおりです。

5.おわりに
  私は職務に恵まれて、また多くの人脈と身に余る知遇を得、お陰を持ちまして幸せな農業土木人生を送ることが出来ました。公私に亘り、ご支援を賜った多くの内外の方々に感謝の念でいっぱいです。人脈の醸成には相手の期待に誠意を以って応えることであり、異文化との交流はその文化の背景の理解が肝要と心得ました。
  今年もバンドンのOB会事務局から総会の報告に合わせて会員名簿の送付がありました。その中に私の名も記載されており、親交の証として光栄に思う次第です。

〈注〉
(※1)JICAの前身で海外技術協力事業団の略称。
(※2)公務員の夫人で構成される大組織の婦人会で、部局ごとに分会がある。

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