バングラデシュの農村開発 (JICA「リンクモデル」事業)

―日バの大学・政府機関・JOCVの共同による農村研究・開発実験・パイロット事業そしてモデル・ビルディングの軌跡―

京都大学名誉教授、在バングラデシュJICA専門家
海田能宏

 バングラデシュ(以下、バ国)の農村開発公社(BRDB)は国際協力機構(JICA)の援助を受けて、参加型農村開発事業を進めている。農村サービス行政と村落をしっかり結び付ける(リンクさせる)ことを目標としているために、この事業は当地では「リンクモデル」として知られている。このJICA事業はたいへん長く続けられており、当初の農村研究から次の農村開発実験を経て、参加型農村開発パイロット事業、さらにその第2フェーズへと受け渡されてくる間に、一つの目標に向けて、実にさまざまな人たちがかかわってきた。JICA事業としてユニークなところが多いと思われるので、その20年にもわたる軌跡を紹介したいと思う。

1.農業農村研究(JSARD(※1)、1986〜90年)
  この共同研究を始めたのが1986年だから、もうふた昔にもなる。この4年間の研究は、京都大学東南アジア研究センターと同大学農学研究科熱帯農学ならびに農業経済学の若手研究者と大学院生たちが、バ国のマイメンシン農業大学および国立農村開発アカデミーのカウンターパートと行った、5地域8か村における住み込み型の共同農村研究である。研究者の出自からいうと、日本とバ国を合わせて、作物、植生、作付体系、雑草、魚類、水文、灌漑、農業経済、農村社会、人口、歴史地理、土地制度史、地方計画に及び、参加者は個々に研究論文を書く一方で、総合的な農村モノグラフを次々と出版していった。農学分野の研究にとどまらず、村内全世帯の土地所有や生計データ、そしてそれとの関連で血縁姻戚関係を調べあげたりもし、開拓と土地制度に関しては、19世紀半ば以降の地方と中央官庁の間の報告のやり取りを県古文書館のムシ喰いだらけのクズ紙の中から発掘し、整理、出版したりもした。農業と農村生活に関する俚諺を整理したグループもあった。こういった研究成果に加えて、各人はいくつもの「キー・クエッション 」(※2)をあげてきた。キー・クエッションのなかから三つをあげると、(a)村びとは農業だけではなく、きわめて多様な生業を組み合わせて生計を維持している。村落は農業生産の場であるよりも、むしろ暮らしの場であると捉えたほうがよい、(b)村落は、日本でいうと「小字」のような社会単位の代表から構成される「マタボール集団」のゆるい統治のもとで独立小宇宙を形成するが、例えばややこしい村裁判の折など近隣村の大物マタボールの「権威を借用」するなど、開かれた面も持っている、(c)しかし問題は、村落が行政単位として認められておらず、農村サービス行政との間に制度的にも、物理的にも、また心理的にも大きなギャップがある。
  こういう長期の研究活動はすべてJICAの「研究協力事業」という枠組みの中で行われ、JICA事務所はこれを実に気長にサポートしてくれた。当事者たちは、これらのキー・クエッションの中から農村開発の契機をつかめないものか、次のステップの研究が必須のものと考えた。

2.農村開発実験(JSRDE(※3)、1992〜95年)
  先のキー・クエッションに対する解決策を見出すべく、JSARDをJSRDEへと進め、同じくJICA研究協力事業として実施された。かかわったのはJSARDと同じく、主として若手研究者と大学院生たちで、カウンターパート機関はより実践的な研究ということで国立農村開発アカデミー(BARD)と農村開発公社(BRDB)とし、ここからも若手の研究者や実践家が参加した。JSARDと同じ5地域の5か村を対象にして「開発実験」を4年間も続けた。
  村落単位で農協組織を育て、無担保小額融資(マイクロ・クレジット)を与えて、いわゆる収入作り活動(IGA)を活性化させてみる従来型BARD路線と、「村落と地方行政」の新たなリンクを生み出したいとする新路線の両方を追って、実にさまざまなことを実験してみた。BARD型路線としては、例えば村落単位の総合農協を発足させ、農協会員や若者グループを担い手にして魚養殖、乳牛飼育、パワーティラー賃耕、野菜の共同販売、家庭菜園、手工芸、そして組合員の経理能力のトレーニングなどを実施した。後者の新路線としては、村落開発委員会をつくって、彼らに村落内道路補修や小学校の校庭の土盛りのような小土木事業を企画実施させ、また村落の上部単位であるユニオン(※4)(日本の行政町村に相当)の評議会や農村サービス行政の普及員との協議体を実験的に発足させてみるような試みもしてみた。「実験」であるからには、答えの見えていることのみならず、失敗する可能性の高いことにトライするのも実験のうちだが、しかし、実験の対象が村びとであるからには失敗は許されない。後者の路線は今までの蓄積がないだけに冒険であったが、結果として「リンクモデル」の素地が生まれた(次節で詳述)。リンクモデルは結果として、コミラモデル型農協組織(※5)のパイオニアでありプロモーターであるBARDの路線を否定することになってしまい、プロジェクト責任者を務めたBARDの部長としては複雑な気持ちであったろうが、最終セミナーでは当事者はあげて非BARD的なリンクモデルを主張した。

3.参加型農村開発パイロット事業(PRDP-1、2000〜03年)
  リンクモデルをいくつかのユニオンを対象としてパイロット的に試行するというPRDP-1は、しばらく時を置いてから実施された。カウンターパート機関の農村開発公社(BRDB)はJSRDEの終了直後には計画書を作成しJICAの出方を見守っていたが、JICA東京本部の危惧感を払拭できず、発足は2000年4月まで持ち越された。
  リンクモデルとは、最下位の地方行政単位であるユニオンを舞台にして、ユニオン評議会、農村開発にかかわる関係省庁の末端(NBDと呼ばれている)と、いくつかの地方NGO、それにマタボール集団からなる村落委員会の4者が協議する「ユニオン協議会」をつくり、その月例会議を定例化する。この場では、村落に必要な行政サービスと情報が効率よく流れるよう、NBD普及員の村落委員会月例会への出席もアレンジされ、村落の共通の関心事であるマイクロ・インフラ(集落道路修理、学校建物の修理、衛生トイレの設置など)の実施優先順位なども決められる。ユニオン協議会は担当省からの行政命令によって比較的楽に発足させることはできるが、村落委員会は一つひとつ手作りしてゆく他はない。素地のないところにこういうシステムをつくってゆくには、有能なファシリテーターが必要で、ここでJSARD、JSRDE時代から助手として育てられてきた地元の農村青年たちがユニオン開発ファシリテーターならびにその助手であるオーガナイザーとして活躍することになった。BRDBは本部にリンクモデル・セルを設け、JICAはJSRDEからのベテランのチームリーダーと2人の専門家を配し、後半からはJOCV隊員合計6人が参加し、地方行政改革的なシステムづくりとグラスルーツにおける村づくりあるいは村おこしとのギャップを埋めるべく、村に入り込んで活動しはじめた。
  ユニオン協議会の月例会は欠かさず開催され、月例の村落委員会にはNBD普及員が遠い道のりを自転車あるいは徒歩で、通ってきてくれるようになった。村びとにしてみれば、こういう普及員のサービスを受けるのはほとんど初めての経験であった。普及員たちの努力は村びとから大いに賞賛され、村落と地方サービス行政は確かに結び付けられた。マイクロ・インフラについては村落委員会で計画をたて、地方税を完納した上でユニオン協議会に申請し、そこで決定し、コストの2割を現金あるいは労働によって自己負担して自分たちで実施する、というこの国で初めての試みも定着した。内外から多くの見学者を集め、パイロット事業としてはうまくいったと思う。2004年1月の最終セミナーにおいては、「BRDB主導で、速やかに全国展開せよ」、「いやいや地方色はさまざまだから、ある地方のパイロット事業を他の地域に広げることには、もっと慎重であるべきだ。せめて、一つの郡全体で通用するモデルを試してみるべきだ」など、議論は百出した。

4.更なるパイロット事業(PRDP-2、2005〜09年)
  贅沢な話であるが、PRDP-1はPRDP-2(第2フェーズ)に進み、2004年度を計画年度とし、2005年度からカリハティ郡の全11ユニオンに拡張し、さらに地方色を明らかにするために、インド国境の最西部メヘルプールと東部コミラの2郡の中から各2ユニオンを選んでPRDP-2を発足させた。09年度までの5か年計画である。リンクモデルが地域全体で機能し、その中に制度化できるかどうか、正念場を迎えているといってよい。
  実施体制はPRDP-1とほぼ同様で、リンクモデルの要であるユニオン開発ファシリテーターとオーガナイザーは農村開発公社(BRDB)雇用とし、全コストの25%はBRDBが受け持ち、リンクモデル・セルがプロジェクト実施面を主導し、配下の郡の農村開発官を通してユニオン開発ファシリテーターらを統括する体制をつくった。要は、BRDBに事業責任を負わせたわけである。JICA側専門家はチーフ・アドバイザーと調整員の2人を長期とし、他に半年単位の短期専門家2人を現場に配し、さらにJOCVは1人のシニア隊員と10人の隊員を村落に送り込んでいる。研修を充実させるべくBRDBの元の女性トレーニングセンターを改築・改組して「リンクモデル・トレーニングセンター」を設けた。
  PRDPのようなきわめて“ソフト”な仕事は、「質の確保」をしなくては、すぐに消えてしまうだろう。ファシリテーターを育て、ユニオン協議会に参画するステークホルダーの自立的な活動を定着させ、さらにBRDBの当事者意識を涵養してこそ意味がある。「システムづくり」として、ともすると上滑りしかねないこのプロジェクトを「村落」にしっかりと埋め込むために、JOCV隊員の活躍は欠かせない。彼らの活動はプロジェクトの「投入」とされているわけではないが、個々に自由に活動するなかから、村落レベルでのプロジェクトの問題点をナイーブなことばで伝えてき、それがプロジェクト・スタッフにショックを与えることもしばしばである。その指摘を受けてプロジェクトの現場活動を軌道修正するという、正のフィードバック回路ができつつある。
  しかしながら、当国の一つの特徴として、これだけでは不十分である。仮にPRDPが質的に成功を収めたとして、そこでJICAが引いてしまうと、事業としてのPRDPはそこで「終了」してしまう公算が大きい。当国では、ほとんどすべての事業が「プロジェクト」として実施されるので、適切な中央機関あるいは地方行政府・自治組織の中に組織化・制度化させるか、あるいはプロジェクトが続くような仕掛けを残さない限り、一過性の“いい仕事”として人々の記憶にとどまるに過ぎない。こんなプロジェクトが何と多いことだろうか。
  私自身は若手研究者や大学院生を指導する立場からJSARDの準備段階(1985年)から短期訪問を繰り返してきたが、PRDP-2の準備段階(2004年)からはチーフ・アドバイザーとして、ずっと当国に滞在している。実を言うと、先きに述べた「質の確保」は私以外のスタッフに任せきりで、私はもっぱら「組織化・制度化」に腐心してきた。JSARD以来、PRDP-2まで合計十数年間もPRDP型農村開発を引張ってきたのも、「制度化」を念頭に置いていたからで、現在もいろいろな試みを模索している。例えば、中央と郡レベルに合同調整委員会(JCC)を設けて他省庁との対話の機会をつくり、郡JCCのチェアマンであるUNO(※6)(郡令)を通してBRDB側の対外文書を流し、BRDBの女性プログラム(※7)のスタッフをユニオン開発ファシリテーターとして配置換えしたり、セミナーや定例勉強会には類似プロジェクトからスピーカーを招き、さらに有力な類似プロジェクトとの連携会議を発足させようとも企画している。とくにこの連携会議には、農村開発プロジェクトに加えて、今の花形である地方行政強化プロジェクト(※8)に参加してもらうことを企画しており、こういう省庁を超えた連携を実現させるためにCIRDAP(※9)という国際機関の調整力に頼ってみたりもしている。「リンクモデル」が認められ、組織化・制度化され生き残って広く展開してゆくのが理想形ではあるだろうが、しかし、リンクモデルの大事なコンポーネント、例えばユニオン開発ファシリテーターをユニオンの職員として定員化したり、あるいは他の類似プロジェクトで採用してもらうような働きかけも重要であろうと思う。

5.おわりに
  人口3万人の地方(行政)府であるユニオンに事務員がたった1人(と他には数人の警備員兼小使い)というのは、われわれ日本人にとっては異様に映る。これをバ国当事者も援助国(ドナー)も異様と感じていないのもおかしい。地方行政が地方住民へのサービス行政としてではなく、住民統治として発達してきた植民地特有の歴史的背景があるからなのだろうか。
  さらに異様と思えるのは、1990年代以来、農村開発といえばNGO任せで、官庁の地方組織(NBD)の活動の場が次第に狭められてきているという事実がある。ドナー資金の大半はNGO経由で地方に流れるという現実がある。ドナー・プロジェクトとして限られた年限で実をあげるには、NGOを使ったほうが効率的で手っ取り早いのは分かりきってはいる。しかし、これで村づくりを通した国づくりができるのか。折角、しっかりした村落コミュニティーがあるのに、これも年々弱体化されているように見える。
  NGOを通したマイクロ・クレジットが個人あるいは5人程度のグループを対象とし、個人の利得を刺激する一方でコミュニティーを無視し去り、これが当国では農村開発の唯一のアプローチであるとの通念が定着しつつある。バ国流マイクロ・クレジット、すなわち女性対象の無担保小額融資の開拓者であるユヌス教授とグラミーン銀行に2006年度のノーベル平和賞が授与されたことで、この流れは決定的になった。この30年間で農村の貧困解消のパラダイムを書き換えたユヌス教授の功績に対してノーベル賞が与えられるのを今年は、来年こそは、と長年待ち望んできた多くの人たちの一人である私としては、複雑な気持ちである。ここであえて言いたいのだが、たとえばリンクモデルが担う村落コミュニティーと地方行政とのしっかりしたリンクを構築しないかぎり、この国の農村開発はゆがんだものになる。トップダウンではなくボトムアップの「村落と地方行政」のリンケージを実現させる「現実的なシステム」をつくりあげるのが、私たちの念願である。

〈注〉
(※1)Joint Study on Agricultural and Rural Development(1986〜89年度)
(※2)Farming Systems Researchで使われていることばで、作付体系を規定する基本的な要因を同定する過程で、問題点を洗い出してゆく際に使われる。
(※3)Joint Study on Rural Development Experiment(1992〜95年度)
(※4)ユニオンの平均人口は3万人弱。ユニオン評議会は「評議会」であり、直接選挙で選ばれる1人の議長と9ワード(地区)から選出される9人のワードメンバーと3人の女性メンバーの合計13人からなる。事務局機能は極端に弱く、たった1人のセクレタリを持つのみである。この点が、日本の町村と大きく異なる。
(※5)1960年代にコミラ県から始まった農協運動で、その後全国に広がり、他のアジア諸国にも「総合農協運動」として大きな影響を与えた。農協、農業技術トレーニング、協同灌漑、農閑期農村小土木事業の4つの柱からなる。「緑の革命」を推進させた組織体として、高い評価を受けている。
(※6)郡のトップ管理官として任命された若手上級官僚で、日本の昔の郡令に相当するのであろう。
(※7)1970年代に発足した女性プログラムの職員600人程はほぼ全員が女性で、彼女らはBRDBの正式職員(revenue staff)待遇を受けて安定している。
(※8)例えば、UNDP/EUがスポンサーになり、世銀が巨額の融資をしようと計画しているプロジェクトがある。
(※9)Centre on Integrated Rural Development for Asia and the Pacific:コミラ型総合農村開発モデルをアジアに広げるために発足させた国際機関で、本部はダッカにある。

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