アジア水田農業の生き残りをかけて
               :ICIDアジア作業部会とWWF4


近畿大学農学部 教授
八丁信正

1.はじめに
  水危機が注目を集めるようになってから、10年を超えるが、その状況はますます悪化しているように思われる。2005年に実施されたミレニアム・エコシステム・アセスメント(MA)においても、淡水の問題は大きく注目され、持続可能な利用や保全が現時点でさえ困難な状況にあると分析されている。
  2003年3月の第3回世界水フォーラム(WWF3)で開催された農業大臣級会議の行動計画のひとつに、「農業の水利用における環境やエコシステムとの調和とその機能の向上を図る」ことが挙げられた。これは、2000年の国際かんがい排水委員会(ICID)のアジア地域ワークショップ「水田における灌漑排水の持続的開発」以来、国際会議などを通じて日本が主張してきた水田や農業用水の多面的機能に関する一連の活動の成果と考える事ができる。

フィリピン (C)JICA、今村健志朗撮影
(棚田世界遺産、フィリピン、イフガオ州)

  こうした一連の流れを受けて、ICIDのなかにおいても多くの国と共同して、水田や農業用水の多面的機能について検討し、世界に広く情報を発信しようということになり、2003年9月にフランスのICID会議で、「農業用水の多面的機能や役割」に関するワークチームが作られた。2005年の9月に開催されたICIDの北京総会では、このワークチーム主催のワークショップを開催し、これまでの検討結果のとりまとめとWWF4(第4回世界水フォーラム)での取組み方針や提言について議論を交わした。
 そこで、本稿ではこれまでのICID多面的機能検討チームの活動成果とWWF4での活動計画について報告する。

2.アジア水田農業の危機と多面的機能
  アジアの水田農業は多様な生態環境のなかで行われており、その多くは小規模で自給的である。コメは多くのアジアの国で重要な主食と位置づけられ、その生産に対して政府の価格支持が行われてきた。しかし、価格支持の財政負担軽減の観点から、価格支持の水準は徐々に引き下げられている。また、WTOでの貿易自由化交渉の過程において、コメの輸入制限の撤廃が求められ、日本・韓国・台湾などは高関税の設定と引き換えに、一定数量の輸入枠に基づいた輸入が行われている。
  こうした状況のなかで、世界におけるコメの生産量はそれほど減少していないものの収穫面積は1999年の1.54億ha(アジア1.4億ha)から減少傾向に入り、2004年は1.51億ha(同1.34億ha)と300万ha(同600万ha)の減少となっている。世界の47%の面積を占めるインドと中国に注目すると、インドは1999年にピークの4500万haに到達した後は減少し、同様に中国も1976年の3600万ha以降、収穫面積の減少が続いている(図1)。

図1 世界のコメ収穫面積の変化(1961-2004)
図1 世界のコメ収穫面積の変化(1961-2004)

  今後も増大する世界の人口に対して、コメはどこで生産されることになるのであろうか。世界のコメ生産と利用のバランスは、2000年以降需要が生産を上回るようになり、2000年時点で1億6700万トン余りあった世界のコメ在庫は、2005年末には9700万トンにまで減少すると予測されている(FAO food outlook: Dec.2005)。

 水田面積の減少は、コメの生産ばかりでなく、生物多様性の維持や景観、地下水涵養、水質浄化、気温抑制などのコメ生産に付随した他の効用(多面的機能;図2)の減少にもつながる。また、こうした効用の多くは水の循環に関連したものであり、適正な水利システムの整備や管理なくして多面的機能の有効な発現は考えられない。

図2 水田における多面的機能の発現
図2 水田における多面的機能の発現

一般的に、農業は水質劣化など環境に悪影響をおよぼす活動と考えられがちであり、農薬や化学肥料の多用による集約的な農法や効率を追求した施設整備ではそうした負の影響を環境に与えたことも否めない。したがって、水田の生産システムを維持し、その正の効用を最大限に発揮し、負の影響を最小化できるような農法を採用し、水利システムの整備を行う事が重要となる。ちなみに多面的機能を評価する場合、その推定方法や便益の重複算定といった問題はあるものの、台湾、韓国、日本で行われた研究では、生産便益と比較して1.4〜4.9倍の多面的機能の便益があるとされている(図3)。

図3 生産便益と多面的機能便益の比較(日本、韓国、台湾)
図3 生産便益と多面的機能便益の比較(日本、韓国、台湾)

 また、長い歴史のなかで整備されてきた水田や水利施設は、文化・自然遺産としても貴重であり、フィリピンのイフガオ州の棚田や中国の都江堰はユネスコの世界遺産に登録されている。
 こうした、農業や水の有する機能の評価とその保全対策は、アジアの水田に限ったことではない。EUの農業政策では、環境直接支払によるより環境にやさしい農業の推進、アメリカにおける環境改善誘導計画(2002年農業法)、世界水アセスメント計画(WWAP)での持続的な水管理による生態系保護や水の多面性の認識および価値評価、さらにはラムサール条約(ラムサールハンドブック2004)において水田や灌漑水路を「人工の湿地」と捉え、保全を行っていくという位置づけなど、水や農業を取り巻く状況は大きく環境や生態系保全を取り込むという方向に向っている。

3.第4回世界水フォーラムでは
  メキシコで開催される世界水フォーラムは、水に関係する専門家や研究者、政府代表、NGOばかりでなく、多くの報道陣が参加する。このため、水や水利施設さらには水田農業が有する価値を幅広い聴衆にアピールする絶好の機会である。そこで、これまで活動してきた機関、ICID、INWEPF(国際水田・水環境ネットワーク)などが協力して、セッションを行うこととなった。
  このなかでICIDとしては、「水田やそのシステム、管理制度は、地域ごとの自然、社会・経済条件に対応して、長い歴史のなかで育まれてきたものであり、高い持続性を有している。これは食糧生産という大きな役割に加え、環境保全、景観や文化を含む多くの役割や機能を果たしている。したがって、単に経済的合理性によって、食料の自由化を推進することは、輸入国の環境・景観・文化に悪影響を及ぼすだけでなく、場合によっては輸出国の環境劣化(地下水位の低下、土壌侵食、塩類集積)にもつながりかねない。多面的機能の発現を促し、持続可能なシステム(水利用、生産)を確立するためには、生産面では水の多目的利用(淡水魚・鴨などの養殖、エコツーリズムなど)を推進し、また環境機能を高める農法や施設の整備(化学肥料・農薬の削減、環境配慮型水路、冬季の湛水、水路や溜め池の生態ネットワーク構築)を採用し、全体的な経済・環境・文化的価値を高める必要がある。この場合、複雑な水と環境や生態系との相互関係、地域の特性、時間的変動、弱者や女性に配慮した研究・調査を行い、その有効性や成果を一般大衆や政治家などにアピールする必要がある」(2005年ICIDワークショップの要約)を基本にアピールを行う予定である。
  とくに、今回のフォーラムが、「ローカルレベルでの具体的な活動(ローカルアクション)」を重要視していることから、とりわけ水土里ネットなどの団体が、地域レベルで行っている環境・生態系保全や環境教育活動の具体的事例を紹介する計画である。

冬の水田で羽を休めるマガモとヒシクイ;財団法人埼玉県生態系保護協会提供
冬の水田で羽を休めるマガモとヒシクイ

4.おわりに
  毎年、水関連だけに限っても数多くの国際会議が開催され、多くの論文が発表され、さまざまな議論が交わされている。しかし実際のところ、こうした会議は有効に機能しているのであろうか?とくに世界水フォーラムのような数万人単位の参加者がある大規模な会議に対しては、「単なるお祭り騒ぎで、それにかかる経費を実際の問題解決に充てたほうが良いのではないか」という批判もよく耳にする。しかし、こうした場を活用し、世界の他の機関や人々と合意形成をはかり、協力して問題解決に当たらなければ、現在、我々が直面している生態系破壊や環境劣化、持続可能な資源の利用といった課題に有効に対処することは困難であると考える。経済や金が中心の活動から、生態系や生物多様性に十分配慮した持続可能な社会をつくり上げていく上でも、対話と有効な戦略の設定は欠かせない。
  WTO(世界貿易機関)の閣僚会議などで、WTO反対のNGOや農民組織代表の活動が大きくクローズアップされている。貿易自由化や競争原理に基づく生産(比較優位性)の大きな波は、アジアの小規模・自給的な水田農業を飲み込もうとしているかのようにも思える。こうした大きな流れに対抗し、地域の資源を有効に活用し、環境と調和した農業を推進し、生態系や環境の劣化を防止しながら、貧困のない社会を形成していくという、とてつもなく大きなチャレンジに我々は直面している。そのチャレンジに成功できるかどうかは、我々が食料や地域の環境をどうしたいのかという、我々自身の意識(理解)と行動に大きく左右される。政府が何か対策を立ててくれるから大丈夫という、待ちの姿勢ではなく、自ら自分の周りの環境や生態系を持続的なシステムに変えていく活動に、積極的に参加することこそが、重要であると考える。

前のページに戻る