群馬県片品村の在来種「大白」
地大豆で作った「ざる豆腐」で中山間地を活性化する

 群馬県片品村にある人気の豆腐屋「尾瀬ドーフ」。評判の「ざる豆腐」を求める人たちが県内はもちろん、東京、埼玉、茨城といったところからもやってくる。
 味の秘密は「大白」という地大豆のうまみにある。店主の千明市旺(58)さんは、いまではほとんど作られなくなった大白を栽培し、それを使って豆腐を作り、村の活性化の起爆剤にしようと挑んでいる。

 
左:千明さんは生豆腐などの商品も開発。右:「ざる豆腐」

「尾瀬ドーフ」は、北に進めば尾瀬ヶ原、東は日光という恵まれた場所にある。だが店は、観光道路から入り込んだ山沿いにあり、周辺は山を切り開いて作った畑が一面に広がるだけだ。店の近くに目立った看板も立っていない。しかし、小さな店の前には、豆腐を買いに来るお客さんの車がひっきりなしに止まる。週末ともなると店の販売だけで20万円を超え、お昼過ぎには売り切れということも珍しくない。お客さんの目当てはざる豆腐である。
 ざる豆腐とは、濃いめの豆乳にニガリを打って豆腐を寄せ、そのままざるにすくいあげたもの。大豆本来のコクが味わえ、しょうゆや薬味なしで、そのままでも十分においしい。
 ざる豆腐に使われる大豆は「大白」という、片品村だけで栽培されてきた地大豆。大白は、1960年代半ばまで養蚕と並んで村の主な特産物だった。北海道の「鶴の子」などとならび、東京の市場で高く評価されていた品種である。しかし、冷涼な気候を生かしたダイコン、サヤインゲンなどの作物への転換が進むにつれ、次第に姿を消してしまい、高齢農家が自家用に畑の片隅で作るだけになっていた。埋もれていた特産の大豆にふたたび光をあてたのが、千明さんだった。

挫折から再起まで
 千明さんは、もともと酪農を営む専業農家だった。国の施策に従って大規模酪農をめざし、ピーク時には飼育頭数が100頭近くになっていた。規模拡大に合わせて、牛舎建設や作業機械には惜しみなく投資した。
 ところが、1991年の牛肉の輸入自由化で状況は一変。肉牛とともに乳価も下落、売り上げは借金返済で消えた。前年に父親が他界したショックもあり、千明さんはすべてにやる気を失った。医師からは「心の病」といわれた。
 とりあえず酪農を廃業した。残った負債は親戚から借りて返済したものの、次にやりたいことが見つからず、酒におぼれる日が続いた。
 再起するきっかけをつかめないまま、漠然と毎日を送っていたある日、千明さんの口から意外な言葉が出た。「おら、豆腐屋にでもならあ」。なぜそんなことを言ったのか、今でもわからないという。「とにかく中古の機械を買いそろえ、講習を2日間受けて豆腐屋を始めた」

 1994年に店を開けた。最初は、地元の人が好む大きめの木綿豆腐の一品だけ。「輸入大豆を使えば儲かる」といわれ、そのとおりに作り、軽トラックに積んで、「豆腐屋を始めました。よろしくお願いします」と、村じゅうを一軒一軒まわった。差し出した豆腐はやわらかすぎて、形が崩れていたこともあった。「当然さね。2日間の講習で立派な豆腐ができるわけがない。でも村の人は情が深いんさね」―酪農の挫折から立ち直り、ようやく再起の道を歩み始めたことを周りの人はよく知っていたのだろう。

 やがて、村内にある1600軒ほど家庭の半分が買ってくれるようになった。それが励みになって、豆腐づくりにも、熱が入るようになった。いつしか病気も癒えた。だが一方で、千明さんの心のわだかまりが生まれた。「儲かるからといって輸入大豆を使って、単に豆腐を作るだけでプロといえるのか」
 このときから千明さんは暇をみつけては、豆腐屋の老舗が集まっている京都や大阪を訪ねるようになった。無理を承知で「工場をみせてくれませんか」と頼んだ。ほとんどで断られたが、自信のある老舗はみせてくれた。共通していたことは大豆やニガリ、そして水のすべてへのこだわり。だが、それだけではなかった。味を決めるのは、作り手の技術やちょっとした手加減だとわかった。誰もが作っていない自分だけの豆腐を、そして食べる人が喜んでくれる豆腐を作ろう―開店した翌年、輸入大豆をすべて良質の国産に切り替えた。そして木綿に加えて、「ざる豆腐」という商品を出した。

大白との出会い、村を変えたい
 価格の安い輸入大豆から、北海道産の「大振袖」、あるいは栃木県産の「タチナガハ」(現在は宮城県産「ミヤギシロメ」)を使うようになり、豆腐の価格も倍近くになったため、離れていくお客さんもいた。それでも、注文があれば千明さんは豆腐1丁でも配達を続けた。
 いまから、6年ほど前のことだった。あるお年寄りの家に豆腐を届けると、「大白で作ったら、もっとおいしい豆腐になるはずだよ」といわれた。この時に初めて聞いた大白という大豆が、村の特産品だったこと、同時にすでに作られなくなったことを千明さんは知った。幸い、自家製の味噌を作るために、細々と作っていたお年寄りがいた。千明さんは彼らから少しずつ分けてもらい、自分の畑の隅に植えてみた。収穫を待って豆腐を作ってみると、言われたとおり、今までにない深い味わいのある豆腐に仕上がった。お得意さんにも配ったが、全員が「おいしい」と言ってくれた。千明さんはすぐさま、自分の1ヘクタールの畑で大白を作り始めた。

「尾瀬ドーフ」の一日は、午前2時頃から始まる。注文が多い日には、午前0時には起きなければならないこともしばしばだ。豆腐ができあがるのは明け方。夜が白んでくる頃、ざるに盛られた豆腐から、ほかほかの湯気ととも、大豆のまろやかな香りが工場内に立ち込める。
 いまでこそ配達専門のスタッフがいるが、開店当初は作るのも配達するのも、千明さんだった。遠いところは、店から20キロ以上も離れている。配達の合間には、村内にある民宿を営業で回った。配達を終え、翌日の仕込みを終えるのは夜。疲れて横になっても、すぐにまた仕事を始める時間が来る。こんな毎日が続いた。
 しかし、「尾瀬ドーフ」が作る豆腐のおいしさは村内から村外へ、そして県外へ広がり、「おいしいね」の一言が千明さんの疲れを癒してくれた。やがて、スキー客が泊まる民宿や温泉宿から、まとまった量の注文が来るようになった。すると、宿で食べたというお客さんが翌日、「お土産に持って帰りたい」と店を訪れてくれるようになった。評判が口コミで広まり、大手のスーパーからも「扱いたい」という引き合いが来るようになった。

 だが千明さんは、直接に手渡しのできる店売りか配達を基本とし、村内の旅館・民宿を除いて、卸売りはすべて断っている。それには2つの理由がある。
 一つは失敗に終わった酪農経営の教訓だという。「牛飼いの頃、自分で絞った牛乳がどこに行くのか全くわからなかった。豆腐づくりは思いつきで始めたけれど、実際に大豆づくりからやってみてわかったことは、生産、加工、販売が一本につながっていること。お客さんの声を聞きながら、物を作ることはとても大切」―“お客さんに説明できる商品”を“自分の手”で渡したい。創業以来、「尾瀬ドーフ」の方針となっている。
 もう一つは、大白を単なる特産品とせず、地域活性化の原動力にしたいという思いからだ。大白を使うようになった当初、「おいしい豆腐を作ろう」という一心だったが、次第に「外に売るだけじゃなく、食べた人が再び村を訪れてくれるような仕組みを作り、大白を村の活性化につなげられないか」と思うようになった。

「豆腐屋になって一から再スタートした自分を助けてくれたのは、豆腐を買ってくれた村の人たち。あの時のありがたさが、心に染みついているんさね。一人一人にお返しはできないが、大白をもっと広めて、それを豆腐にすることで、恩返しができるのではないかって思うようになった」(千明さん)
 実は、大白のおいしさは、片品村以外にも広まっており、周辺の市町村でも栽培を手がけた農家が過去にいたらしい。ところが、食味のいい大豆に仕上がらなかったことを千明さんは人づてに聞いた。「大白が片品の気候・風土に合っているということだと思う。ここでしか、うまく育たない大白を大事に育てて、加工、販売につなげれば、高齢化・過疎化の進む村を変えることができるんじゃないかと思った」

写真2 大白種の大豆畑の前で村おこしを語る
大白種の大豆畑の前で村おこしを語る

 そのためには、まず大白の栽培面積を増やす必要がある。千明さんは自作地での栽培面積を広げると当時に、自家用に作っている高齢農家たちに「もうちょっと、余分に作ってくれんかい」と声をかけた。大豆はコメやその他の作物に比べると反収が低い。量を増やすには、高値で買い取るのがもっとも効果的だ。そこで、千明さんは先行投資のつもりで、一般的な大豆の倍以上にあたる1俵約3万円という価格で買い取ることを決めた。すると、農家は次々に大白を千明さんのもとまで、持ってくるようになった。
 当初、国産大豆にわずかに混ぜていただけの大白の混入比率が徐々に増えた。2002年は年間に使う約30トンの大豆の4割が大白、2003年には5割、2005年は7割と増え、契約農家は105戸を数えるまでになった。2006年からはついに、大白100%で豆腐づくりがスタートできる見込みが立った。

「大白の里構想」実現にむけて
「尾瀬ドーフ」の店のある場所から、さらに山を登りきったところに、千明さんが大白を作り続けてきた畑がある。最初は1ヘクタールの広さだったが、周辺に土地を持つ地主と交換分合して、5ヘクタールにまとめた。なだらかな斜面に広がる大豆畑は圧巻だ。北海道以外で、こうした光景を目にできるのは珍しい。「都会の人をここに連れてくると、片品村に住みたいという人が結構いるんさね」千明さんはこの畑を舞台に、大白をいかした地域活性化を、いよいよ本格的にスタートさせようとしている。
 片品村はもともと観光の村である。だが、尾瀬ヶ原への観光客の入場制限、スキー客の減少などによって、観光業の衰退が懸念されている。そこで大白を起爆剤に新たな産業、交流が生まれれば、十分に盛り返すことができると千明さんは考えているのだ。
「都会から来た人にはまず山頂の大豆畑に来てもらい、自然と思う存分に触れてもらうんさね」と、大豆畑を眺めながら、千明さんは頭に描いている構想を話してくれた。現在は車道が整備されているが、これとは別に、森林浴を楽しみながら登ってこられるハイキング道路もつくる予定だという。
 おなかがすいた人のためには、山頂の一角に、大白を使った加工品の食べられる売店やレストランが準備されている。そこで働くのはもちろん村の人。加工品づくりの主役は高齢農家、農村女性たちだ。そうした村の人たちが作った料理に舌鼓を打ちながら、都会と農村の人の交流、消費者と生産者の交流が生まれる。

 大白商品は原則として村内でのみ販売する。一度食べた人が「おいしい」と思ってくれれば、また来ようという気になる。一人でも多くの観光客に、継続的に足を運んでもらうためだ。人が交流すれば、自然と村は活性化し、観光業をはじめとする村の産業も元気になり、雇用も生まれる。これらを千明さんは「大白の里構想」と呼んでいる。「農村と都会・生産者と消費者の交流、高齢農家に生きがいが感じられる仕事づくり、資源リサイクルなど・・・。これらが実現されれば、小さくても自給・自立が成り立つ村になるはず」と確信している。
 すでに、その一部は始まっている。大白の生産量が増えたことをきっかけに、豆腐以外に納豆、醤油を商品化して、2006年から売り出す計画を立てている。ただし、「尾瀬ドーフ」の店内で販売するだけでなく、地元の商業店舗を通じて売ることにしている。

 従来型の観光業の低迷により、お土産店をはじめとした商業店は衰退の一途をたどっている。片品村に限ったことではなく、観光地全体が抱えている問題といってもいい。どの観光地に行っても、似たりよったりの商品が並び、新鮮味に欠けたものが大半である。「仕入れたモノを売るだけのではなく、地元のもので、しかも特徴のある商品を売れば、消費者は興味を示してくれるはず」―このことは、千明自身さんが実践してきたことと重なる。
 お土産屋のみでなく、ガソリンスタンド、酒屋など村じゅうにある、すべての約200の商業店舗とネットワークを組み、彼らに販売してもらい、販売手数料を還元していく予定。片品村に来た人は、村に入った瞬間から、大白を使った一連の商品を目にすることができる。片品=大白というイメージを徹底的に植えつける戦略だ。

 千明さんの大白への熱意は、行政関係者の耳にも届いた。片品村では今後、地域活性化の一貫として、大白の生産・加工を後押しする計画だという。また、農水省から委託を受けた社団法人農山漁村文化協会が企画した「故郷に残したい食材100選」にも選ばれるなど、各方面から注目されるようになった。
 失意からはい上がり、「おら、豆腐屋にでもならあ」の一言で始まった豆腐づくりが、地域に埋もれていた大白を蘇らせた。「一粒の大豆から村を変える」―。耳ざわりのいい言葉だが、実際に実現させるのは並大抵のことではない。だが千明さんは、一度言ったことを必ず実行に移してしまう。でも、優しい笑顔に気負いはまったく感じられない。
 山頂の畑はこれまで大豆の連作をしてきたが土壌の養分のバランスを考え、今後はソバ、小麦との輪作体系も作り、それらの加工にも乗り出す計画だという。山頂の畑を見守りながら、千明さんは噛み締めるようにこういった。「やっとスタート地点に立ったばかり。でも、農はいろんな産業の基礎。いろんな産業への広がりが生まれるんさね」
(農業ジャーナリスト 青山浩子)

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