「おっかなびっくり」で始まった有機部会
「作る人」と「食べる人」の人間交流クラブ

千葉県山武町で有機農業に取り組む富谷亜喜博さん
千葉県山武町で有機農業に
取り組む富谷亜喜博さん

 1988年12月、千葉県の山武農協(現・JA山武農協睦岡支所)に「無農薬有機部会(現・有機部会)」という、当時では全国的にも珍しい生産部会が設立された。
 農協をあげて有機農業運動に取り組もうという画期的な試みに、参加した農業者は二十数人。その最年少の農業者が、当時28歳だった富谷亜喜博さんだった。
「こういうふうに作れば、あそこが買ってくれるという保証があって、有機農業を始めたわけじゃなかったんです。有機部会の設立に参加した最初の仲間だって、この農業でメシが食えるなんて、本気で思っていなかった」
 富谷さんは、当時をそう振り返って笑った。

防毒マスクで、ハウス作業をしていた日々
 千葉県のほぼ中央、北総台地にある山武町は、ニンジンとスイカを中心に、サトイモ、ゴボウなどの根菜類を主要品目とする産地である。首都圏に近く、気候も温暖で周年栽培ができる。恵まれた条件下にあって、農協が有機部会を立ち上げようと動き出した頃も、販売に苦労していたわけではなかった。
 富谷さん自身、農業大学校を卒業後、20歳で就農したときは、慣行栽培に疑いを感じていなかった。就農と同時に、施設栽培を導入し、「施設に関しては、収入を全部お前にやると父が言ってくれて。ちょうど、サラリーマンの初任給くらいになるという計算が、親にはあったみたいだけれど(笑)。ある意味では独立経営ですよね。親から小遣いをもらわなくてよかったし、経費を自分で払って、販売額から差し引いたものが収入になった。順調に売れていたし、収入が低かったわけでもなく、7、8年はそのまま過ぎていたんです」

 それなのになぜ、敢えて有機農業に挑戦することになったのか。きっかけは、いくつかある。
 まず、この頃、農協女性部が、「食品添加物」や「食の安全性」の問題を強く意識する出来事が起こった。オレンジ・牛肉自由化をめぐる日米交渉が大詰めを迎え、コメの市場開放も迫られていた1987年、全国農協婦人組織協議会などが中心となって開いた「輸入農産物の安全性を考える現地学習会」だ。
 彼女たちは、東京税関と横浜税関で、輸入農産物の管理実態を初めて目にした。腐ったグレープフルーツをより分け、ガスマスクをつけて燻蒸作業をする係員、破れたビニール袋に入ったまま、雨ざらしにされた山菜……。
 ちょうど、ポストハーベスト問題が注目を浴びはじめた時期でもある。「食べ物とは何か」を、改めて考えさせられた彼女たちの間で、「食の安全性」にこだわる生協への加入が増えはじめた。
 一方、生産現場では長年続いてきたニンジンとスイカの連作で、連作障害が出はじめていた。
「強い薬を使うでしょう。最初は1しか使わなかったものが、2倍、3倍と使うようになっていくんですよ、薬って。こういう栽培方法、おかしいんじゃないか。そういう声が、農協じゃなく、生産者自身から出てきたんですよ」
 その声に、睦岡支所の園芸部長と経済課長が動いた。同じ千葉県の三里塚で、有機農業に取り組んでいる農業者の視察に出かけ、彼らを講師にした勉強会を、農協で始めることになり、管内の組合員にFAXで参加を呼びかけた。
 富谷さんは、その知らせを聞いて、すぐに勉強会への参加を決めた。この頃になると、スイカとトマトの連作をしていた富谷さんの施設栽培でも、連作障害が出はじめていた。
「地下鉄サリン事件のとき、救助の人たちが仰々しい防毒マスクをつけていたのがテレビに映ったでしょう。あれと同じようなマスク、僕も使っていたんですよ」
 それは、土壌消毒に使うクロルピクリン専用だった。抜群に効果のある土壌殺菌剤として今も根強い人気のある薬剤だが、使用する農業者にとっては、扱いがやっかいだ。揮発性が高く、目と鼻を強く刺激する。
「フワーッと気化して目に来ると、20分か30分は、なにが回りにあるかわからないくらいの強さ。あまりにも目が痛くなるから、マスク、買ったんです。こんな仰々しいマスクをかぶって、ハウス消毒しているのを知らない人が見たら、“異様”だろうなと思った(笑)。でも、これをやらないと作れないんだと、なんの疑いもなく撒いていた。それが、なんかちがうんじゃないか、自分の“からだ”を壊すんじゃないかと思いはじめて」
 連作障害は、作物を変えれば回避できることはわかっている。しかし、出荷物を変えてはマーケティングからは、まったく不利である。結局、同じ作物の繰り返しになる。土壌消毒だけでなく、農薬の使用量がだんだんと増えていく。どこかで、歯止めをかけたかった。

有機部会、結成!
 勉強会に興味を持って集まった農業者は多かった。たぶん当時、富谷さんと同じ思いを抱いていた農業者は各地に数多くいただろう。勉強会を続けるうち、輪作という基本が、有機農業にはもっとも重要なのだということが分かってきた。問題は、「その農業で、本当に食えるか」どうかだ。部会設立の段階になると、やはり人数はぐっと減った。
 1988年、「無農薬有機部会」が正式に発足。富谷さんは、その席で副部長に選ばれた。「最年少だから、『やれっ!』て(笑)。えっ、俺ですかって感じでしたよ」
 部会員の圃場には「無農薬無化学肥料栽培圃場」という有機部会の看板を立てた。圃場を通る人の多くが、その看板に足をとめた。「よく始めたな、いつまで持つかという空気でした」と富谷さんは苦笑するが、実際にやっている本人たちも、似たり寄ったりの心境だったらしい。
「とにかく実験的にやってみようか、10aくらい登録して、有機栽培と慣行栽培で、作物にどういうちがいが出るか見てみよう、なんて感じで始まったんです」
 三里塚の農業者から、ぼかし肥料の作り方を教えてもらい、畑に入れた。1年目、チンゲンサイの栽培に挑戦したメンバーが1人いた以外は、ほとんどが作りやすい根菜類の栽培から始めた。

 さて、問題は「この野菜を、どこに売るか」である。すでに作物は生育中である。
「それから販路さがしを始めたんですよ。売れないなら、山に捨てるしかないだろうって、感じでしたけど」
 生協なら興味を示すのではないかと、地元生協に話をもちかけたが、ものも見ないで断られた。しかし、ここであきらめるわけにはいかない。「ダメで、もともと」のつもりで、農業誌に掲載されていた有機農産物を扱う消費者団体リストを見つけて、片っ端から手紙を書く“手紙作戦”を展開した。
 大多数の手紙は無視されて返事がなかったが、そのなかで2団体だけ、手紙を読んで現地に足を運んでくれた。その一つが、89年から出荷を開始し、現在も提携関係にある「大地を守る会」だ。
 重ねて言うが、まだ作物は生育途中で、見せられる品物はない。それでも提携を決めた「大地を守る会」は、有機部会メンバーの農業への姿勢に、信頼できるなにかを感じてくれたのだろう。当時、有機農産物にこだわる消費者組織は、“モノ”としての農産物の評価以上に、“運動”として有機農産物を購入する寛容さがあった。
「今思えば、ひどいものを作っていたと思いますよね。でも、それが流通に乗ってしまった。見た目はひどいものでも、虫食い野菜でも、その頃の消費者組織は、本当に運動として、作られたものはありがたく食べるという人たちが、会員として集まってくれていた。だから、文句もいわず扱ってくれたというのが、正直なところだと思います」
 今でこそ、ミネラル資材などまで有機認証資材があるが、当時は防虫ネットさえ普及していなかった。「農薬を撒かないんだから、虫が食うのは当たり前」という感覚ですんだ。その意味では、有機栽培の技術体系が確立するまでの間、富谷さんたち無農薬有機部会の農業経営を一緒に支え、リスクも共有してくれたのが、「大地を守る会」と、その後、「日本リサイクル運動市民の会」が1988年に立ち上げた個別宅配組織「らでぃっしゅぼーや」だった。

 それまで、根菜類やスイカばかり作っていたメンバーの栽培品目は、輪作を基本にする有機農業への転換で一気に増えた。2年目、富谷さんは有機農法での栽培面積を約60aまで増やした。10aでは輪作体系が作れない。1品目5a程度ずつの作付けで品目を回すようになった。これも、輪作でロットが小さくても、買ってくれる相手がいればこそ可能だった。
 しかも、メンバーの誰もが、多品目栽培は初体験である。最初に作った枝豆は、「豆が付かず、枝しかなくてね(笑)。それでも、消費者の人からクレームが来なかった。今だったら、すぐにお叱りの電話ですけれど。だってあの頃、小松菜も自家用で食べる以外は作ったことなかったし、チンゲンサイだって、作ったことのある人は、ほとんどいなかった。みんな、種屋さんに電話したり、どんな種がいいか、どうやって育てるのか、この作物の後にこれを植えるのはダメだとか、情報交換をしながら覚えたんです」
 個人が技術や情報を抱え込まず、部員どうしで情報交換をしたのも、栽培体系や技術の確立に大きな力になった。
「うちが一番自慢している点は、会員が全員、半径3km以内にいるんです。出荷場に行く間に、いろんなメンバーの畑が見えて、集荷場で会うと、あそこの畑は、なに作っていたのと聞ける関係なんです。そこが、農協・地域のなかでやってよかった、最大の点ですね」

栽培の面白さから、人間関係の面白さへ
「大地を守る会」や「らでぃっしゅぼーや」との産消提携が有機部会にもたらしたものは、栽培体系が確立するまでのリスク共有だけではなかった。富谷さんは、交流のなかで、栽培の面白さだけでなく、“人間関係の面白さ”を初めて知ったという。
 稲作体験交流や、山武町での農業体験とホームステイだけでなく、都市部の消費者の家に富谷さんたち農業者がホームステイする双方向の「山武ツアー」など、さまざまな交流が始まった。
「迎えるときは大変だけれど、今までやったことのないことをやるのは楽しかった。市場にものを持っていくだけの仕事だと思っていたけど、この交流会では、持っていくだけなんてこと、絶対ないじゃないですか。今までにない、新鮮さがありました」
 食べる相手の顔が見えるようになって、“商品”ではなく“食べ物”を作っているんだという実感が、有機部会のメンバーのなかに徐々に生まれ始めた。たぶん、この交流は提携先の消費者にとっても、まだ商品としては満足できるものではない野菜を「食べこなす」気持ちを、育てる意味があったはずだ。

 その後、販路が安定すると有機部会の部員数は次第に増え、4年目には40人を超え、翌年には50人を超えた。こうなると、提携相手は「大地を守る会」や「らでぃっしゅぼーや」だけでは足りなくなる。神奈川県内の生協ナチュラルコープ、生活クラブ生協・千葉、同生協・神奈川、東都生協など、生協を中心に取引先を増やしていった。
「生産量が増えたというのも理由の一つですが、それ以上に、一つの組織との関係ばかりが強いのはよくないという部会の方針もありました。1組織とは30%以上の提携はしないのが理想で、そうでなければ“従属関係”になりかねないという意識が、部会にはあったんです」
「大地を守る会」との稲作体験交流だけは、今もずっと続いているが、提携先が広がり、他の組織との交流体験が増えた分だけ、1組織との濃密な関わり方はなくなった。しかし、この頃には、部会メンバーの有機農業の栽培体系も確立しつつあり、根菜類だけでなく、商品として十分に堪えうる果菜類や軟弱野菜が、生産されるようになっていた。

特別栽培認証の表示
特別栽培認証の表示

 90年代、外食チェーンも含めて、有機ブームが訪れたとき、JA山武農協睦岡支所は、どこもモノを欲しがる“有機ブランド”に成長していた。2000年に発足したJAS有機認証制度でも、部員それぞれが、圃場の一部で認証を取得した。現在は、いわゆる特別栽培認証圃場と有機認証圃場の両方を持つメンバーが多い。
「今思えば、1年目に根菜類ができたのは当たり前だよね。化成肥料がまだ土壌に残っていたし、『5年たつと、とれなくなるよ』と、その頃から言われました。5年を超えたとき、あ、これでもできるんだなと思った。僕自身は、2年目で早くもハウスでネコブセンチュウが出て、『2年目でこれかよ、どうしよう』と思ったときがあったんです。でも、ネコブセンチュウを抑制する緑肥作物を夏場に入れ、その後にちがう科の品目を作付けしたら、次の作のときには1本もつかなかった。あ、これでできるんだと、そのとき思いました」
 3年前から、富谷さんたち有機部会は、新たな交流相手に出会った。料理研究家やジャーナリストを会員に、各地域の良質な食材の発掘を目指している「良い食材を伝える会」(料理研究家・辰巳芳子会長)だ。
「農業体験の場がほしいから協力してほしいと言われて。約10aの圃場で、7〜8品目を栽培してもらっています。多いときには150人くらい来ます。当たり前ですけれど、モノに対する知識はすごく持っている。ただ、どういう過程を経て、その食材が作られるのかはほとんど知らなくて、それが分かるのが、楽しくて来られるみたいです」
 富谷さんにも発見があった。
「食に対してレベルの高い人たちだから、見た目をきれいに作らないといけないのかなと、最初は思ったんですよ(笑)」
 ところが、野菜セットを送ったら、全く見た目にはこだわらない。そのかわり、味や香りには非常に敏感で、送る側は「こんな野菜しか送れない」と思ったようなものを「あれはおいしい」と絶賛されたりする。
「基本的には“食べておいしい”が価値なんだよな、見栄えじゃないんだと改めて思いますよね」と、富谷さんはしみじみ言う。
「良い食材を伝える会」との出会いは、同会が手がけている食育活動を通じて、都内幼稚園の親子農業体験を受け入れることにもつながった。
「それが、みなさん本当に楽しかったらしくてね、翌年は幼稚園から直接、ぜひ参加させてほしいと来てくれて。幼稚園のバザーにも『山武の野菜をもって、遊びに来ませんか?』と誘ってくれたり」と富谷さんは目を細める。「大地を守る会」の農業体験交流の話のときもそうだったが、富谷さんは、農業を通じて相手の楽しい表情を見ることが、本当に好きらしい。

さんぶ野菜ネットワークの設立
 睦岡支所管内は、今も専業農家比率が3割とかなり高い農業産地。しかも、有機農業の産地として流通・小売段階にも名を知られ、販路に困ってもいない。どちらかと言えば、生産すれば、まだまだ売れるだけ販路はある。
 そんな産地でも、農業者の高齢化と後継者不足、耕作放棄地の増加は、避けて通れない問題になっている。有機部会の部員は、現在46人。最盛期より20人減った。
 部会全体の作付面積と売上げは伸びているから、1人当たりの有機栽培面積は、かなり増えている計算だが、部員減少の理由の一つは、やはり高齢化だ。最年少28歳だった富谷さんも、ただ今45歳。スタート時、50歳近かったメンバーは、すでに70歳に近い。
「新規就農者を受け入れて、担い手育成に取り組みたいですよね。耕作者がいなくなるのは10年先じゃなく、もう5年先になっちゃったと思います。農業センサスの統計を見ても、今は60代の人たちが農業を支えている。どこかで変わらないと」
 今年2月、有機部会のメンバー46人がそっくり会員になって、農事組合法人「さんぶ野菜ネットワーク」が設立された。
「自分たちが自分の責任をもって運営していくことに、今以上に真剣味が出るということと、事務局体制が整うというメリットがあると思っています。それから、農協組織としての有機部会では、他の支所管内の農業者は参加しずらい。今までの垣根を壊して、新しい人も入れながら、新しい形を作りたい」と富谷さんは言う。
 農協の組合員が多様化するなかで、専業として有機農業経営に取り組むメンバーの組織体をつくり、農協とも、相互に出資しながら、協調関係を取っていきたいと考えている。

 この法人化は、ある意味では家族農業という枠に対する限界を感じた、富谷さんたちの選択でもあった。
「これをきっかけに、有機部会メンバーの個別農家も法人化していくような形になればいいんでしょうね。家族経営では、今自分が持っている面積だけでも、管理が大変だという声もあって、他のメンバーの手が回らなくなった農地を引き受けるのは簡単なことではないと思います。僕個人としても、今までは恵まれていて、両親も若く、かみさんも農業が嫌いではなかったので、4人で経営ができたけれど、息子の代はそうはいかないのではないか。経営者としての農業にしていかなければいけないのかな、雇用を前提にした法人を考えたほうがいいのかと、考えはじめました」と言う富谷さんは、こう付け加えた。
「……ただ、経営って大変かな。自分のからだや家族を使うのは簡単だけれど、雇用しながら、その上で効率だけじゃない、なにかを求めていくのは大変じゃないかな、という気持ちもあってね。効率を追いかけると、そうじゃないものを捨てていくような。そうでもないのかな。家族農業では限界があるという気持ちは、自分も持っているんです。法人をきっかけに、そういう方向で行きたいなと……」
 心は、まだ揺れている。

(農業ジャーナリスト 榊田みどり)

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