〜支えのつもりが、心の豊かさをもらうことに〜
ネパール・ズビン村のブーメラン

NIJI(虹)AS 代表 宇野全匡
【Network for International Juving Improvement Active Supporter代表】

それは
 偶然から始まった。その偶然は単なる偶然ではなく、必然性のある偶然だったのだと、今も信じている。
 1996年ジャーナリストの友人が、ネパールを訪れた。過酷な山岳地帯での米づくりを取材するために、仲間とたどり着いたのが、ズビン(Juving)村だった。その道のりは、首都カトマンズからバスに揺られて二十数時間。さらに、徒歩1週間という、想像を絶するものだった。
 エベレスト山の麓に位置する、その村の人口は推定2700人。そこには、渓谷の斜面にへばりつくように広がる段々畑と、棚田を見下ろすように点在する石造りの民家。主食はアワとトウモロコシで、米は貴重品だと聞いた。電気もガスも、もちろん電話もない。村人は細々と農業をしながら、ポーターや外国への出稼ぎで、生計をたてている。そんなズビン村で、ジャーナリストは一人の青年と出会い、偶然が始まった。
 青年の名はクリシュナ・クマル・ライ君、24歳。村には未だ学校がなかった。そのなかで、彼は唯一読み書きができる、貴重な存在だ。村をより住みやすい、豊かな地域にしたいという夢を語り、瞳を輝かすクリシュナの意欲に感動したジャーナリストは、クリシュナと村人たちの夢をかなえさせるべく、日本で学ばせることを思い立ち、さっそく日本の友人、宇野和尚たる私に国際電話を入れてきた。1997年4月、クリシュナは初めて日本の地を踏み、山形県大石田町鷹巣に在る、曹洞宗地福寺住職の家族として迎えられた。

そして
 寺の前に7アールの田んぼを借りた。クリシュナは日本の美しい田園風景に、目を見張った。地元農家の技術指導を受けながら、クリシュナの米作りが始まった。ズビン村には農薬も農作業用機械もない。日本での米作り学習は田植えから稲刈りまで、すべて手作業でやることにした。非常に手間暇がかかる作業が続く。それでも、クリシュナは歌いながら、笑顔で汗を流すことを惜しまなかった。
 住職はお檀家や地域の人々に呼びかけて、クリシュナとの交流を促した。農業の元プロのじじやばばたち、そして子供たちが、ワイワイと田んぼに集まりだした。言葉、習慣の違う日本に、たった一人でやって来たクリシュナの周囲から、数日後には笑いが生まれ、涙が流れ、やがて夢が溢れるように語られた。
 法の制約のなかでの滞在でしたが、彼は農業研修はいうまでもなく、多くの新たな夢を抱き始めておりました。故郷ズビンの村づくりのためには、どうしても、教育や医療や電気が必要であった。クリシュナと村人だけの夢ではなく、関わった仲間たち共有の夢にしようとの思いが、支援活動の原点となった。

集まった
「ネパール・ズビン村支援活動を続けよう」との声が上がった。クリシュナは、観光ビザ来日のため3か月で一時帰国し、再来日を繰り返しながら、日本の米作りを通して、多くのボランティアと交流を深めていった。
 春、
 種籾の塩水選から始まり、苗床つくり・種蒔き・水と温度管理・耕起・代掻き・苗取り―彼はもちろん、60名を超える新しい仲間が田植えで燃えた。
 夏、
 手作業は途切れることなく、容赦なしに続いた。無農薬農法で除草剤は一切使わないから、田んぼでは苗と一緒に草も生長する。すべて、手作業で取り除かなければならない。
 苗が小さい初期の除草は、腰を屈めて、泥の中に素手を差し込んで、苗を傷めないよう気づかう。この作業で腰を伸ばす時の痛さは、息が止まるほどだ。初夏には苗が伸び、泥に足を取られ、膝痛に耐えながら除草機を押す。こうした作業を6回ほど終える頃に、お盆を迎え、稲の先が膨らみ始める。
 秋、
 100名を超すボランティアが、稲刈りに参加してくれた。本堂を埋め尽くした交流会は、お祭り騒ぎ。  
 米作りは、1年に1度しか体験できない。また、教育は数年の時の流れを要する。どちらも長期的な継続性が求められ、そのためには温かな人間関係の構築と経済的な裏付けが必要となる。
 交流会で、「クリシュナがボランティアたちと実習田で実らせたお米を、“クリシュナ米”と名付けて販売し、その収益を“クリシュナ基金”にしよう」との提案があり、歓声のなかでクリシュナ基金が生まれ、支援活動が組織化された。
 いつか、クリシュナの笑顔と、ひたむきに汗を流す姿は、関わった多くのボランティアに、忘れかけていた素朴な感動を甦らせてくれていた。


 当時、地福寺にはネパールの青年の他、不思議な人たちが家族として同居していた。不登校や引きこもりの子供たち、人生にもの足りなさを感じ、言葉を発しない大学生、夫婦関係の縺れから2人の幼児を連れてやって来た、笑顔がない若い母と子などなど。
 S君は、中学1年の後半に学校へ行けなくなった不登校生だ。いや、彼は「不登校ではない。登校拒否なんだ」という。中学2年になり、数か月後、地福寺の家族に加わっていた。悩み苦しみに喘いだ彼に、「頑張れ」とは言わなかった。初めて寺で生活する彼の周りには、社会常識からみれば「変な人」たちが居た。
 言葉が通じない2人の外国人―当時、ズビン村から来ていた18歳のアンジャナさんと26歳のキリティ君―もそうだ。 
 思い起こせば、言葉や生活習慣の違いからくる不自由さが、むしろ「変な人」たちを、新たな家族としての絆で結びつけていたのかもしれない。

「HOW」から「WHY」へ
 和尚は、ネパール・ズビン村支援活動のために、各地で講演活動を始めていた。「ゆっくり生きる」「WHY・なぜ生きる」「4つの器」「大楽に生きる」など、人生観の説法行脚だ。差し出された講師謝礼はすべて、ズビン村から来た若者たちの生活や修学に向けられた。
 和尚の人生観、それはいたずらに「HOW・どうやって生きるか」に振り回されるのではなく、「WHY・何故、何をするために生まれて来たのか」に目を向けろ。そして、すべての存在に、駄目なものや不必要なものはない、必要性と必然性があって、存在しているのだと受けとめよ……と説く。
「変な人」たちファミリーの「WHY・何故、何をするために生まれて来たのか」は、朝の行事から始まる。アンジャナは夜明け前に起きて、鼻歌交じりで掃除機を使い、踊るかのように雑巾がけ。キリティは愛用の笛をベルトに挿し込み、草刈り鎌を片手に、やはり鼻歌交じりで田んぼの見回りに行く。仕事が辛く、どんなに汗が流れても、いつもニコニコとして田んぼに居る。少しでも時間があると、日本語の勉強で誰にでも話しかけてくる。
 ズビン村での貧しい食生活ゆえに、彼らは何でもおいしいと残さず食べた。とくに白いご飯は初体験。「ワァー白いー、ウォー光るー、米だけのご飯だー」と大はしゃぎして、おかずなしでお代わりをする。日本の子供たちは、言葉もなくただ見入っていた。
 夢を抱いて、その実現の希望をもって、6000キロ離れた異国からやって来て、人生燃えることに挑戦しているネパールの若者2人。「ズビン村は不便で不自由だけれども、不幸ではない」、「貧しく、何も満たされてはいないけど、故郷はいい」と笑顔で言いきる。便利で、自由で、すべてが満たされている日本人は、それでも「不満」の連呼がつづく。

支援はブーメラン
 無口で実直なキリティと登校拒否生のS君、夢と希望に燃えるズビンの乙女アンジャナと無気力な学生Y君の2組のペアー、彼らだけで3日間歩いてやり遂げる60キロのトレッキング―和尚が用意した可能性への挑戦の旅。
 キリティは、ネパールではプロ級のトレッキングガイドだから、地図が読める。しかし、日本語は分からない。S君は、日本語は大丈夫だが、トレッキングは素人。アンジャナは明るく元気だけど、体力はない。Y君は体力と学力はあるけど、気力がない。重い荷物、買い物、食事、キャンプなど、4人は必然的にそれぞれが持つ能力を出し合って、助け合うことでしか前に進めない。
 3日後、それぞれ別ルートで海岸で合流し、日本海を眼下に見ながら入った象潟温泉。彼らはHOWからWHYへと、見事に変身した。自信に満ち、目を輝かせて夢を語り合う若者たち。敢えて冒険を仕掛けた和尚は、ズビン村に支援をしていたつもりの自分たちが、そのズビン村の若者たちからも救われていたことに気づいた。まさに、NIJI(虹)の支援はネパールからもどって来る、「ブーメラン」の軌跡のようだと実感した。

米粒が「糊」となる
 ズビン村支援活動も10年目に入った。クリシュナの米作り支援から始まった活動も、大きく変わった。
 組織が充実し、NIJI(虹)が設立された。会員制をとり、120名もの会員が支援活動を支えてくれている。実習の田んぼも3か所になり、来日したズビン村の若者は延べ16人にもなった。観光ビザから文化活動ビザでの来日が認可され、1年間の長期滞在が認められるまでになった。
「変な人」ファミリーとして共に生活した人は、すでに30人を超えた。関わったボランティアの仲間は数百人になった。みんな、クリシュナ米でつながった仲間たちだ。お米は不思議な力を持っている、とつくづく思う。人間と人間、そして人間と自然を結びつけてくれる。そしてお米は、ズビン村と私たちの糊となっている。

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