オイスカの農村開発の戦略・実践事例と今後の展開

財団法人オイスカ 広報部 菅 文彦

 

オイスカ(OISCA):The Organization for Industrial, Spiritual and Cultural Advancement-Internationalの頭文字。産業、精神、文化のあり方を見直しながら、世の中を発展させることを目的としている。

はじめに
 1961年に設立され、日本に本部を置くNGOのオイスカは、アジア・太平洋地域や南米の計15か国で農村開発プロジェクトを実施している(2005年2月現在)。その手法として特筆されるのは、現地青年の人材育成に主眼を置いていることであり、活動国のほとんどに農業研修センターを設けて、そこを活動の拠点としている。
 現在でこそ「人材育成のオイスカ」という一定の評価が得られているように思えるが、その戦略は団体設立当初から明確にあった訳ではなく、活動現場の状況やニーズの変化によって、必然的に生まれてきたものである。本稿では、オイスカの農村開発戦略の変遷を時代区分ごとに俯瞰するとともに、具体的実践事例を紹介しながら、今後の展開を整理したい。

農村開発戦略の変遷
<1960年代>
 オイスカが開発途上国で農村開発プロジェクトを行ったのは、1960年代後半のインドが最初である。当時のインドは農村部での貧困が常態化し、同国政府は食糧増産の掛け声のもと、土地の生産性を高めることが至上命題とされていた。同時期に「緑の革命」として、高収量品種や化学肥料、農薬などがアメリカをはじめとする先進国から投入されたことは、よく知られるところである。
 オイスカは日本国内の篤農家を集め、1966年に「第一次インド農業開発団」として17名を派遣したのを皮切りに、約5年の活動期間に延べ約40名がインドの農村に向かった。当時の手法は「モデル農場方式」と言い表すのが適当である。カシミールやウッタルプラデシュ州など数地域に派遣された開発団のメンバーは、地元政府から借り受けた農地で、稲作や畑作のデモンストレーションを行った。そこでの農法は、手作業を中心とした日本の伝統的な農法を基本にしたもので、近代的な灌漑設備や大規模機械を導入することはなかった。
 初めは傍観視していたインド農村の住民も、オイスカのモデル農場が地元の農業収穫コンテストで1位になるなど、目に見える成果を出すにつれて関心を寄せるようになり、近隣農家への出張指導も始めるなど、次第に地元と一体化したプロジェクトとなっていった。しかし、インドの政治体制がソ連(当時)を中心とする東側諸国寄りとなり、日本を含む西側諸国の国際協力援助をすべて拒否する態度に変化したため、オイスカの農業開発団も志半ばで同国を後にすることになった(現在、インドでの活動は再開している)。

60年代のインド農業開発団の様子(クリックすると拡大します)
60年代のインド農業開発団の様子

<1970年代>
 インドの次に、活動の中心国となったのがフィリピンである。同国もまた、当時は食糧増産計画を政府が進めており、とくに稲作の収穫量増加が最大の関心事とされていた。オイスカはここでも「農業開発団」を編成して、数次にわたり日本からフィリピンの農村に開発団員が派遣された。赴任地は、北はルソン島から南はネグロス島やミンダナオ島まで数か所に及んだ。
 その背景には、同国の農業関係の有力者が中心となって「オイスカ・フィリピン総局」が組織化され、その構成メンバーが自己所有の農地をオイスカに供与したことがある。当時の農村開発の手法も「モデル農場方式」が継承され、フィリピンに本拠を置くIRRI(国際稲研究所)が開発した高収量品種も一部導入した経緯がある。
 しかし、70年代半ばにさしかかり、従来の活動評価を行なった際、モデル農場での農法が一般農家へ、予想以上に普及していないことが明らかになった。ここで、オイスカの農村開発の手法に転換期が訪れる。「人材育成方式」の新たな登場である。日本人がモデル農場として、理想的な農法を「見せる」だけではなく、実際に、その農法を実践できる人材を「育てる」ことに主眼が置かれた。従来のモデル農場は「農業研修センター」に生まれ変わり、現地の若者を寄宿舎スタイルで受け入れて、1〜2年の長期にわたり農業研修を行なうことになった。フィリピン以外にも、タイのスリン県やマレーシアのサバ州にも同様の研修センターが設立された。

<1980年代>
 80年代に入ると「人材育成方式」が確立・認知され、バングラデシュ、パプアニューギニアなどにも、農業研修センターが設立された。オイスカの場合、活動国側のカウンターパートは農業省など政府関係機関になり、その関係を通じて、研修センター用の土地を提供してもらうことが多かった。
 この年代のもうひとつの特徴は、農村開発を進める上で、「森林再生・保全」という要素が新たに加わったことである。1984年にフィリピン・ミンダナオ島北部にあるディポログ市郊外の山間地域で、オイスカで初めての本格的な植林プロジェクトが開始された。当地でも、初めは農業の人材育成を進めていたが、周辺の山々から森林が急速に失われたことで、雨期の洪水や乾期の水枯れが頻発したことが、目を「植林」へ向けさせる契機となった。地元の市政府から借り受けた150haの土地の植林に成功したことは、内外から注目を浴びた。
 しかし皮肉なことに、この年代に「植林」という新たな活動要素が加わったことが、以後のオイスカの農村開発戦略を「迷走」させることになる。

フィリピン・ミンダナオ島の植林プロジェクト (クリックすると拡大します)
フィリピン・ミンダナオ島の植林プロジェクト

<1990年代>
 90年代に入ると、地球環境問題が喧伝されるようになり、オイスカの植林活動に対する注目が非常に高くなった。NGOによる海外緑化活動に対する、日本政府や民間の助成金制度も充実したことから、オイスカでも森林再生・保全を前面に出したプロジェクトが台頭する。バングラシュ南部のチッタゴン沿岸域でのマングローブ植林や、フィリピンのルソン島ヌエバビスカヤ州での植林プロジェクトが本格化したのは、この年代である。
 一方で、農業の人材育成も引き続き進められ、フィジーやミャンマーなどに新たな農業研修センターが設立された。こうして、90年代後半には、活動が「植林」と「農業の人材育成」に二分化され、ややもすると「植林」が時代のトレンドと見なされ、「農業の人材育成」が影に隠れてしまった。こうした構造的な問題を抱えたまま、次の時代に突入することになる。

<2000年代>
 この時代に入ると、「植林」に極端にシフトしてしまった農村開発戦略の見直しが計られた。その理由のひとつには、植林活動の現場では、目の前の荒地に木を植えることに心血を注ぎすぎたあまり、その地域に暮らす人々の生活の向上を目指すという、農村開発的な視点を置き忘れたことへの反省が挙げられる。
 そこで、植林活動だけを突出させる発想をやめ、植林と農業開発、地場産業育成などをトータルで捉えた、総合的農村開発のモデルを新たに構築する作業が進められている。その根幹には、プロジェクト推進者となりうる人材の育成が肝要であることは論を俟たない。言い換えれば、「ある地域で生まれ育った人材が、自分の生まれ故郷をより良いものにしたいという願いから研修を積み重ね、やがて故郷への恩返しの意味で総合的な農村開発に取り組む」という筋書きが描けることから、これを「ふるさとづくり方式」と仮称ながら呼ぶことにする。
 オイスカはこうした40年以上にわたる経験のなかで、時代に応じて農村開発戦略の中身を変化させながら、現在に至っている。

実践事例 
〈フィリピン・ネグロス島〉
 フィリピンのネグロス島は、日本の四国の半分ほどの面積で、約300万の人口を抱えている。スペイン植民地時代から大規模農園が広がり、サトウキビ畑が延々と続く光景が一般的である。1980年代には砂糖の国際価格が大暴落したことから、サトウキビ農園労働者の働き口が無くなり、ネグロスが「飢餓の島」と呼ばれていたことは、国際協力関係者で知らない者はいない。
 オイスカでは、1970年代前半にネグロス島南部のドマゲッティ市郊外に稲作のモデル農場を開設したのを皮切りに、81年には同島東北部にあるバゴ市に「オイスカ・バゴ研修センター」を設立した。農園労働者ではなく、自立農民を育てることを目指し、稲作・畑作・養豚・養鶏など、複合的な農業研修カリキュラムを用意して、地元の若者を研修生として毎年20〜30名受け入れている。同研修センターの所長の渡辺重美は、1973年に東京農業大学拓殖学科(当時名称)を卒業して、オイスカの開発団員としてフィリピンに派遣された。以来約30年、そのほとんどの時間をネグロス島での活動に費やしている。
 研修期間は原則として2年間で、初年はジュニアコース、2年目はシニアコースと呼ばれている。研修生は近隣の村の村長からの推薦や、農業大学の卒業生などで構成されており、これまでに研修を修了した者は400名を超え、そのうち約70名は日本国内にあるオイスカの研修センターでも研修を受けている。
 バゴ研修センターから車で3時間ほど内陸部に入ったところには、「オイスカ・カンラオン研修センター」がある。ここでは、カンラオン火山麓の豊富な水源を利用して、稲作技術の実践研修が行なわれている。傾斜地に造成された棚田の面積は、現在では200haに及び、日本の農業団体がテレビCMのロケ地に選んだ逸話がある。
 ネグロス島では、上記2つの研修センターから輩出される人材が中心となり、「稲作」「養蚕」「マングローブ植林」「環境教育」「デイケアセンター(保育所)設置」など、さまざまなメニューを持つ、総合的な農村開発が進められている。なかでも「養蚕」は、近年、内外の注目を集めている。
 熱帯地方に属するネグロス島でも、山間部の標高の高い地域では一日の寒暖の差も大きく、時期によっては、日本の秋を思わせるような天候も珍しくはない。オイスカでは、そうした気候や土地条件などから、蚕のエサとなる桑の栽培に着目して、80年代から試験的に養蚕に取り組み始めた。桑の品種の選定や、蚕の飼育方法など試行錯誤を重ねたのち、研修課目のなかに養蚕も組み入れて、養蚕の専門家を育てることに着手した。そこで育った人材(研修生OB)がオイスカの養蚕普及担当スタッフとなり、自ら山村に入って、農家を廻り養蚕普及に努めることになる。村の空き地に、農家が共同で使える壮蚕所を建て、技術指導を積極的に行った。蚕の飼育は繁忙期には夜も寝られないが、その時は農家の人と一緒に泊り込んだ。
 そうして1996年には、バゴ研修センターからほど近い、ミノヤン地区の約20世帯の養蚕農家から、1トンをこえる乾繭が生産できるようになった。他にも数か所の村で普及を進めた結果、世帯数は100戸を超え、2004年の1年間でおよそ50トンにまで、生産量が増えている。本来であれば、養蚕農家が協同組合を組織化して、繭から生糸を紡ぎ出して、自力で販売して世帯収入とするのが理想的ではある。しかし、そうした形を取るには社会的制約条件も多く、現段階では、各農家が育てた繭はオイスカ・バゴ研修センターが一括して買い上げて、センター内にある製糸機械(日本国内の中古を寄贈)で絹糸に製品化し、マニラなどに出荷している。
 フィリピンでは絹糸の需要は少なくなく、「バロン・タガログ」と呼ばれる礼服にも絹が使われているが、その多くは中国などから輸入しているのが現状である。オイスカでは、養蚕をネグロス島の新たな地場産業のひとつと位置づけ、サトウキビ農園労働にかわる、農民の自立手段として、今後、ますます普及を進めていく方針である。
 ほかに、カンラオン研修センターの研修生OBは稲作のスペシャリストとなり、同島の稲作水準の向上に貢献している。東部沿岸域ではマングローブ植林プロジェクトも行っており、自然生態系の回復とともに、漁村民の生活向上を目指している。実際に、マングローブ林が再生することで、カニや小魚が増え、それを餌とする中型魚が集まることから、漁獲高が増えているという。また、「子供の森」計画(学校単位の森づくり活動で、子どもたちが自分で木を植えて育てる)を通じた、環境教育にも力を入れており、オイスカの研修生OBは植林現場の担当スタッフや、「子供の森」計画コーディネーターとなって、学校を巡回するなど多方面に活躍している。
 バゴ市内外の十数か所に「デイケアセンター」と呼ばれる保育所を建設したことも特徴的で、それにより農村女性に就業機会を提供するほか、バゴ研修センター内で職業訓練の講習も定期的に開いている。
 このようにして、ネグロス島では2か所の研修センターで育った人材が核となり、さまざまなジャンルでの活動に取り組みながら、総合的な農村開発が進められている。同事例はフィリピン政府でも認知されるに至り、2004年にはアロヨ大統領も養蚕普及のようすを視察に訪れている。他にも、国際機関の援助関係者や研究者など、視察訪問者があとを絶たない。

今後の展開
 上記以外の事例を見ても、オイスカの農村開発戦略の根幹には必ず「人材育成」があり、その人材が農村開発において、能力を十分に発揮することが求められている。1970年代から本格的に始められたオイスカの人材育成により、これまで延べ1万人以上の若者を世に輩出しているが、現在、何らかの形で農村開発に関わっている者は全体のわずか1%、100人前後が妥当な数字である。研修センターの運営など人材育成事業に要する、膨大なコストからすると、満足できる数字でないことは明らかである。
 その点で、今後は地域毎に異なる農村開発のニーズを正確に把握して、的確なプロジェクトデザインを描くと同時に、そのデザインに応じた人材育成のシステムを再構築すること(研修課目の見直しなど)が求められている。また、現在すでに農村開発に関わっている研修生OBを対象に、スキルアップを目的とした短期間の再研修コースも充実させるなど、やるべきことは山積している。
 60〜70年代は、日本から派遣された開発団員が先頭に立って農業を実践してきた。続く80〜90年代は、現地の若者を育てることに主眼を置いてきた。2000年代を迎えたこれからは、その育てた人材をどう生かしていくか。その点で、オイスカ(*http://www.oisca.org/)は新たなチャレンジの時期を迎えている。

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