酒飲み話に始まった「赤米ルネッサンス」
いまどき赤い米を作る人、食べる人

日本に初めて伝来した米は、赤米だった

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 日本への稲作伝来には諸説あるが、縄文時代後期、民族の交流や移動とともに中国大陸から西日本に伝わったというおおまかな歴史は、小学校の教科書にも記載されている。
 しかし、もともと日本に伝えられた最初の稲は、赤米だったという事実は意外と知られていない。
 本来、野生イネは赤米も含めた有色米が多い。有色米には、赤、黒(紫)、黄などがあるが、赤系の色素はカテコールタンニン、黒系の色素はアントシアニンが主流だ。黄米は、色素含有の少ない赤系の米である。白米は、これらの色素を全く持たない米だ。
 遺伝的には有色米が優性で、白米が劣性。白米は、有色米をルーツに生まれた“変わりもの”だったとも考えられている。
 生物学的に考えれば、劣性の白米が優性の赤米に淘汰されていてもおかしくなかった。事実、赤米は、中世の日本では広く普及し、11世紀後半になると、中国から渡来した「大唐米」や「唐法師」と呼ばれる長粒種が広く栽培された記録がある。
 しかし19世紀以降、日本では政策的に白米の増産が進められ、とくに明治中期以降は徹底した赤米の除去政策が行われた。結果、つい10年ほど前まで、赤米は神田などごく一部で、祭祀用として細々と栽培されるだけの“特殊な米”と化していた。
 その赤米を復活させようという動きが生まれたのは、1980年代以降のことだ。純粋な育種研究としては、米過剰時代を迎えた1970年代末以降、宮城県古川農業試験場をはじめ、兵庫県、岡山県など各地の農業試験場で有色米の育種への取り組みが始まっていたが、これが民間に広がり、実際に食用として農業者たちが作り始めたのは、1988年、「日本古代稲研究会」を中心にした活動が最初と言われている。
 同じ頃、福岡県農業総合試験場でも、赤米とモチ品種を交配した新たな赤米品種が誕生していた。この品種を元に、同県二丈町の農家たちが民間育種をスタート。8年の年月をかけて、選抜育種に取り組みながら、生産者を増やしてきた。いまや、その「二丈赤米」は、約35トンの年間生産量を誇る市販米にまで成長している。

「糸島町赤米プロジェクト」の結成


福岡県糸島郡二丈町で赤米を作る吉住公洋さん

 二丈町を訪ねてみた。町のシンボルといわれる二丈岳の頂上からは、玄界灘を経て壱岐、対馬を望む。その先には、遠く朝鮮半島が霞んでいる。古くから大陸と日本をつなぐ海路の玄関口といわれる町で、稲作開始期の遺跡といわれる「曲がり田遺跡」
があるのもこの町だ。
 この町に「二丈赤米産直センター」という施設がある。地域で生産される赤米の集荷・販売拠点で、赤米生産農家、吉住公洋さん一家が経営している。91年から二丈赤米の育種・生産に取り組み、二丈赤米を育てた立て役者のひとりだ。「いやあ、はじめは非常に軽い酒飲み話だったんですよ」
 吉住さんは、苦笑しながら経緯を話してくれた。
 福岡農試の技師、松江勇次氏が、赤米とサイワイモチを交配したのが1985年のことである。当時、赤米田として知られていたのは、岡山県総社市の国司神社、種子島の宝満神社、そして対馬の豆酘にある多久頭魂神社の3か所の神社田だった。このうち、対馬系の赤米品種が交配に使われた。
 その品種に注目したのが、全国的な減農薬運動の波を起こしたことで知られる宇根豊さんである。当時、農業改良普及員だった宇根さんは二丈町に在住。松江氏が交配した品種を元に、87年頃から独自に育種選抜を始めていたらしい。「その頃、町の農家7〜8人で村おこしグループの集まりをつくって、いろいろな活動をやっていた。宇根さんも、そのメンバーだったんですが、ある日、『こんな品種があるよ。作ってみらんね』と。それが最初ですね」
 さっそく「糸島赤米プロジェクト」を結成。1991年、まずは吉住さんが10アールの水田で栽培を始めた。約100品種を1枚の水田にパッチワーク状に手植えし、収穫も手刈り。それぞれを脱穀して収量や色、味を比較する選抜育種が始まった。「面白かったですよ。遠縁の品種をかけるので、ものすごいのが出ますから。早生だったり晩生だったりするので、刈るときも別々。脱穀も、坪刈り試験用の脱穀機でないと落とせないし、坪刈り試験用の籾摺り機も、普及センターから持ってきてもらった。赤と白の斑とか、薄い赤、白と、いろいろな色の米ができるんです。丈も、30cmもない小さな稲から2m以上になって倒れるものまで。穂が出ても花が咲かないやつもある。今の品種はほとんどコシヒカリ系統で似通っているけれど、遠いものをかけると、本当にいろいろな稲が出てくる」(吉住さん)
 そのなかから、とりあえず、ほどほどの背丈で倒れにくく、玄米の赤色が濃く、しかも、もち米であるものを選抜していった。「色のいい赤米で栽培もそこそこ普通にできて、おいしい米。唐法師など昔の赤米は、アミロース含有量が高くて食味が悪いので、アミロースのないもち米にしようと。もっとも、最初の育種目標は、とりあえず『倒れない』でした。食味だの量だの言う以前に、まず普通に作れる稲をつくるのが目標でしたね」
 ちなみにプロジェクトがスタートしたばかりの91年、田植え時期からマスコミで紹介されたためか、この年から早くも消費者の注文が殺到した。「需要に供給が対応できなかった。しかもパッチワーク状で作っていて、品質のばらつきのある米ですから、送るひとによって、赤かったり、斑だったり(笑)」
 2年目には、面積を約30アールに増やした。同じ村おこしグループの稲作専業農家、松崎治磨さんも約25アールで栽培を始め、生産量は倍増した。しかし、注文数のほうがさらに伸びる。まだ品種が固定していないにもかかわらず、需要に後押しされる形で、赤米生産は広がり始めた。
 プロジェクト発足から4年目を迎えた94年、ようやくいくつかの品種が固定した。宇根さんは「未来1号」、吉住さんは「吉住1号」、松崎さんは「松崎1号」……と、それぞれが選抜した品種に名前をつけた。正式な「二丈赤米」の誕生である。

赤米生産、広がる
 品種が固定すると、赤米生産は加速度的に増えた。生産組織として「二丈赤米生産組合」が生まれた。現在、吉住さんは3ヘクタールの水田すべてを赤米生産に切り換え、松崎さんも5.5ヘクタールを赤米生産に充て、グリーンコープ事業連合など、生協との契約栽培も始まった。平成15年産米は、生産量約35トン。作付面積は12ヘクタールまで広がった。
 一般の米屋は、精米ラインで赤米が白米に混入する可能性があるため、販売を扱ってくれない。赤米販売拠点として「二丈赤米産直センター」が誕生した。ミカンと米の複合経営だった吉住さんが、かねてからミカンの産直販売を手がけていたため、「赤米のように、一般流通に乗らない産直向きの品物は、自動的にうちが販売をする形になって」(吉住さん)、センターの運営を任された。
 販売価格は1キロ1200円。玄米1俵に換算すると6万円にもなるというから驚きだ。「基本的に逆算です。この辺りでコシヒカリや山田錦を1反作ったときよりも、せめてイコールかプラスの収入にならないと、収量や栽培・管理の手間暇を考えると誰も作らない。それ以下の値段でしか買ってもらえないものであれば、作る必要もないし、もっと言えば、赤米をわざわざこの世に復活させる必要がないというか、生産者にとっても道楽以上のものにならない。この値段でないと、再生産できないということなんです」と吉住さんは言う。
 赤米の平均反収は約280kg。4俵半程度だから、白米に比べれば半分くらいの収量しかない。「稲は、基本的には田んぼの閉鎖系のなかで育つわけですね。赤米は、米粒の外側のヌカの部分に色素を合成しないといけないし、ガラス繊維のような二酸化珪素も作らないといけない。収量が少ないのは当たり前なんです。土壌の成分が形を変えてイネになっているわけだから、同じ体積の土からできる量は、白米のほうが多くなるわけです」(吉住さん)
 しかも、白米と混ざらない配慮が必要なので、赤米の収穫専用のコンバインを1台用意するか、白米の収穫が終わってから、赤米収穫のためにコンバインを念入りに掃除しなければならない。これも手間暇がかかる。万が一、栽培段階で赤米が白米の水田に混ざってしまったら、白米の品質評価に大きく響く。「ヒエとちがって、米と米ですからね。除草剤をまくわけにもいかない。手で抜くしかない。1回混入したら、大変なことになります。赤米生産者を増やすときにも『とにかく混ざらんように』と言っています。せっかくここまで伸ばしてきたのが、地域全体に迷惑をかけてしまって、それでやれなくなってしまうから」

いつから「米、イコール白米」になったか
 それにしても、そこまでしてなぜ赤米の復活だったのか。「最初は面白半分で、何も考えずに作っていましたね」と吉住さんは言う。しかし、赤米プロジェクトを始めて、実は赤米の伝えるメッセージが非常に多面的なことに気づいた。「米を食べている民族で、白い米しか知らないのは日本人だけなんです。逆に珍しいんですよね。白い米を食べるのでも、バラエティのあるなかから白い米を選んでいるということを知った上で食べることが、じつは大事なのではないかと思うんです」
 東南アジア諸国では、祝祭時の行事食として、いまも赤米や黒米が赤飯、おかゆ、菓子などに使われる。日本では、小豆を使って赤飯を炊くが、これは赤米栽培が消えていくなか、その代替品として小豆が使われるようになったものといわれている。なぜ、日本では赤米が姿を消し、「米」といえば「白い米」を意味するようになったのか。これには、日本の米政策が大きく影響している。
 結論から先に言えば、良食味で収量の多い米を追求した日本は、病虫害には強くても収量性と食味で劣る赤米を捨て、白米を選んだ。
 とくに明治36(1903)年、農商務省による農事試験場の整備を機に育種強化が打ち出されると、その流れは強まる。全国に分布する在来品種を収集し、全国10地域ごとに生産を奨励する優良品種を発表した。一方で、赤米が雑草化して白米に混入するのを嫌い、排除策をとる。その後、昭和2(1927)年に、農林省が全国を9地区に分けて育種組織を設立したのが、今日の育種体制の基本になっているが、白米への統一という流れは、以来、1987年に農水省がスーパーライス計画を打ち出すまで変わることがなかった。
 白米のなかでも、戦中・戦後の食糧難時代は多収性がなによりも重視されたが、70年代、米過剰時代に突入すると、品種開発は食味重視に舵が大きく切り替わる。かくして、コシヒカリ系統の良食味米が、日本全国を埋め尽くしてきた。「明治政府が白米を選んだ理由もわからなくはない。商品として流通させるには、やはり白いなかに赤が混ざると異物になる。今のように選別技術が発達していなかった時代です。しかも品種固定していなければ、同じ赤といっても薄い赤から濃い赤までいろいろなものが出るので、自家用には問題なくても、商品流通としては都合が悪い。それなら全部白にしちゃえというのも、ある意味では合理性はあったと思うんです。行政から見れば、赤米がなくならないと、米生産の近代化が計れないということもあったんではないですかね」
 その時代背景を踏まえた上で、栽培・精米・流通技術が向上した今だからこそ、今度は逆に復活させる合理性もあるのではないかと吉住さんは考えている。

赤米は命が強い
 今、赤米を復活させる合理性とはなんだろうか。吉住さんは言う。「一言でいえば、『近代化に対する疑問符の提唱』ということになるのかもしれません」
 じつは、政府が赤米排除策をとっても、赤米栽培は消えなかった。神社田だけでなく、島嶼部や山間部などでは、昭和初期まで赤米を作り続けていた農家があったと聞く。理由は、稲作環境に恵まれない所でも、ある程度は安定した収量がとれる生命力の強さだった。商業流通では邪魔でも、農家の自給用としては貴重だったのだ。「冷や水のところでもできるし、干ばつのときでもとれる。飢饉対策としては、農家にとって必要な米だったんでしょうね。だからこそ、政府が圧力をかけて排除しないとなくならなかった」(吉住さん)
 しかし、赤米の持つその強さこそが、今日、赤米を復活させる意義につながっている。現在、二丈赤米生産組合のメンバーは、それぞれの水田に適した品種を選んで栽培しているが、「共通しているのは、赤米が玄米として優れていること。それから、化学肥料がいらないこと。そして、雑草対策以外では農薬を必要としないことです」(吉住さん)
 農薬のいらない品種を選抜してきた、といえばそうだが、もともと野生種に近い赤米は、鳥や虫から守るために籾殻が固く、虫が付きにくい。化学肥料が登場する以前から日本に根付いていた稲だから、化学肥料なしでも育つ。環境負荷が低い低投入型の稲作が可能な上、食の安全性に敏感な消費者のニーズにも適応している。
 以前は注目されなかったカテコールタンニンなどの色素などをはじめ、ミネラルやビタミンの含有量も白米より多い。宇根豊さんが、自ら品種開発した赤米に「未来」と名付けたのも、単なる過去の遺物の復活ではなく、いまだからこそ評価されるべき「未来の米」なのだ、という思いを込めたからにちがいない。「いまの稲には、なんで農薬使わんといけんのだという話を、赤米を通じて、食べるひとと直接することができる。さらに、環境という切り口から化学肥料の話もできるし、健康、食料問題、さまざまな要素が赤米には絡んでいると思います」と吉住さんは言う。

赤い稲穂の「花見会」


バスで一面の赤い穂を「花見会」に来る人々

 日本では主流の白米が、数多くある米品種のごく一部なのだと知ることで、他の品種であれば必要のない作業や労働力、そしてさまざまな環境負荷を敢えて選択しながら、我々は白米を食べているという事実にも気づく。「赤米を食べながら、近代化の行きすぎた部分を取り戻すというか。赤米を食べることで、なんで白い米ばかりになっちゃったんだ、と考えてもらいたい。何気なくコンビニのおにぎりを食べるのではなくて、なんでこんなに白いんだろう、なんでこんなに光っているんだろう、なんで賞味期限がこんなに長いんだろうと考えてもらいたい。お金を出して食べるひとが、少しでもそういうことに関心を持ってくれれば、流通のためにかけている農薬をかけなくて済むようになる部分も、たくさんある。赤米は、そういうメッセージでもあるんです」
 ちなみに、赤米の稲刈り期は11月である。九州で稲刈りが盛んな9月、赤米の田んぼは、赤い穂で埋め尽くされ、赤く染まったれんげ畑のような美しい風景を見せてくれる。その風景を見に遠くから消費者が足を運んでの「花見会」も開かれる。「町のひとが田んぼに足を運んでくるのが、赤米の一番すごいところですね。食べるひとたちにメッセージを伝える媒介として、赤米は非常に有能なんです」

 吉住さんは、―赤米とともに、昔の食文化なり、百姓的な生き様、人間のあり方をもう一度思い出してほしい。祝いの日、嬉しかった日に、「今日のご飯は赤米にしよ!」と気軽にバラエティ豊かな食生活を楽しんで欲しい―と、見学に訪れる消費者に語りかけている。
 最後に吉住さんが、ぽつりとこうつぶやいた。
「なんだかねえ……、たまに操られているような気もするんですけれどね、赤米に。結果的に彼らは、私らを利用することで自分の種族を増やしているじゃないですか。うまいことやられたかなあと思ったり」
 10年来、赤米の復活に付き合ってきた人ならではの一言であった。
(農業ジャーナリスト 榊田みどり)

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