慶長6年、棚田2240枚

わたしたちが誇りにしている地域資源に丸山千枚田がある。
―三重県紀和町条例から―

 今年6月、和歌山・三重・奈良3県にまたがる熊野古道が世界遺産に登録された。その熊野古道の一部を抱える三重県紀和町には、以前から古道以上に知られた名所がある。丸山集落に広がる1340枚の丸山千枚田だ。
 日当たりのいい白倉山の南西斜面、標高約100mから約250mの間に、石積みの畦に囲まれた棚田が、さざ波のように美しい幾何学模様を描いて連なっている。 「今は田植えが終わって、田の草とりが3回目に入ったかなあ。とくに田んぼに水を張った頃は、どっから聞いてか、カメラマンの人たちがたくさん来て。こんな素晴らしい所は、日本中どこを回ってもそんなにない。いつまでも守ってよ、と言われる。そう言うていただくだけでも、ありがたいなと思ってなあ」

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 丸山千枚田保存会の会長、小西宏さんは、そう言いながら、千枚田の広がる風景に目を細めて微笑んだ。
 三重・和歌山・奈良3県の県境にある紀和町は、林野率89%という山村だ。平地はほとんどない。以前は、昭和9年(1934)に開山した銅鉱山が基幹産業で、ヤマの男たちが大勢集まった昭和20年代、人口は1万人を超えていた。それが、1978年に鉱山が閉山して以降、急速に過疎化が進んだ。現在の人口は約1800人。高齢化率50%という数字は、全国1、2位を争う高さだ。
 しかし、吉野や熊野本宮にほど近い紀和町には、南北朝時代の史跡を始め、刀工や石工など古くからの伝統技術も息づいている。石工技術の高さを伺わせる千枚田も、記録によると、すでに慶長6年(1601)には、2240枚、7.1haの規模があったという。
「それ以前の記録はありませんが、近隣地域にも棚田が多いのを見ると、かなり歴史は古いのではないかと思います。戦国時代の影響で、石工も多かったという背景があるんかもしれません」と、紀和町産業振興課の濱中拓也さんが説明してくれた。
 今でこそ美しい景観が多くのカメラマンや観光客を集めているが、わずか10年前、この千枚田は消滅の危機にさらされていた。減反と高齢化のなかで荒廃が進み、千枚田とは呼べない規模にまで棚田が減少していたのだ。1992年には、1000枚の約半分、530枚にまで棚田は減っていた。
 山に戻りつつある千枚田を再び復元したのは、地元の丸山集落の人々の熱意だった。93年、「丸山千枚田保存会」を結成して、千枚田の復活に動き出したのである。

高度成長による人口流出と減反のなかで
 慶長6年、7.1haだった千枚田は、明治期には11.3haまで増えた。その後、戦中戦後にも大きく変化することなく、1960年代まで、ほぼ昔のままの姿をとどめていたという。
 ところが、高度成長期が始まると、様相が一変した。農村から若者たちが都市へ流出する。農の近代化路線の中で機械化が進められると、千枚田は、単なる生産効率の悪い圃場と化した。さらに1970年、米の生産調整が始まる。千枚田では、稲作から杉の植林などに転換する農家が続出した。
 前出の丸山千枚田保存会の会長、小西さんは、当時をこう振り返る。
「今、杉を植えてあるところも昔は田んぼやった。食料事情がよくなって減反になったら、どうしてもなあ。僕も、1町4反の田んぼを買うて、全部植林してしまったこともあった。あの頃は、国が植林を奨励してくれて、少し補助も出た。梅がいいと言われて、2反くらい梅も植えとったんだけれどねえ。これもまた全部切ってしまって、そのあと今度は、仏さんにお供えする小花を3000本くらい植えて……」
 生産圃場としては圧倒的に不利な千枚田をどう生かせばいいのか。小西さんの話を聞いていると、試行錯誤していた当時の集落の人々の光景が目に浮かぶ。
 やがて、試行錯誤の時代は過ぎ、とくに1980年代以降の過疎化・高齢化の進行のなかで、千枚田には休耕地が目立ち始めた。雑草が生い茂り、雑木が生え、美しい石積みも、所々で崩壊が目立ち始めた。
 地域の伝統や景観を将来に伝承するためにも、荒廃した水田をなんとかしなければならないのではないか。丸山集落の人々の間で、そんな話題が出るようになったのは、90年頃だったという。その丸山集落の人々の思いは、鉱山の閉山後、新たな基幹産業が育たない中で、恵まれた自然環境や史跡を軸にした観光産業で、地域活性化の活路を開きたいという町の思惑と一致した。
 93年7月、丸山地区24戸と町長、町職員4人が集まって集落座談会が開かれた。千枚田の保全をどうするか、話し合った結果、町の協力を得て、集落で千枚田を復元しようと意見がまとまり、翌8月、丸山集落33戸全員が加盟する「丸山千枚田保存会」が発足した。
 町は、県単独事業のグリーンツーリズム強化支援事業を導入して整備機械を導入するなど、保存会の活動を積極的にバックアップした。この年4月に設立された「(財)紀和町ふるさと公社」も、保存会と連携して千枚田復元を支援する体制をつくった。町を挙げての復元作業が始まった。

全国初の千枚田条例を制定
 雑木を伐採して切り株を掘り起こし、壊れた石積みを修復しての千枚田復元作業は、当初、かなり骨の折れる作業だったらしい。年間90日以上を費やして、93年の秋から94年末までに復元できた棚田は約20枚。それが翌95年に290枚、96年に210枚、97年に290枚と、4年がかりで計810枚の棚田を蘇らせた。これで、棚田の総計は1340枚。千枚田という名にふさわしい、見事な景観が復活した。
「石積みも50か所くらい直したんですよ。積み具合の悪いところもあったし、崩れたところもあってね。年に10か所くらいずつ、5年くらいかけて直したんです」と小西さんは振り返る。実は、小西さんは、もともと石工である。6年前、保存会の2代目会長を任されるまでは、千枚田の中にある約50aの自作田を耕作しながら、県内はもちろん奈良、和歌山など各地を回って石積みの仕事をしてきた。千枚田の石積みの管理は、お手の物である。石工の伝統は、先人たちから伝えられ、今も地域に根付いていたのである。
 復元作業が始まった翌94年3月、紀和町は全国で初めて千枚田保護を謳った「紀和町丸山千枚田条例」を制定した。
「わたしたちが誇りにしている地域資源に丸山千枚田がある」という一文で始まるこの条例には、単なる生産圃場としてではなく、文化や景観など、生産効率だけでは計れない千枚田の価値を見捨てまいとする、地域の人々の熱い思いがこめられている。多少長くなるが、その一部を紹介しておこう。
「千枚田は、幾百年もの昔、一鍬ずつ大地を起こし、石を積み上げ、土を宛いながら営々と2400余枚を造成し、以来、今日まで休むことなく天水を貯え、芝を刈り込んで耕作し、管理してきたのである。
 また、ここに住む人たちは、裾野を埋め尽くす雲海に朝の英気を養い、暮れなずむ連山の空を赤く染める落日に心を癒しながら、正に、千枚田と共に生きつづけてきたのである。歴史はめぐり、時は流れたとはいえ諸々の日本の農耕文化の原点を内包しているのが千枚田である。
 わたしたちは、ここに先人の英知と偉業を偲びこれを称えるとともに、千枚田に親しみ、愛しつつその保護に一層努力することを宣言し、この条例を制定する」

「オーナー制度」と「丸山千枚田を守る会」
 千枚田を復元したら、今度はその維持が必要になる。つまり、そこで稲作が行われなければ、風景は再び荒れてしまう。これは、丸山集落の人々だけの力では、どうしようもない。保存会や紀和町では、その労働力として、町内外の人々の手を借りる方策をたてた。
「千枚田条例」を制定した94年と95年には、千枚田の歴史と文化を伝え、保全活動に理解を広げようと「田植え祭」と「稲刈りの集い」を開催。田楽など、古くから伝わる芸能文化も披露した初年度の田植え祭には、地元の小学生や三重県勤労者ゆとり創造基金協会(現・三重県勤労者福祉協議会ウィークプラザ事業実行委員会)の会員ら約300人が参加。翌年は600人と、参加者は倍増した。
 翌96年には、さらに広く参加者を募ろうと、「丸山千枚田オーナー制度」を開始した。年会費は1口3万円で、100平方メートル相当の棚田のオーナーになる。田植えと稲刈りに参加してもらい、特典として年2回、地元野菜と、千枚田で収穫された白米15kgが宅配される。「土を守り、自然を愛する人」「農業に情熱を持っている人」「農作業に従事できる人」をオーナー条件に新聞などで公募したところ、予想を超える応募が集まり、抽選の上、68組のオーナーを受け入れた。
 その後、復田が進むに従って受け入れ数も増え、99年にはオーナー数は100組を超えた。今年度のオーナー数は111組で551人。うち約4割の45組は三重県内のオーナーだが、愛知県が29組、大阪府が17組と近畿・中京圏の都市部からの参加も多い。新幹線、特急、バスを乗り継いで約6時間もかかる東京都内にも、4組のオーナーがいるというから驚く。
 オーナー水田には、名前を書いた札が立てられる。除草や防除、水管理など、田植えと稲刈り以外の作業は、保存会を中心にした地域住民や町内外のボランティアが担っている。田植え、稲刈りに参加できなかったオーナーの水田管理も、保存会が中心になって行う。除草作業など、手の回らない部分は、人件費を支払って業者委託もしている。これらの管理事業費は、町が助成する。
 97年には、千枚田の広がる白倉山中腹に、山村振興等農林漁業特別対策事業費を導入して、宿泊施設のある交流促進センター「千枚田荘」も建設された。客室の窓からは、千枚田の風景が眺められる。料金は素泊まりで1泊4000円だが、千枚田オーナーには1泊1000円という特典がある。紀和町ふるさと公社が運営委託を受けており、同公社が町の特産品として飼育に力を入れているキジ料理も味わえる。
 この年から、保存会が作り方を指導しての案山子づくりと、その作品コンテストも開催されるようになり、田植えや稲刈り期以外に千枚田を訪れるオーナーが増えてきた。
「草刈りに来てくれるオーナーさんもおるよ。夏休みに入ったら、案山子づくりがてら田んぼに来て、田んぼの仕事して帰る人もおるし、稲がどのくらい成長したか見に来る人もおるし。そういう人たちのおかげで、ずいぶん助かっているし、オーナーさんと触れ合うことも、ありがたいなと思って感謝しています。オーナーさんあってこその千枚田ですよ。この前は、滋賀大学の大学生が27人、先生と来てくれて、これもありがたいと思ってます」
と小西さんは言う。
 しかし、最も小さな棚田には稲3株しか植えられない、という千枚田である。景観を重視して、省力化のための畦カバーなども一切使用していないから、おびただしい数の畦畔を管理するだけでも、かなりの手間がかかる。さらに、近年は鳥獣害もある。千枚田の外郭は、イノシシから稲を守るための電気を流している柵が張り巡らされている。
「細かい田んぼを1300枚以上も守るってことは、それは大変じゃよのお。冬場から田起こしして、2月頃から畦剃り始めて、剃った時点で水を貯めて、そしたら今度は畦ぬり。それが終わって、初めて畦刈りして。この畦刈りに、延べ20日から25日はかかるんですわ。それが終わったら、耕耘機を入れて田植えの準備。7割くらいの田んぼは、耕耘機が入るけれど、残りの3割は入らない。男も女も、鍬で耕してもらって。大変な苦労があるよ」と小西さんは言う。
 99年、町はオーナー制度に加えて「丸山千枚田を守る会」を発足させた。千枚田に足を運ぶことができない遠隔地の消費者を対象に、千枚田の維持管理協力金を募るのがねらいだ。こちらは1口1万円で、会員には千枚田で収穫された白米1.5kgと、年3〜4回の機関誌が送付される。今年度の会員数は40人で44口だった。
「これもありがたい。資金源がなければやっていけないから、本当にありがたいわ」
 小西さんの口からは、「大変だ」という言葉と「ありがたい」という言葉が、何度も飛び出す。そのどちらの言葉にも実感がこもっている。千枚田を守る作業は、地元の人々のそれだけの負担と、地元以外の人々のそれだけの善意に支えられて、初めてなんとか成り立っている、ということなのだろう。

景観保全か観光資源か 
 実際、千枚田の維持管理にはコストがかかる。保存会のメンバーの平均年齢は70.3歳。いくらボランティアがあるといっても、草刈りなど業者委託がなければ維持管理は難しい。その人件費が最も大きい。さらに、オーナーたちが集まる田植え・稲刈り期の送迎バスなどのイベント経費、米や野菜などの送料もかかる。
「年間1200万円程度の維持費はかかっています。そのお金をどこで工面するか。千枚田の保全を農村文化の保全と位置づけるか、それとも観光資源と位置づけるかで、そのコストに対する見方もちがってきます。保全なら、コストを度外視して町予算の持ち出しも理解してもらわなければならないし、観光となると、採算という視点が必要になります。今はまだ町でも、その位置づけの整理がきちんとできていない段階です」(紀和町産業振興課)
 オーナー制度や千枚田を守る会の会費だけでは、とうていカバーできない金額で、今までは、国・県の助成金のほか、町予算年間約600万円の持ち出しで対応してきた。
 しかし、5カ年事業として導入されていた「特定農山村地域市町村活動支援事業」が2003年度で終わり、その年間助成金250万円が今年度からなくなった。その分も町が負担しなければならない。近年、補助事業とその事業費が減少傾向にあることを考えれば、今後の維持コストは、オーナー制度、千枚田を守る会の会費、そして町予算が中心にならざるをえない。
 もちろん、オーナーや守る会会員からの会費が増えるのが理想的な展開だ。
「できれば200組くらいオーナーさんを集められたらええんやけど、それは、なっかなか難しい」(保存会会長の小西さん)のが現状だ。
 より積極的に外から人と資金を集めるために、町もさまざまな試みを始めている。99年には、千枚田近くにオートキャンプ場を建設。直売所「千枚田ふれあい市場」も開設し、千枚田を核にした地域ぐるみの観光化に力を入れ始めた。また、地元中学校のPTAが、田植え・稲刈りだけではなく、より踏み込んだ千枚田保全に取り組む姿勢を見せているのに合わせて、千枚田の一部を学校体験エリアと位置づけてはどうか、食育や農業体験が学校教育でも見直される中、県外の修学旅行生なども受け入れを考えてはどうか、というアイデアも生まれている。

丸山千枚田保存会の会長、小西 宏さん

「どうしても守っていかないかん」
「今までの10年間で、復元・保全・管理の基礎を構築して、オーナー制度も確立した。その意味では、今はちょうど、第一期が終わったところで、今後どうしたらいいのか、どう維持していくかという第二期に入った段階だと思います」(町産業振興課)
 千枚田保存会の人々も、思いは同じだ。以前から、復元が難しい棚田や畦畔に彼岸花を植えてきたが、今年秋には、千枚田の裾野にある放棄地に、レンゲも播くことに決めた。
「レンゲを播いて、きれいやねって見ていただくのもいいんじゃないかと思って。みんなに喜んでもらって、そして、これだけの観光客がみえるんだから、それが、たとえ少しだけでも資金源になるような方法につながれば、ありがたいと思うんやけど」(小西会長)
 熊野三山と熊野古道が世界遺産に登録された7月1日の夜、丸山千枚田では、提灯を持った地元の小学生らが棚田を練り歩いた。1955年頃まで行われていた「虫おくり」の行事の再現である。
「ただ、世界遺産バブルには踊りたくないんです。あまり古道を強調すると、いずれ集客は減る。古道が注目されているうちに、この町はこの町でしっかりと、千枚田を維持できる形を作っていかなければ」(町産業振興課の濱中さん)

 世界遺産登録は、観光資源としての千枚田の価値を引き上げる起爆剤にはなり得る。しかし、地元の人々にとって大切なのは、観光資源としてであれ、文化保全としてであれ、とにかく今の千枚田の風景を守り続けることなのだ。保存会会長の小西さんは言う。
「これだけみんなから、きれいなとこやと言われて、本当にありがたいと思っているし、どうしても守っていかないかんと思っているんです。今の若いひとたちにも、僕はもう年やから、これからもちゃんと守ってやってくれよと言うてあります。集落でも50代の方がようけいおるし、その人たちがきっと守ってくれる」
(農業ジャーナリスト 中村みなみ)

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