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長江流域における世界最古の稲作農業

国際日本文化研究センター
教授 安田喜憲

1.世界最古の土器を作った人々が稲作を開始した


図1 最終氷期最盛期の東アジアの古地理と最古の土器と稲作の起源地(Yasuda,2002)


 図1は、これまでの花粉分析や古地理のデータにもとづいて復元した、最終氷期盛期の東アジアの古地理図に、初期の土器と稲作関連の遺跡の分布をおとしたものである。東アジア北部は乾燥気候が卓越し、レス(黄土)と乾燥した草原が広がっていた。一方、長江以南の中国大陸から海面の低下によって陸化した東シナ海には、海沿いにカシやシイ類を中心とする照葉樹林が、内陸部と北方には針葉樹林と落葉広葉樹林の混合林が生育していた。最終氷期の東アジアには、北と内陸部の草原地帯、南と海岸部の森林地帯という異質な2つの生態地域が明白なコントラストをもって分布していた。


(写真1) 湖南省道県玉蟾岩遺跡

(写真2)玉蟾岩遺跡から発見された最古の土器


 近年の中国考古学の発展によって、土器の起源について新たな発見があいついでいる。中国における土器の起源については、暦年代2万〜1万8000年前の最終氷期最盛期後半にまでさかのぼりうるものが発見されている。広西チュワン族自治区桂林廟岩遺跡、同柳州大龍潭遺跡では暦年代2万年前にまでさかのぼる土器が、さらに江西省万年県仙人洞遺跡・吊桶環遺跡、湖南省道県玉蟾岩遺跡(写真1)からは暦年代1万8000〜1万7000年前にさかのぼる土器(写真2)が発見されている。世界最古の土器はこうした長江中流域の南部で最終氷期最盛期後半の2万〜1万8000年前に誕生していたとみなしてよいであろう。一方、日本列島北部からシベリア極東地域においてもロシアのガーシャ遺跡やフーミ遺跡、さらには青森県大平山元遺跡、中国河北省虎頭梁遺跡などから、1万6500年前にさかのぼる土器が発見されている。
 こうした世界最古の土器の出土地点を最終氷期の古地理図におとしてみると、興味深い事実が明らかとなる。大半の最古の土器の出土地点が森林地帯に近接して分布するのである。しかも、そこには小柄で短頭の港川人やワジャク人に代表される「森の民」が生活していた(図1)。このことから、最終氷期最盛期が終末に近づいた頃、「森の民」が、いちはやく土器づくりを開始し、世界にさきがけて定住生活に入ったということができるだろう。氷期から後氷期の気候変動のなかで、いち早く森林環境が拡大した中国南部において、土器は2万〜1万8000年前の最終氷期最盛期後半に出現し、1万6500年前には日本列島北部から沿海州において土器づくりが始まった。

2.定住革命から農耕革命へ
 土器づくりをいちはやく始め、定住生活に入った「森の民」が、稲作農耕を開始した。これまで稲作農業の起源は雲南省を中心とする東亜稲作半月弧で、せいぜいさかのぼっても5000年前に起源したとみなされていた。しかし、近年の発見によって、稲作は長江中流域で1万年以上前に誕生していたことが判明した。そうした最新の研究成果は、厳・安田(2001)(1)とYasuda(2002)(2)を参照いただきたいが、稲作の起源が麦作と同じか、さらに古い時代にまでさかのぼる可能性さえ出てきたのである。
 これまでの結果をみるかぎり、稲作は長江中流域で始まったとみなしてよい。最古の土器を作った人々が住んだ仙人洞遺跡や吊桶環遺跡などのタワーカルストの洞穴遺跡からは、暦年代1万5000〜1万4000年前までさかのぼるイネのプラントオパール(イネ科の植物の細胞壁に珪酸が沈着して形成される植物珪酸体。物性が安定しており、植物体が分解された後にも残る)の証拠が発見されている。しかし、プラントオパールだけでは、なかなか確実な証拠とはみなされない。そうした中で玉蟾岩遺跡(写真2)から出土した最古の土器と4粒の稲籾が、これまでのところある程度信頼のおける事例である。玉蟾岩遺跡の土器の暦年代が1万8000〜1万7000年前までさかのぼることはまちがいないだろう。しかし、暦年代1万5300〜1万4800年前という稲籾の年代については稲籾そのものの年代測定値ではなく、稲籾を含む地層中の炭片の測定値であるために、絶対的なものとはみなしがたい。筆者らは何度も、この稲籾そのもののAMS(加速器炭素14C年代測定法)による年代測定をお願いしたが、現時点ではいまだ実現できていない。したがって現時点では、絶対的に信頼できるものではないが、最古の稲作は1万4000年前にまでさかのぼる可能性が高いという段階にとどめておくのがよいであろう。


 麦作農耕の起源については、晩氷期の1万2800〜1万1500年前のヤンガー・ドリアス(晩氷期の寒冷期の1つ)の寒の戻りが、食料不足を引き起こし、これが人々を栽培に向かわせたという説がほぼ確実になった(Yasuda、2002 参照)。こうした筆者らの麦作農耕の起源に対する説を受けて、稲作農業もこのヤンガー・ドリアスの寒冷期に引き起こされたという説を唱える研究者もいる。しかし、それは納得できない。なぜなら、最古の稲作農耕遺跡の分布は、野生イネ(Oryza rufipogon)の分布の北限地帯に位置しているからである(図2)。現在においても、野生イネの北限地帯に相当する長江中流域において、ヤンガー・ドリアスの寒冷期に野生イネが生息できたとは、とうていみなしがたいからである。玉蟾岩遺跡における最古の稲籾の年代である1万4000年前は、氷期の寒冷気候が急速に温暖化したベーリングの亜間氷期に相当しており、亜熱帯起源の野生イネが、拡大できる気候条件はそなわっていた。
 確実に稲作が行われていたとみなされるのは、湖南省陽平原に位置する八十遺跡や彭頭山遺跡である。これらは洞穴遺跡ではなく開地式遺跡であり、これまでの玉蟾岩遺跡などの洞穴遺跡とは異なる立地をしている。彭頭山遺跡出土の炭化米の年代は、暦年代8650〜7900年前、八十遺跡から出土した籾殻のAMS年代は7800〜7600年前であった。彭頭山遺跡は面積5〜6万平方メートルにも及び、大きな集落遺跡である。このような巨大な農耕集落が突然誕生するとはみなしがたいので、稲作の起源はそれよりはるか以前であるとみなしてさしつかえないであろう。このことから長江中流域において稲作に立脚した稲作農耕集落の誕生が暦年代8000年前までさかのぼることは確実であり、稲作農耕の起源はそれよりもはるか以前の1万年以上前、おそらく1万4000年前頃までさかのぼる可能性がきわめて高いといってよいであろう。
 これまで中国最古の稲作遺跡として注目されていた長江下流域の浙江省河姆渡遺跡の暦年代7600〜7030年前よりは、長江中流域の稲作の起源は古いとみなしてよいであろう。稲作農業は長江中流域で8000年前には、確実に巨大な稲作農耕集落を誕生させていた。
 そして重要なことは、この稲作農耕は、ヒツジやヤギなどの家畜を伴っていなかったことである。稲作農耕民はタンパク源を森の中の野生動物や湖沼に生息する魚類にもとめた。森の中で定住生活を開始し、土器づくりをはじめた森の狩猟・漁労民が、稲作を開始したのである。晩氷期から後氷期の気候の激動の時代に森が拡大してきた。人類はその森と湿地草原のおりなす環境に適応し、森の中で定住生活を開始する。この森の狩猟・漁労民が植物栽培の技術をマスターし、新たな食料の獲得戦略を必要として、稲作農耕を誕生させたのである。森の狩猟・漁労民が最初に出会った野生イネは、完熟するとその実はただちに脱粒してしまい、食料にはならなかった。ところがその中に、突然変異で脱粒性を失ったものを発見したのである。彼らはその脱粒性を失ったものを選択的に集めることによって、栽培稲(Oryza sativa)を作りだし、稲作農耕への第1歩を踏み出したのである。

《参考文献》

(1)厳文明・安田喜憲編著『稲作陶器都市的起源』文物出版社、2000年
(2)Yasuda, Y. (Ed.) : Origins of Pottery and Agriculture. Lustre Press and Roli Books, New Delhi, 2002, pp. 1-400.

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