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ベンガルの水と時

市原 基

市原 基(いちはら・もとい)
1948年徳島県生まれ。日本大学芸術学部映画学科卒業後、同写真学科に学士入学同大学卒業後、写真家活動を始める。北極、南極の“氷”、アジア・モンスーン地域の“水”、アフリカの“火とエネルギー”をテーマに、氷・水・火の三部作をライフワークとして制作中。主な写真集に『南極海』(岩波書店)、『鯨の海・男の海』(ぎょうせい)、『アジア・モンスーン』(朝日新聞社)、『TOKYOISLANDS』(ぎょうせい)、『MONSOON』(エディションスティンメル、英・独版)、『貌―三國連太郎』(第三書館)。現在、日本写真家協会会員、日本旅行作家協会会員。

 ベンガルとは、ベンガル湾の北部に面したバングラデシュとインド東部のウエストベンガル州あたりのことを言う。アジアの大河ガンジス川とブラマプトラ川が長い地球の歴史の中で大地を削り、運んで作った広大なデルタ地帯が中心となっている。豊富な太陽光とモンスーンが運ぶ水によって育まれる稲作は、二期作によって大量の米をもたらすため、この豊饒の地域は黄金のベンガルとも呼ばれる。しかし、爆発するこの地域の人口の増加と毎年のようにやってくるサイクロンはあらゆる生活環境を壊し、食糧事情を厳しくさせている。
 黄金のベンガルとは呼ばれていても、このような事情から経済的には苦しく、物質的には先進国のそれに比べ著しく劣る。ベンガル地方には水と時間はあふれるほどあるが、それ以外のものは何もないとも極論できる。だが飾る物が何もないからこそ、そこに住む人々の心がストレートに見えてくる。そう、ベンガルには昔から変らぬ宝があるのだ。それは家族の強い絆と、深い親子の情愛である。ゆったりと流れる豊富な水と時間、豊かな自然に包まれて育まれた家族愛は、先進国のそれが寒々しい現在、何にも替えがたいこの地方の宝物なのである。
 アフガン、イラクと続くおろかな戦争も長い人間の歴史の中で終ることなく続いているが、家族や親子の愛もその歴史の中で消えることなく続く、古くて新しい永遠のテーマだ。それらの愛が時代と共に希薄になって来た現代人にこそ、ベンガル人の日常から愛の姿を学ぶべきだろう。
 バングラデシュの国花は睡蓮である。ベンガル語でシャプラと呼ばれ、水辺に咲く美しい花は広くベンガル人に愛されているが、ただ鑑賞するだけの花ではない。乾期には短いその茎も、田畑が水没して野菜がとれなくなる雨期には水位と共に二〜三メートルにまで伸びて貴重な野菜となる。まさに、この国にふさわしい食べられるナショナルフラワーである。
 年中行事の洪水も高低差のあまりないこの地域では、ゆっくりと増水するためサイクロンによるものでなければ危険は少ない。外国から見るほどの悲惨さは感じられず、まるで洪水を楽しんでいるかのようだ。子供たちは嬉々として水没した家の屋根から水に飛び込み、大人たちも乾期には遠くまで足を運んでいた水汲み、魚獲り、沐浴が家の前でこと足りるのだ。水没した家からは家財道具や機織機を土手の上に運び、いつもと変らず布を織る。実に逞しい。
 ベンガルのほどほどの幸せと物質的には恵まれるものの時間とストレスに追われる先進国の生活、どちらが幸せかは解らないが、この地域の子供たちには教育を平等に受ける機会がないのは、今後の大きな課題であろう。
 大自然の中を無理に泳ごうとせず、時には意識して流されてみる。自然と調和してあるがままを受け入れ、自然のリズムの中で生きていく。これがベンガル人の智恵かも知れない。









 

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