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農業の多面的機能を理解してもらう努力を

NPO法人 ネットワーク『地球村』代表高木善之

たかぎ・よしゆき:1947年、大阪に生まれる。70年、大阪大学物性物理学科卒業、松下電器入社。81年、交通事故に遭い入院、生き方について考える。退院後、心の問題、いのちの問題、環境と平和の問題に取り組む。91年、ネットワ―ク『地球村』設立(97年退社)。COP、ヨハネスブルグ・サミットなど国際会議に参加、全国で講演を続ける。


 小さな自然。かさかさと落ち葉を踏み、見上げる梢の先は青い空。向こうのヤブ椿には、赤い花の蜜を求めてメジロが群れている。
 小さな風景。山あいを走る列車から。流れに沿う田んぼには稲の切り株。農家の庭先の柿に残されたわずかな実は真赤だ。
 安らぎを覚えるのは私だけではないだろう。映画好きの友人によれば、「フーテンの寅さん」シリーズで山田洋二監督は、こうした場面を日本人の心の原風景として、さまざまな形で織り込んでいたという。あのシリーズがあれだけ多くの人を集めたのも、筋といっては単純ながら、泥臭い人情と原風景が安らぎを与えたからだろう。

自然がもたらしているサービス
 さて、私は経済学者ではない。物性物理学を専攻した。しかし、かれこれ20年近くも環境問題に取り組む中で、財とサービスという概念に出くわした。GNP至上主義がひたすら押し進められる中で環境は深刻な事態を迎えた。GNPは財とサービスの生産高である。サービスとはたとえば株式欄でいえばサービス業とされる企業の生産するもので、寅さんシリーズの映画もサービス業である。他に身近なところでは医療サービスや金融サービスがある。
 サービスと環境と、いったい何の関係があるのか―これが大いに関係がある。「あの店は高いけどサービスがいいからね」といったとき、提供されたサービスから得た満足度に照らして、その対価を支払うことをよしとしているわけである。しかしながら、たとえば冒頭の小さな自然や小さな風景によって、心の安らぎがもたらされても、誰もサービスを受けたとは気づかない。
 実は自然環境は大きなサービスを提供している。たとえば、日本の気候風土はなべて温和といえる。これは海に囲まれているからである。中国の内陸部の苛酷な気候風土と比べれば、何と有り難いことかと、気づくはずである。もちろん、動物タンパク質の多くも海のおかげだ。もう少し小さな自然に目を転じてみよう。森林、そして山あいの谷地田、平地の田んぼは保水機能がある。洪水を制御し、流量を平均化し、水源を涵養している。これもサービスである。しかし、たとえば1200万の都民のどれだけが、水源の森林や田んぼに感謝しているだろうか。気づく人は少ない。
 いわゆる大自然、あるいは農家や林家の営みと自然とが作り出した二次的な身近な自然がもたらしているサービスに気づけば、高度成長からバブル期にかけての無残なまでの環境破壊はなかったはずである。立木のもたらすさまざまなサービスを積み上げて、そのサービス機能を積算してみたらどうだろう。立木1本の価値は、材木にした場合の価格をはるかに上回るだろう。長江の大洪水によって北京政府はこのことに気づき、上流地帯での伐木を禁じた。さらに、開墾された脆弱な耕地を林地にもどすことを奨励した。
 田んぼも同様だろう。そこから生産される米価をはるかに上回る価値をもっているだろう。保水機能に加えて、田園のランドスケープは多大な安らぎを提供している。多くの国民が、そのことに気づいていないのである。
 さて問題はさらに続く。で、気づいたらそうしたサービスに対価を支払うだろうかということだ。「なぜ、私だけが支払うの?」受益者が不特定多数であれば、支払義務者を特定しずらい。
 こうしたサービスへの対価支払は自治体や国といったレベルで対応すべきである。具体的には税を財源とした支払いになるので、納税者の理解を得なければならない。まず、サービスに気づいてもらい、そこから妥当な支払額を国民的議論によって求めていけばよい。農業の多面的機能についても、そうした手法によって国民の合意を形成していくべきである。
 もうひとつ、述べておきたい事がある。それは、WTOに対してである、この機関は大前提を市場原理においているわけだが、そもそも市場には、先に述べてきた自然のサービスをコストとして内部化し、価格に反映させる機能はない。したがって、サービスをもたらす自然資源を保全・修復する資金は回収されない。さらに、競争のための公正はあっても、基本的生存権のための公正概念はない。食料自給率が40%を切るという日本の食料安全保障のため、日本農業を守るべく主張をするべきである。

食料不足の時代へ
 まちがいなく、世界の食料事情は過剰から不足の時代へと、遠からずして暗転する。日本が買い手として穀物マーケットで主要な地位にい続ければ、穀物価格を押し上げるにちがいない。とばっちりを受けるのは、途上国の貧しい人々である。
 「気づき」といえば、今日の日本人は食べ物の本当の価値に気づいていない。毎日、日本では2000万〜3000万人分の食料が棄てられており、総額にして年間11兆円に相当する。家庭だけでも3兆円、4人家族なら約10万円を無駄にしている。支払ったものは、どうしようと勝手でしょ―貨幣経済とは、たしかにそういうものではある。しかし、それでは心が貧しいではないか。世界のおよそ8億5000万の人々が栄養不足状態にあり、ほぼそれと同数の人々が先進国で肥満状態にあるというのが、現状である。
 人はことごとく消費者と位置付けられ、消費拡大を迫られる。食品製造・流通業のコマーシャルのすさまじさ。さらにグルメ番組。これは異常だと、私は考えている。言葉は悪いが、「消費者はブタですか」と問うてみたい。しかし、これは控えよう。ブタを短期間で太らせているのはヒトなのだから。説教じみるが、食べるとは他の生命を我が身におさめることにほかならない。

『消費者』を返上して連帯しよう
 消費者という概念は、私の理解ではまるで創る(作る)能力がない。ドイツの食料自給率はほぼ100%で、市民1人ひとりが食に関心を持っており、クラインガルテン(市民菜園)などで一般市民が作った農産物は全体の2割にもなる。
 日本の市民も、貸農園でもプランターでもよい、何か野菜でも作ってはどうだろうか。小さな小さな自然ではあるが、けっこうさまざまな生物に出くわす。おそらく病害虫にかなりやられるだろう。野菜作りが、こんなにも大変なものかと気づくであろう。それに気づけば、少しは食べ物を大切にするようになってくれるだろう。そして、スーパーに行って見事な野菜を目にすれば、そんなものがどうようにして作られるものか、不思議に思えてくるだろう。この不思議を解くには農村との交流をすることだ。きっと、自然のサービスに感謝しながら農業を続けている人々に出会えるだろう。気づいた人と気づいた人が連帯をしていけば、持続可能な社会経済システムを実現していくにちがいない。

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