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多面的機能を技術化するための方法論

農と自然の研究所 代表理事 宇根 豊

1.土台技術と上部技術の存在
 田んぼに水が溜まるのは、自然現象ではない。畦があり、畦の手入れが行われているからだ。その畦の手入れという仕事を、支えている技術に目を向けてみよう。
 現在では「畦塗り」や「畦草刈り」や「畦歩き(田回り)」は、労多くして効果の少ない技術だと考えられている。労働時間の短縮を妨げ、コストを引き上げていると、目の敵にされている。だから、畦塗りの代わりに畦波板や、畦草刈りの代わりに除草剤散布が推奨され、田回りの時間は省くように指導が行われている。
 しかし、畦塗りにより畦からの漏水は防がれ、畦の高さも5cmは高くなる。畦草刈りや畦歩きによって、畦は強度を増す。こうした技術(土台技術)が行使されているからこそ、「田んぼは、ダムにもなりうる」ことが、表現されずにいる。
 畦草刈りは、何のためにするのだろうか。畦を歩きやすく保ち、畦草を資源として生かし、畦の植生を多様にして崩れにくくし、水がちゃんと溜まるようにする、ためである。ところがこの「水がちゃんと溜まるようにする」ことと、洪水防止機能は同じ現象を、別の言葉で表現しているだけである。しかし、百姓の実感としては、別物に見える。それは、どうしてだろうか。
 百姓が田んぼに水を張るのは、稲がよく育つことを目的としている。洪水防止は目的ではない。しかし、同じ技術によって、達成される。目的としていないもの、意識していないものまで、生産してしまう技術があるのである。
 これが、自然に働きかける技術の本質である。なぜなら、自然の全体を人間は把握できないし、コントロールできない。つまり、自然に働きかけたその結果の一部しか、働きかけた当人はつかめない。
 畦を歩く田回りを、例にとろう。畦を歩くことによって、畦の土は締まる。また畦草は、踏まれるところと踏まれないところとでは、種類が変わり、多様な植物が、多様な根の張りを生み、崩れにくくなる。しかも、田回りによって、畦の状態は不断に、チェックされ、モグラの穴などもすぐに埋めることができる。しかし畦でも、人間がよく通る部分は草も伸びないが、そうでないところは草がすぐ伸びる。そこで畦草刈りが必要になる。

 それをコンクリートの畦(近代化技術・上部技術)で代替するとしよう。たしかに田回りは、大幅に縮減できるだろう(もちろん、畦草刈りも)。しかし、畦の多様な植生は消え、生きもののすみかはなくなり、風景の柔らかさも失われる。さらに重要なことは、田回りの時間によって人間に感じ取られていた世界が、すっぽり失われる。稲と向きあう時間は減り、生きものと接する時間は減り、涼しい風やたおやかな風景に包まれる時間は消失する。なにより、畦を歩き田を見て回るのは、技術ではない、と考えられるようになっていく。

2.生きものを守る技術
(有用性の技術)
 意識できないものを意識するためには、技術の目的を変えることである。目的をもって仕事するときに、その行為は技術になる。自然に働きかけて、多面的機能を最大限引き出そうとする意識を育てればいいのである。しかし、そこで「多面的機能」が「有用」であるかどうかが問われてしまう。ところが、現実には「多面的機能」はカネにならない。したがって、カネにならない「有用性」こそが「多面的機能」の本体であろう。しかし、必ずしも「有用性」が証明できるものだけが「多面的機能」ではない。
 カエルの鳴き声はいいものだ。代かき・田植えが終わったことを告げるからである。百姓でない人にも、夏の訪れを知らせる。これも農業の「多面的機能」には違いない。まるで、自然現象のように、この国に満ちる。しかし、このカエルの声には、これ以上の意味はないのだろうか。
 新・農業基本法に「多面的機能」が謳われながら、国民の農業を見る目がなかなか変わらず、百姓の自然への関わりが深まらない理由は、「多面的機能が、どういう百姓仕事によって支えられているか」が明らかになっていないから、あたりまえすぎる自然の有用性を、国民が意識することがないからである。
 カエルの鳴き声に「有用性」をかぎつける人間は、すばらしい人間だが、かなり「異常」な人間のような気もする。この「異常」さが、現代人に求められている、といえるかも知れない。
 棚田では、毎日、田回りをする。モグラで畔に穴があき、水が漏れ、畦が崩れるのが恐いからだ。もちろんオタマジャクシの命を守るための田回りではないが、こうした技術があるから、オタマジャクシは守られる。オタマジャクシは“農と自然の研究所”の全国調査によれば、1株に11.5匹にもなる。どうして、これほどの数がいるのだろうか。カエルは産卵数を数千単位にしないと、オタマジャクシの多くは、他の生きものに食べられてしまう。オタマジャクシがいるから、多くの生きものが田んぼに集まり、田んぼで生きられる。

 このように考えると、カエルの声の「有用性」も納得できる。しかし、カエルの声からこのように連想できる日本人は少ない。連想する習慣も、そのための情報もないからだ。
 しかし、一方そういう連想をしなくても、カエルの声をいいものだと感じる感性は、文化として定着している。カエルの声がなかったら、日本の文学の相当部分が欠落しただろう。したがって、カエルを守る技術を形成するのは、さして難しいことではない。むしろ今まで、生産性が劣ると思われていた仕事の評価を変え、百姓仕事から豊かな技術を抽出する清新な方法論が生まれる。


写真1 棚田(佐賀県東松浦郡相知町)

3.新しいまなざしの技術
(有用性に気づく技術)
 ところが、人間にとって「有用性」が実感できないもの、証明できていないものでも、守らないといけない程度に危機が進行しているとしたら、どうだろうか。「有用性」を守り、増進するのが農業技術だという価値観では、対応できなくなっている。「有用性」がなくても、大切なものはいっぱいある。
 ユスリ蚊を例にとろう。この虫を知らない人はいないだろう。夏の夜に電灯に集まってくる、蚊に似た虫だ。田んぼの上でも、よく蚊柱になっているのを見かける。この虫は、害にも益にもならない「ただの虫」だと言われている。水田では、10アールで100万匹を越える。これほどの虫が何のために田んぼにいるか、誰も考えたことがなかった。生産に寄与しない、関係ないものだと考えられてきたからだ。
 ところが、ほんとうは百姓は気づいていたのである。クモの巣にもっとも多く、かかっているのがユスリ蚊だということに。
 また、ユスリ蚊の蚊柱に、赤トンボや蚊取りヤンマが狂ったように飛び込んで、食べている光景を見たことのない百姓はいないだろう。ところが、関心がないから、記憶に残っていないのだ。またユスリ蚊の幼虫もよく知られている。「赤虫」「金魚虫」などと呼ばれる、真っ赤な1cmほどのミミズみたいな虫で、どぶ川にも多い。この幼虫は、魚の餌になるだけでなく、ヤゴやゲンゴロウやオタマジャクシの餌にもなっている。田んぼの天敵たちを支えている、大切な生きものなのだ。しかも、この幼虫自身は、田んぼの土の中の有機物を食べて、分解してくれ、稲へ養分を補給している。水田の地力の再生産力を、支えている重要な存在なのだ。

 こういうふうに見つめてくると、田んぼの中の循環の輪が、少しは見えてくる。しかし、ユスリ蚊を育てる技術は、今まで全くなかった。だから、農薬や化学肥料を使用するときに、ユスリ蚊への影響を考慮に入れる習慣は、未だにないのだ。
 でも、気づいただろうか。私はいつの間にか、「有用性」でユスリ蚊を価値づけようとしている。ユスリ蚊はまだいい。「ただの虫」の中でも、どうにか有用性が説明できるからだ。田んぼの生きもので、有用性や有害性が明らかになっているものは、わずかなものだ。ほとんどの生きものは、有用性が説明できない。


写真2 虫見板

4.有用性を超える技術
 すべての生きものには、価値があるという発想は、「虫見板」使用で「ただの虫」が発見されることによって、百姓のものとなった。「害虫だって、いなくては困る」「ただの虫は、ただならぬ虫だ」という認識から、多くの環境技術が誕生していった。
 虫見板を使い田を見る時、害虫よりも、益虫よりも、圧倒的に「ただの虫」が多い。この「無用」の生きものを見つめる感覚から、「こんなにいっぱいいるのに、何をしているのだろうか」という疑問が生じるのは当然である。
 しかし、それに「有用性」だけでは答えられない。百姓は自分に言い聞かせるしかない。「昔から、稲と人間と、ずーっと一緒に生きてきた生きものなんだから、仲良くしなければ」と。

 つまり、現代の科学のレベルで「有用性」を決めるのではなく、とりあえず意識し、認知することが大切である。その意味では、「生物多様性」や「すべての生きものには神が宿る」というような概念は重要である。
 カネにならないモノと、つきあい、眺め、見つめ、まなざしを注ぐ覚悟を、誰が百姓に求めているのだろうか。たかだか、この数十年だけの価値観で、自然と人間との豊かな関係を壊してしまうなら、2400年間の田んぼの歴史に申し訳ないだろう。もう一度、私たちのまなざしを生きものにそそぐ、その気持ちと時間を取り戻す道すじを、懸命に探したい。
 もちろん、当面は一銭にもならないだろうが、そうした心根を抱いて生きて行かねば、生きものに顔向けできないし、過去の世代や未来の世代にも申し訳ないのではないのか。

5.生きものは何のためにそこにいるのか?
 農と自然の研究所が行った全国調査の平均値の表を眺めていて、深い思いに沈んでいく。これらの生きものは、何のために生きているのだろうか。この数値は、多いのだろうか、少ないのだろうか、多少を決める基準はあるのだろうか。多少にどんな意味があるのだろうか。これらの生きものに思いをはせることには、どんな意味を持つのだろうか。「循環」と言うときに、これらの“いのち”と、私の“いのち”はどうつながり、どういう環になっているのだろうか。「環境保全」というときに、これらの生きものへのまなざしは、強まっているのだろうか。

 そういう思いに、百姓を誘いたいと思う。こういう場で、自分の仕事を、先祖の仕事を、未来の子孫の仕事を、従来のカネになる生産から解き放って、もっと深く、もっと遠くまで見つめるまなざしが、芽吹いてくるだろう。それだけの土壌が、百姓の心の中には、まだあると賭けたいのである。
 コンクリート畦畔や、畦波板を拒否して、畦塗りをするから、シュレーゲル青ガエルは畦の斜面の土に、産卵できる。ゲンゴロウやホタルは、畦の土の中で、蛹になれる。生きものを見つめるまなざしが、すべての農業技術の見直しを自分に要求する。もちろん、全面的に要求したりはしない。それが「求められている」と感じた時、すでに「意識化」の最中にあり、技術形成が始まっている。
 時代遅れだと言われている畦塗りや畦草刈りの技術が、水辺の生きものを育てる技術でもある。それが、評価された時に、それは環境技術になる。これらの畦の手入れ技術が、ユスリ蚊を育て、カエルを育て、さらに多くの生きものを育て、そして洪水を防ぐ技術にもなっている。この技術の多面性は偶然ではない。すべての農業技術は、生きものと、稲と、水と、土によって、つながっている。これが多面的機能を支える農業技術の本質である。
 表1を眺めてみる。こうしてはじめて、数値が出せることはすごいことだと思う。こうして数えなければならなくなった悲しさが、新しい時代をリードする精神となるかもしれない。
 こうしたまなざしを、農業技術の中に埋め込むのが、百姓の新しい仕事、それを支援するのが新しい農学や農政の役割、その試みに熱い視線をおくるのが、国民の責任としたいのである。
 この表には、重要な工夫が施されている。当初この数値は、10アールあたりの個体数で表現されていたが、多くのただの虫が農業生産の一翼を担っていることが明らかになるにつれ、これらの生きものと食べものとの関係を、何とか表現できないかと考えた。そして、ごはん1杯(約3500粒、約稲3株)あたりの生きものの個体数を表現してみたのである(少ない種は、一匹あたりのごはん数で示した)。こうした表現から、今までにないイメージを抱き、食べものの世界が広がることを期待している。

表1

6.「生産」の概念の再検討
 どうして私たちは、何もいない川よりもメダカが泳ぐ川の方がいい、何もいない空よりも、赤トンボが舞う空の方がいい、何も聞こえない夜より蛙の鳴き声が届く夜がいい、と感じるのだろうか。生きものが、毎年毎年、くりかえし、くりかえし生まれてくることに、深い安らぎをおぼえるのだと思う。だから、メダカのいない川、トンボのいない空、蛙の鳴かない夜は不安なのである。何かが、くりかえせなくなっている、と感じるからだ(写真;裏表紙手前のページ。HPでは編集後記)。
 この安らぎが社会に満ちていた時代は、このめぐみを意識することもなかった。このくりかえしが(「循環」とも、「持続」ともいうが)、じつは百姓仕事のくり返しによって支えられていたなんて、誰が考えただろうか。あまりにも当たり前すぎて、すごいことだった。その循環の中に、カエルも人間も食べものも、ちゃんと位置づけられていた。

 この循環を土台にして、「食べもの」は生みだされていると言ってもいい。生産か環境か、ではなく、自然環境に抱かれてこそ、農業生産はくりかえすことができる。だからこそ、農業技術は自然環境を守る責任がある。
 そこで、新しい技術の一例をあげよう。多くの生きものを育てるために、「田植後30日間は水を切らさない」技術を提案したい。そのためには、“丁寧な代かき”、“入念な畦塗り”、“頻繁な田回り”、“定期的な畦草刈り”などが、欠かせない。これは稲作のコストをひき上げる。しかし、このコストは確実に、この国の“めぐみ”をふやし、国民を癒し、安らぎを届ける。このコストを補償する政策が、生まれなければならない。
 そこで「生産」の概念を狭く考えてしまった、戦後の近代化を問い直す必要がある。日本人は、コメも赤トンボも、涼しい風も彼岸花の風景も“めぐみ”だと感じている。しかし、コメだけが生産物で、他は「機能」に過ぎないというのでは、“めぐみ”は理論化できない。生産か、環境か、を迫る、近視眼的な二者択一論がはびこる原因になる。そこで「生産」の概念を大きく転換したい。トンボもメダカも涼しい風も畦の花も棚田の風景も「生産物」と考えるのである。負荷を減らす程度の技術を探るのではなく、「生産」を広く深く、豊かにする方法を創造していくのである。生産の定義をやり直すことこそ、近代化を超えていく新しい農業観の土台に据えたい。

 百姓仕事は自然環境も「生産」していると定義することによって、はじめて百姓仕事(農業技術といってもいい)の中に、「自然」を位置づけることができる。しかし、カネになるものしか「生産物」と認めない価値観がもう40年も続いてきたから、簡単には行かないぐらいのことは承知している。しかし、いかに近代化精神に冒されてはいても、カネにならない“めぐみ”が、百姓仕事によって支えられているのは事実だ。それを「生産」と呼ぶことで、農業の本質が見えやすくなるのだ。それが受け入れられるぐらいには、近代化は行き過ぎていると思う。

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