2022.2 FEBRUARY 65号

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BOOK GUIDE

福田 仁志 著 東京大学出版会

世界の灌漑—比較農業水利論—

1.はじめに

 本稿は、1974年に発行された「世界の灌漑―比較農業水利論―」(以下、本書)を紹介しようとするものである。著者の福田仁志氏(以下、著者)は、東京大学名誉教授で、国際灌漑排水委員会名誉副会長でもある灌漑の大家である。本書は、著者の深い知識と、約20年にわたる実地の見聞、関連分野専門家との現地討議などに基づき、世界の灌漑の歴史的発展過程と実状を整理し、その本質を指摘する。約50年前に書かれた歴史的価値に加え、各地の灌漑を考える上で現在でも頼りになる視座を与える古典とも言うべき書である。本稿は、本書に含まれる多くの重要な議論と現地情報のうち、本稿の筆者(以下、筆者)が特に重要と考えた点を紙幅の範囲で紹介する。なお本稿執筆時点では本書の新本の入手は困難で、古本の購入等による利用に限定されることを予めお断りする。

2.本書の概要

 本書は、世界の各地に発達した灌漑と排水の性格(個性)と、その形成要因、相互関連について比較考量することを目的とする。総論と各論から成り、総論は、①緒論、②灌漑排水の歴史的発展と変遷、③灌漑排水発展の環境条件、④灌漑排水の分布と性格、⑤灌漑排水の問題点、⑥灌漑農業の発展と普及、⑦結論から構成され、各論は、東アジア、西アジア、東欧、西欧、アフリカ、北米、中南米及び大洋州の計70の国・地域の灌漑について記述している。

3.筆者が特に重要と考えた点

(1) 著者の手法

 複雑な事象の把握には科学的な接近手法が有効である。著者は、各地の灌漑の性格を検討する手法として「比較」を用いる。そして比較においては、①分析を徹底し、類似する点と相違する点、複数の地域に共通する点と特定の地域に固有の点の発見に努め、②発見した事実を推論により総合することによって灌漑の本質の理解を目指す。その際、事実と解釈(推論)とを峻別すること、「的なきに矢を放つ試みのごとき」は避けること、「実証性の乏しい安易な因果論」は慎むこと、の重要性を指摘している。このような事実に基づき、仮説立案と検証により科学的に推論する手法は、多様で複雑な世界の灌漑の本質に接近する堅実な手法であると考える。

(2) 灌漑の性格の比較と分類

 著者は灌漑の性格について、技術、行政、評価・財政の3分野に着目し、灌漑の方法や組織、降雨量と灌漑要水量の関係といった物指しを用いて比較するとともに、いくつかの視点から分類している。その主なものを著者の記述を基にまとめると概ね表1のようになる。このような灌漑の物指し・視点と比較・分類について共通認識を持つことは、関係者間の効率的な議論と知見の蓄積に貢献すると考える。

表1 灌漑の性格の比較と分類(概要)

分野

物指し・視点

比較・分類

技術

灌漑方法

①地表法(湛水、畝間など)、②散水法(スプリンクラーなど)、③地下法(点滴法、地下埋設パイプなど)。また、地表法は、連続法(掛け流し)と間断法に分けられる。

灌漑組織

①水源:河川、貯水池、地下水など、②導水・配水施設:開水路、パイプラインなど

降雨量との関係

①補給灌漑(不規則な干ばつ時期の水不足に対処するもので一般に灌漑水よりも降雨量が多い)、②主給灌漑(灌漑期の降雨量よりも灌漑水の方が多く、乾燥地域に多い)

灌漑時期

①季節灌漑(年間で1灌漑期にだけ規則正しい給水を行うもの)、②周年灌漑(年間を通じて確実な給水を行うもの)

目的

①主目的:作物が適正に生育するために必要な地中水量の維持、②他の目的:肥培、気温・地温の調節、病虫害除去、土壌浸食防止、地中塩類除去、除草、消雪など

規模

①個人経営的な灌漑、②農村共同体が行う小規模な灌漑、③国家的、一元的な水利と治水が一体となった大規模な灌漑

行政

政策的な位置づけ

①国家的公共事業、②人民福祉の手段、③純然たる私企業の行う事業

評価・財政

国家経済との関係

①事業の経済性重視、②人道的見地、③政治的配慮

出所)本書の記載を基に筆者が作成。

(3) 灌漑の歴史的展開と現状

 著者は、国家的規模の灌漑の源流を4大河川文明(ナイル、メソポタミア、インダス、黄河)に求める。これらの4源流の灌漑は、いずれも当該地域の降水量は僅少な乾燥地あるいは半乾燥地において、①隣接する河川上流域から流入する肥沃な洪水の氾濫を堤防や水路で湿潤と肥効に積極的に利用する湛水灌漑を起源とし、②水路などの建設により水位低下時に河川から取水する季節灌漑、さらに③貯水池の建設による周年灌漑へと移行したと歴史的な展開を指摘する。そして灌漑技術は大勢として、ナイル河域やメソポタミアから北アフリカやヨーロッパといった西と、インダス河域、黄河域、中央アジア、イラン、インド、中国南部といった東へ、すなわち乾燥地域から湿潤地域に進展したとする。結果として現在、世界各地に多様な灌漑が展開していることは興味深い。

 本書で言及された各地の灌漑のうち筆者が特に興味を持った技術は、インドネシアの潮汐灌漑、スリランカの小河川にほぼ連続する溜池による水稲灌漑、北インドで長い低堤防で流出水を貯留して堤防下流で利用する灌漑、ネパールで肥効を目的とする降雨時の濁水灌漑、イスラエルで夜間に水蒸気の凝結を促進する集露、イラン・アフガニスタン・中国の地下集水路で浅層地下水を集める灌漑、アフリカの小型地下ダム、カザフスタンの積雪貯水、ルーマニアのドナウ川下流の輪中内での水田灌漑などである。

(4) 灌漑開発の課題と対応

 著者は技術的に見れば19世紀以降、灌漑組織の計画、設計、施工の技術が著しく発達し、灌漑面積が増大した一方、水・土・植物の相互関係に基づく耕地内での灌漑技術は立ち遅れており、灌漑開発の問題点は極めて多いとする。著者の記述を基に灌漑開発の主な課題と必要な対応をまとめると表2のようになる。これらについては現在においても妥当する重要事項であると考える。

表2 灌漑開発における課題と対応(概要)

項目

課題と対応

①灌漑と排水の綿密な協調
乾燥地での不適切な灌漑による圃場の湛水と土壌塩類集積、湿潤地での洪水による湛水と土壌中の過湿、土壌の強酸性化、土壌中の酸素不足などが課題となる。
そのため、灌漑と緊密に連携した排水(地表や地下の排水改良、洪水防御対策など)が重要である。
②耕地末端での水管理の改善
今後の灌漑開発は、農業の合理化(省力化、機械化など)や多毛化(一定の耕地で年間に作物をより多数回作付けること)、灌漑の多目的化(肥培、温度調整、病虫害防除など)への協力が求められる。
そのため、水管理(灌漑を目的として水の取水、導水、測定、制御、配分、適量・適時の給水、過剰水の排除などを行うこと)、特に耕地末端における農業者による水管理改善と施設整備が重要である。
③段階的な開発
灌漑農業は、その地域の自然的(降雨量、気温、日照、地形、地質、土壌など)、技術的(営農技術、灌漑技術など)、社会経済的(経営形態、市場、金融、流通、土地制度、共同体組織、教育など)諸条件や、周辺地域との関連、歴史的な発展過程といった地域性に大きく依存し、一定の形式がつくられる。そして、各地域の灌漑技術は、長年の経験から生まれたもので、現存の諸条件に最も良く適合し、これらと合理的な釣合いを保っている。
このことから、ある地域に灌漑の新技術が導入された場合、従来の釣合いは崩れ、新しい釣合いが生まれるまでは、各条件間に摩擦が起こる。この摩擦が大き過ぎると新技術導入はうまくいかない。
そのため、灌漑開発の前に地域の農業の発展段階を把握した上で、その一段階上を目指した小型の事業から着手し、段階的に開発・発展させていくことが望ましい。
④地域性への配慮
灌漑開発は、それぞれの地域の諸条件等に依存することから、技術の導入は地域内での実証的で帰納的な方法によって行われる必要がある。特に地質条件は、農業に重要かつ変更は困難である。
そのため、対象地域内の地質系統ごとに代表する地点に普及農場を設け、地質系統が同一の範囲内で、土地利用の歴史によって異なる土壌ごとに代表する地点に普及区を設けることが重要である。
普及農場では、技術の普及に向けたデータの収集、普及区で見つかった課題の解決策の検討と結果のフィードバック、普及員の研修、種子生産等が期待される。
普及区では、行政機関の普及員と進歩的な農業者が協力して改良技術を普及することが期待される。
⑤地域の人材育成
技術の普及は伝統的農業の行われている地域に近代的技術が移転されるというよりは、伝統的農業の行われる地域の農業が近代的なものに引き上げられると考えるべきである。
そのため、長期的な課題として、関係する地域の農業者、技術者、行政担当者の人材育成がとりわけ重要である。
⑥その他
基礎的な調査・研究の継続、水路内の堆砂対策といった工学的技術の開発に加え、農業者の開発に向けた意欲・協力・協同も重要である。
出所)本書の記載を基に筆者が作成。

4.おわりに

 本書で示された科学的手法、灌漑の物指しと視点、歴史的展開と現状、灌漑開発の課題と対応については、灌漑の本質と当時の現状を示すとともに、現在においても地域性に富む各地の灌漑を研究する上で信頼できる検討の枠組みを提供している。また著者は、世界の農地の面積的な拡大や水資源の新規開発の可能性が次第に窮乏することを指摘する一方、アフリカ、中近東、中央アジア、東南アジア、インド、パキスタン、スリランカ、中国などにおいて灌漑の更なる発展を予想する。今後、世界のより多くの技術者、研究者、実践者等が、本書に示された手法や知見を共有した上で、各地域の諸条件等に留意した取組を進め、知見を蓄積することによって、世界の灌漑が、SDGsにも掲げられた飢餓や貧困の削減、水資源の持続的な利用に貢献することを期待する。


一般財団法人 日本水土総合研究所

渡部 和弘


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