アフガニスタンにおける大いなる実験

元駐アフガニスタン特命全権大使 髙橋博史


1.ガンベリ砂漠の奇跡

 中村哲先生とばったり再会したのは、2014年頃パキスタン航空機のなかでであった。私はカーブルからアフガン東部のジェララバード経由で、パキスタンのイスラマバードへの出張の途次であった。旅客機はジェララバードに着陸した。誰が乗り込んで来るのか機内から見ていると、旧知の中村先生がタラップを昇ってきた。「先生!お久し振りです。お元気のようで何よりです」と声をかけると、一瞬、立ち止まり、その小柄な体を少し反らせるようにしながら「あっ!髙橋さん、どうしたの」といつもと変わらないその声と仕草に、私は「先生!カーブルにきた折には是非、訪ねてください」とお願いした。「えっー!カーブルにいるの。もちろん、伺います。でも、本当に久しぶりだねー」といって別れた。

 中村哲先生は医師である。1984年にパキスタンのペシャワールに赴任され、アフガン難民を含む地域住民の医療に携わられた。その後、活動拠点をアフガニスタンに移されたが、人々が食料に窮している状態を改善することが何よりも重要であるとされ、医療に留まらず、農業生産を可能にするために灌漑(かんがい水路の構築に率先して取り組まれ、自ら重機まで操作されてきた。そして荒れ地を緑野に生まれ変わらせた。

 さて、別れてから1か月ほど経っていたであろうか。中村先生から電話があった。「髙橋さん。今、カーブルにいます。明日、ジェララバードに行きますけど、その前に会えますか」との元気な声。私は即座に「お待ちしています」と答えた。

 中村先生との懇談は何十年振りであった。私が当時専門調査員として在パキスタン日本大使館に勤務していた1988年からの付き合いである。私のアフガニスタンの友人が中村先生の右腕として働いていたこともあり、中村先生の診療所があるペシャワールに出張した折には必ず立ち寄って、いろいろな話をしたものであった。そんな昔話も一段落したところで、「中村先生、今、何をやっているのですか。灌漑事業と聞きましたけど」と尋ねた。中村先生は、カバンからパソコンを取り出して、起動させながら、「これを髙橋さんに見せたいと思って持ってきました」といった。

写真1 開墾以前と開墾後
2003年6月2日
2003年6月2日
 
2012年8月14日
2012年8月14日

 そのパソコンで見たのが、ここに掲載されている写真である。最初見たときはよく理解できず、「先生、これは何ですか」と尋ねた。中村先生は、ニコニコしながら、「この写真がガンベリ砂漠の開墾前。つまり、ビフォーで、これが開墾した現在のアフターの写真です」と、正直、その写真を見て驚いた。土漠が一変して緑に変わっているのである。「えっー!」と驚いている私に、次から次へと写真を見せてくれた。

写真1 開墾以前と開墾後
2008年3月9日
2008年3月9日
 
2012年4月15日
2012年4月15日
2008年11月10日
2008年11月10日
 
2014年3月
2014年3月

 中村先生はその後、クナール川から水を引いて1万5000haを開墾し、60万人分のコムギを生産できるようになったと教えてくれた。そして、ご自身が運営しているペシャワール会が集めた浄財と、JICA(国際協力機構)の支援によって、ここまで完成したと語った。同席していた藤本正也JICAアフガニスタン事務所次長には、これまでの支援に感謝しますと礼を述べた。私は即座に「中村先生、これまでこの事業について発表しましたか」と尋ねた。「いやいや、髙橋さん、ご存知のように、こんなことをおおぴっらにしたら、大変なことになるのは目に見えているでしょう。ですから、JICAさんにも話を広げないで下さいとお願いしてここまできました」と語った。たしかに、汚職が蔓延(まんえんするアフガニスタンで、このような豊かな農地の存在が知れたら大変なことになる。この農地を略奪しようとする犯罪者たちの餌食になるのは目に見えていた。事実、その後、そうした事件が発生したのである。

 他方、私はアフガン国内、当地メディアにも知られていない中村先生の事業について、日本大使館としてアフガン政府やマスコミにも積極的にアピールすべきであると主張した。多くの人々が知ることによって、犯罪者のつけ入る隙を防ぐこともできると述べた。あわせて、その成果を知ってもらい、 本件事業をアフガン国内に拡大していくことについて、アフガン政府の積極的・自主的な努力も促していきたいと述べた。中村先生は「もちろん、いつまでも隠しておくことはできないので、そろそろ発表してもいいかなと考えています」と答えた。「自分が行ってきた治水・灌漑事業、農業振興が日本の関係者によって、アフガニスタン国内に広がっていけば、自分としても、いままでの苦労が報われる思いであり、本望でもある」と述べられ、「是非、現地を見に来てください」といわれた。私は「もちろん、行きましょう」と答えた。

 その3か月後、当時の七里富雄国連食糧農業機関アフガニスタン事務所長(現FAOインド事務所長)の好意によって、国連がアレンジしたヘリでザミール農業灌漑牧畜大臣、ドゥラーニ農村復興開発大臣と共にガンベリ砂漠に降り立った。そこには、緑が一面に広がった驚きの大地があった。

写真2 ガンベリ砂漠に広がる緑の大地(筆者撮影)
写真2 ガンベリ砂漠に広がる緑の大地(筆者撮影)

 私の執務室、公邸の客間にはガンベリ砂漠のビフォー・アフターの写真を飾った。ある時、NATO(北大西洋条約機構)の将軍を食事に招待した。彼は公邸の客間に飾られたガンベリ砂漠の写真を食い入るように見つめ、そこから動こうとしなかった。当然のことながら、食事の席ではガンベリ砂漠における中村先生のプロジェクトが話題の中心となった。

 当時、第一次ガーニ政権が発足したばかりであった。ガーニ大統領から呼び出された私は、早速、この写真を持参して中村先生の事業について説明した。世界銀行で長い間仕事をしてきたガーニ大統領も、ガンベリ砂漠の写真を見て、信じられないといった顔で「本当にガンベリか?」と尋ねた。私は大統領に、「このようなプロジェクトがいくつも完成すれば、紛争などなくなりますよ」と答えた。

 事実、中村先生はこのプロジェクトを開始してから銃弾が飛んできたのは一度だけで、住民は即座に会議を開き、発砲事件を起こしたタリバーンに代表者を送って抗議したと語った。タリバーンによれば発砲は故意に起きたものではなく、単なる事故であったとして謝罪したとのことであった。そして、「この地で暮らす住民が日々の暮らしを守るため、積極的に自治を確立して防衛しているのです」と述べた。

 こうした中村先生のプロジェクトは当時の吉川元偉国連大使によって国連安保理常任理事会においても紹介された。ガンベリ砂漠における緑の大地計画と名付けられた事業は、大きな反響を呼んで、世界に知られることになったのである。


2.乾いた大地と農民

 アフガニスタンは遊牧民と農民が暮らす農業国である。しかし、広大な乾いた大地の大半は草木も生えない荒れ果てた土地である。アフガニスタンの中央にはヒンドゥークシュ山脈と呼ばれる山々がそびえ立つが、森林や草原を見ることはない。アフガニスタンはこの荒れた大地に草を求めてヒツジを追う遊牧の民と、わずかな雨水を頼りに細々と耕作に従事する定着民が生活する世界である。そのような厳しい自然環境のなかで生活する人々にとって、毎年の雨水の量は、その年のコムギの生産量を決め、生きることを可能にする、いわば生殺与奪の権を握る重要なものである。こうした厳しい自然環境からか、この地に生活する人々は他人の干渉を極度に嫌悪し、警戒する、非常に保守的な人々でもある。

 私は退官後、FAOアフガニスタン事務所に顧問として勤務することとなった。もちろん、農業開発である。勤務地はアフガン西部の都市ヘラートであった。私は、このプロジェクトに30年来の友人である農業の専門家ドクター・ナジィーブ・ボボにも参加してもらった。

 ある日、ヘラート市郊外でハウス栽培が行われていることを聞いた私たちは、農業省ヘラート県事務所職員の案内で、アフガン人の同僚と共に視察に出かけた。外からはまったく(うかがい知ることのできない、高い土塀に囲まれた大きな家に着いた。小さな木の扉を(たたくと、使用人と思しき若者が出て来た。農業省職員が見学に来た旨伝え、案内されて母屋の裏側に行くと、そこにはキュウリを栽培する大きなビニール・ハウスが設置されていた。整然と植えられたキュウリの苗、きれいに整えられたビニール・ハウス。すでにキュウリもなっていた。このハウスは誰が世話をしているのかと尋ねたドクター・ナジィーブに、その若者は僕です、と答えた。なかを見て回る私たちに、その若者は言葉少なに説明した。どのくらい大きくなるのかと質問すると、その若者は、キュウリの苗を愛おしそうに(でながら、もっと大きくなりますと、誇らしげに答えた。そうしているうちに、体格のいい、太鼓腹の出た、このハウスのオーナーが現れた。ドクター・ナジィーブからの作付面積、収穫高、マーケットへの卸価格といった質問に、彼は積極的に答えてくれた。その様子を写真に撮ろうとした私に、彼は突然、「写真を撮るんじゃない」と怒鳴った。驚いた私は、即座にカメラをしまい込んで謝った。しばらくの間、「この異教徒の、ならず者」と小さな声でブツブツいっていたが、即座に謝ったことが功を奏したのか、「本当は絶対に写真は撮らせないが、俺が写真に写らないなら撮ってもかまわない」といってくれた。

写真3 キュウリを栽培するビニール・ハウス(筆者撮影)
写真3 キュウリを栽培するビニール・ハウス(筆者撮影)

 あとでドクター・ナジィーブが、あのオーナーはタリバーンだよと、教えてくれた。彼の話し方で、即座に理解したので、写真を撮らないように注意しようとした矢先で申し訳なかったと述べた。ドクター・ナジィーブは欧米では反政府勢力をタリバーンと呼んでいるが、実はアフガニスタンの普通の農民や遊牧民自体がタリバーンと同じ考え方をしており、タリバーンと何ら変わらないと語った。そして、彼らの超保守的な考え方を理解して対処すれば、何の問題も起きないと付け加えた。


3.安全確保とプロジェクトの実施

 私たちはプロジェクトを開始するにあたって、地域の部族長たちに集まってもらった。部族長たちは異口同音に、40年以上の長い紛争のために、農業インフラは壊滅状態にあり、生活ができない。政府は何もしてくれないと訴えた。たしかに調査をしてみると、1家族の生活を賄う収入のほとんどが出稼ぎによるものであって、所有する土地では生活できないことがよく理解できた。

 日本をはじめとした国際社会による援助について尋ねても、誰も裨益(ひえきした農民はいないと答え、利益を得たのは元反政府勢力のムジャーヒディーン野戦指揮官や政府の腐敗した役人たちであると非難した。さらに、部族長たちは40年以上放置されている農業インフラを整備するだけで、我々の生活は良くなる。それ以上のことは望まない。是非、支援して欲しいと訴えた。

 すぐにでも現地を視察して欲しいと私たちを説得する部族長たちに、視察の際の安全確保はどうするのかと質問した。それまでほとんど黙って聞いていた1人の部族長が、問題ないと答えた。どうして問題ないのだと聞くと、みんなが笑いながら、彼がいっているから大丈夫だと返事をした。不思議に思って、なぜだと聞くとさらに笑いが盛りあがった。隣に座っていた1人の部族長が、声をひそめながら、私に、あの部族長はタリバーンのメンバーなので、彼が大丈夫といえば、安全ですよといったので、その時、初めてタリバーンのメンバーが会議に参加していたことを知ったのである。


4.開発途上国における技術支援

 以上の中村先生のプロジェクトや私のヘラートでの経験から以下の点が指摘できる。

1)伝統技術と適正技術の応用

 中村先生が使用した暴れ川をコントロールする技術は、日本に古くからある斜め(せきという技術である。もちろん、アフガニスタンにも同様の技術が存在したが、中村先生は筑後川の山田堰を参考にして、アフガニスタンの川をコントロールするための新たなモデルを構築した。中村先生のプロジェクトには日本の古い伝統技術を現代に(よみがえらせ、さらに工夫が加えられただけでなく、多くの適正技術が採用されている。

 当然ではあるが、途上国における国際援助としての施工の多くは近代的工法によって造られている。完成直後は誰しもが近代国家の仲間入りをしたように感じ、便利になったと喜ぶ、しかし、近代技術による工法であるだけに、現地の人々による維持管理はほとんど不可能に近い。道路建設一つをとって見ても、完成後の維持管理には再び欧米諸国からの支援が必要となる。それだけではなく、予算の手当ても必要となる。中村先生は現地の人々が自らの手によって、維持管理ができるための工夫を伝統技術や適正技術に求めた。当然ではあるが、こうした技術の適用は多くの予算を必要としない。

 さらに重要な点は世界的な気候変動によって、現在、人類は温暖化に対し、さまざまな対応を迫られている。この伝統技術や適正技術を途上国に対する開発のために、積極的に採用することは、温暖化を防ぐためのツールになると考えられる。つまり、伝統技術は過去の遺産として博物館に展示するものではなく、現代の開発に適応した技術として蘇らせ、積極的に活用すべきであると考える。

2)地域住民の関与

 プロジェクト形成については地域住民の合意とオーナーシップの形成が重要である。地域住民の関与によって、プロジェクト完成後の維持管理、隣接する地域や住民間とのトラブルなど、さまざまな問題に対処することが可能となる。

 私のヘラートにおける安全確保の事例から明らかなように、プロジェクトについて、地域住民の合意の取り付けを最初のステップと目指して取り組んだ結果、反政府勢力のタリバーンも私たちのプロジェクトが住民に裨益するものと確信した。その後、地域住民は正式に安全確保の要請をタリバーンに提出し、タリバーンは安全確保を約束するとの書類を提出するに至った。なぜ、タリバーンから安全確保の許可をもらう必要があるのか、不思議に思うかもしれない。実は政府がコントロールしている地域は町や道路といった点と線のみで、多くの地域が反政府勢力の支配下にある。そのため、地方の開発には、どうしても反政府勢力の暗黙の了解が必要なのである。つまり、地域住民の関与なくして、開発を進めることは非常に困難なのである。


5.おわりに

 中村先生のプロジェクトや私たちが目指した適正技術を採用した新しい形の農業開発は、すでにさまざまな国や地域で実施されている。しかし、これほどまでの成功を収めたケースは見当たらない。それだけではない、中村先生のプロジェクトはアフガニスタンの若者に大きな夢と希望を与えたのである。ガンベリ砂漠の成功は40年間続く紛争の間に見えた一つの大きな希望の光でもあった。とはいえ、人々の希望の光を灯し続けた中村先生はすでに凶弾に倒れていない。

 私たちに課せられた課題は過去の農業遺産を過去のものとしてではなく、新しいテクノロジーとして現代に蘇らせ、さらに工夫を加えることにあるのではないか。農業は土壌改良から始まって、バイオテクノロジーを駆使した作物栽培、家畜から細菌研究、農業土木から自然環境にまで及ぶ裾野の広いもっともエキサイティングな職種である。その裾野はとどまることを知らず、広がるばかりである。こんなことを考えると、明日の農業には大きな素晴らしい未来が見えてくるように思える。あるいは、これは私の独りよがりなのであろうか。

 最後に中村先生のご冥福を心よりお祈り申し上げます。

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