「土と文明」再考
 ―W.C. ローダミルクの業績と貢献
京都大学名誉教授、国際土壌科学連合名誉会員 久馬一剛

土地に書かれた人間活動の歴史

 第二次大戦終結から10年後の1955(昭和30)年にトム・デール(Tom Dale)とバーノン.G .カーター(Vernon Gill Carter)による“Topsoil and Civilization”がアメリカで出版され、その2年後に当時農政調査委員会の山路健によってその日本語訳が『世界農業の盛衰と土壌』として刊行された。しかしまだ戦後期の混乱を脱していなかったわが国ではそれほど注目を(くことはなかった。それからほぼ20年を経た1974年に、この本はカーターによって改訂増補(デールはすでに故人であった)され、原著の標題に近い『土と文明』と改題された同じ訳者の翻訳は、土壌や農業の専門家だけでなく、社会の広汎な分野の人々によって歓迎され広く読まれた。一つには訳書の題名が示す特異な視点からの文明論としての魅力が大きかったと思われるが、それとともに当時の世界的な経済開発に伴う地球環境問題の一つとして土壌侵食が取り上げられる機会が多くなっていたことによると思われる。

 この本のライトモチーフは、「文明人は地球の表面を渡って進み、その足跡に荒野を遺していった」というにある。そのことの証として著者は「最近6000年の歴史記録が示すところによると、若干の例外を除いて、文明人は一地方において30−70世代(およそ800−2000年)以上にわたって進歩的な文明を維持することはできなかった」という。彼らが顕著な例外として挙げたのはナイル、メソポタミア、インダスであったが、後2者の現状を見ると、これらですらもう少し長いタイム・スパンをとれば例外とはなり得なかったことがわかる。

 もう一つ同様な主題の本 ─ “Dirt:The Erosion of Civilizations” ─ がデイビッド.R.モントゴメリー(David R. Montgomery)によって2007年にアメリカで出版された。dirtという語感の悪い言葉が意識的に使われたのは、文明の侵食・退化という事象の負のイメージに同調させるためなのだろうか。2010年には、『土の文明史』という一般受けする標題を付けて、片岡夏実によって訳出され広く読まれている。この本も土壌侵食の文明史的な意義を論ずるとともに、上に述べた本の出版後半世紀を経た世界の農業と環境の変化を反映して、有機農業や不耕起栽培などの土壌侵食への対処効果などをも論じている。

 これら2つの本に共通するのは、「土地に書かれた人間活動の歴史」を読み取ろうとする態度あるいは方法論と、記述された内容や引用されている写真などにウォルター.C.ローダミルク(Walter Clay Lowdermilk)の強い影響が見られることである。事実、前者の初版本の謝辞の中でデールとカーターは「われわれのアイデアの多くは、ローダミルクがかつて行った文明衰退の一要素としての土壌侵食の研究から出ている」と明記しているし、モントゴメリーもローダミルクの報告書(1953;後出)の記述や写真の多くを引用しているだけでなく、さらにさかのぼって彼が土壌侵食を畢生(ひっせいの仕事とする動機となった中国黄土地帯における最初の侵食研究にも言及している。

 本稿では、土壌侵食が国家的な大問題となっている中国の土壌学文献にさえ、今ではほとんど取り上げられることのないローダミルクの初期の黄土地帯での事蹟(じせきを振り返り、ややもすると忘れられがちな土壌侵食問題の文明史的な意義を再考するためのよすがとしたい。


「中国の悲哀」から学んだローダミルク

 ローダミルク(1888−1974)はオランダからの移民の子としてノース・カロライナ州に生まれたが、その後西部開拓の波に乗ってオクラホマ州からさらにアリゾナ州へと移動した家族に伴われ、彼自身もアリゾナ州立大学で学んだ。この大学在学中にローズ奬学生に選ばれてオックスフォードの大学院で林学と地質学を学んだが、その間にドイツの林学や林業経営を学ぶ機会を得た。帰国後は連邦林野局に勤務しアメリカ南西部の国有林のレンジャーを勤めるなどの経験をしたが、1922年にメソジスト派のキリスト教伝道者として中国で働いていた女性と結婚したのを機に、彼女の懇請を受けて中国の飢餓問題の解決に貢献すべく同年9月から南京の金陵大学に職を得た。当時の金陵大学の同僚には後に『大地(The Good Earth)』でノーベル文学賞を得たパール・バック(Pearl Buck)の夫で、当時欧米にはよく知られていなかった中国農村の社会・経済状況を初めて調査・報告して世界に紹介した農業経済学者のジョン. L. バック(John Lossing Buck)もいた。

 ローダミルクは林学と飢餓問題との接点を求めて黄河流域を踏査し、黄河がなぜ「中国の悲哀(China's sorrow)」と呼ばれているのかを深く理解した。長い年月にわたって農民たちが営々として築き上げて来た高さ15m、長さ500kmを超える堤防の存在にも関わらず、黄河の河床は年々の沈泥の堆積で周辺の平野よりもはるかに高くなっており、豪雨に遭って堤防が決壊すれば黄河の水は新しい河道を刻んで華北平原を奔流するに任さざるを得なかった。事実、黄河は1852年の大洪水によりほぼ現在の河道を経て渤海湾に流入するようになるまでの約700年間は、現在の淮河の河口付近から黄海に流れ込んでいたことが知られている。

 黄河が大屈曲を経て最後に東流を始めてからほど近い中原の大都市である東周(BC770−BC256年)の洛陽や、やはりかつては黄河に沿っていた北宋(960−1127年)の開封など、古い王朝の首都が置かれていた河南省は古くは「豫」州と呼ばれ、豊かな森林にゾウをはじめ多くの野生の動物や野鳥たちが棲息(せいそくしていたからその名(豫の(つくりに象) があったとされる。黄河は、もともとは単に「河」と呼ばれて「江」(揚子江)と対比される中国の二大河の一つであった。これが初めて文献に「黄河」と書かれたのは前漢の史書「漢書」のなかであったという。それはゾウの闊歩(かっぽしていた黄土高原を含む流域の森林地帯が、人口の増加と文明の進歩のなかで開発・農地化され、大量の黄土の侵食が水を黄色く濁すにいたって、「河」に与えられた名前であったことを示すものである。黄河流域に広く分布するレス(loess)と呼ばれる石灰を含むシルト質の風成堆積物は、肥沃な土壌の母材になると同時に、容易に深いガリー(侵食谷)を刻む土壌侵食に対する抵抗性の低さによってもよく知られており、黄河はこのシルト(沈泥)を大量に含んでいるためにその名があるだけでなく、それが排出される黄海の名もこのシルトによっているのである。

 ローダミルクはさらに陝西省の西安を訪ね、古く秦・漢時代に始まる渭北平原*灌漑(かんがい地が水路を堆積した黄土によって(ふさがれて利用できなくなっているのを見たし、さらに黄土高原の各地で斜面を保護していた森林を伐り拓いて造った畑地の表土が激しい侵食を受けているのを見た。しかし、彼は同時にそういう黄土地帯の山地斜面のあちこちに古い社寺の保有する立派な社寺林が維持されているのをも見逃さなかった。彼はその事実から、当時有名なドイツの地理学者フェルディナント・フォン・リヒトホーフェン(Ferdinand von Richthoven)や気候決定論を唱えたエルズワース・ハンティントンらによって主張されていた、黄土高原の荒廃が気候の乾燥化に起因するとした説の誤りであることを確信し、中国をその「悲哀」から救うための第一歩は、黄土地帯からの表土流出を如何にして防止するかにあることを悟ったのである。

写真1 傾斜地に造られている段々畑は、農民が残された土壌を何とかして保全しようとしてきた、その並々ならぬ努力を示している(山西省にて;The Natural Resources Conservation Serviceによる"Conquest of the Land through 7,000 Years" の復刻版から、同書のFIGURE 7)
写真1 傾斜地に造られている段々畑は、農民が残された土壌を何とかして保全しようとしてきた、その並々ならぬ努力を示している(山西省にて;The Natural Resources Conservation Serviceによる

 彼はそれを実証するために1924年から25年にかけて、黄土高原の東端に当たる山西省の汾河流域の森林と、それに近接する畑の両方に流出試験プロットを造り、自らの手で作った量水計を設置して、少なくともアジアでは初めてといえる精緻な土壌侵食実験を行った。その結果は植生とリター(litter:落葉落枝)の効果によって、森林区と開畑区の表面流去水量と侵食量に大きな差異を生ずることを明瞭に示した。現在広く使われている「geological norm of erosion;地質学的侵食」と「accelerated erosion;加速侵食」という言葉は、ローダミルクによるこれらの侵食実験のなかから、彼によって提唱された言葉なのである(Lowdermilk, 1929)。そして、この時以降ローダミルクは土壌侵食と土壌保全の問題を畢生の仕事として、その重要性を世界に訴え続けた。

 ローダミルクは汾河流域での侵食試験などの結果を携えて、1926年に東京で開催された第3回太平洋科学会議に出席したが、会議の後で彼は北軽井沢の霧積川上流域や大津近郊の田上(たなかみ山地など、かつて浅間山の噴火や平城京造営以後の木材の伐り出しによって激しい侵食を受け荒廃した地域の森林再生状況を視察し、明治以降のわが国が「治山治水」に払ってきた大きな努力とその成果に深い感銘を受けた。この旅行の直後に書いた「日本の侵食制御」の論文(Lowdermilk, 1927) に、彼は「To rule the river is to rule the mountain」の副題をつけ、自身が黄河流域を見て痛感していた、川を治めるために山(集水域)を治めることの有効性を、日本が見事に実現して見せていることを感激の筆致で記している。彼のこの論文は、何時どの雑誌に出版されたかすらあまりよく知られていないのに、有機農業の始祖として著名なアルバート・ハワード(Albert Howard, 1940) の“An Agricultural Testament”(邦題『農業聖典』)のなかにかなり詳しく紹介されている。この2人にどのような接点があったのか、たいへん興味深いことである。

 ローダミルクは、上でも見たように山地の急流制御や侵食防止における日本人技術者の努力と成果を高く評価していたが、1935年のPacific Affairsに書いた論文のなかで、日本を他の多くの先進諸国と対比して、土壌侵食の制御と防止、植生の保全に成果を上げていると賞賛の言葉を述べている。さらに後年、1951年にGHQ(連合国軍総司令部)の委嘱で再来日した前後からは、「砂防」という日本語を国際的な専門用語として提唱し、それを広めようと努めた。今日、SABOは世界の砂防(山地侵食防止) 技術者たちによって、広く使われる国際的術語となっている。


1930年代のアメリカの大風食

 1927年3月の南京事件が、ローダミルクに中国を去って帰国することを余儀なくさせた。彼はそれを機にカリフォルニア大学バークレイ校で中国における経験にもとづき、「降水の表面流去に影響を及ぼす諸要因と土壌侵食」と題する実験的研究により1929年にPh.D.の学位を得た。その後、連邦森林局に復帰しロサンゼルス東北約50kmの山地にあるサン・ディマス(San Dimas)に小流域法による水理実験センターを創設して研究を続けていたが、その頃から深刻化し始めたのが、次に述べるアメリカ中西部のいわゆるダスト・ボウル(Dust Bowl)地帯における大風食である。

 ジョン.E.スタインベックが1939年に発表した『怒りの葡萄(ぶどう』は、ピューリッツァー賞や後にはノーベル賞をも受けたアメリカ文学の傑作であるが、その下敷きになっているのは、1930年代にアメリカ中西部の大平原地帯で風食によって吹き荒れた砂嵐である。

 1934年5月11日のアメリカ東海岸諸州は一日濃い霧に包まれたように薄暗く、人々は眼や咽喉を刺激する大量の砂塵(さじんに見舞われた。アメリカ・ロッキー山脈の東にテキサス州からオクラホマ州、カンザス州、南北ダコタ州へと連なる地域はハイプレーンズと呼ばれる草原地帯で、強風が吹き干ばつに見舞われることの多い半乾燥地帯である。もともとは遊牧的なアメリカ先住民の利用の下でバッファローなどの野生動物の群れの住処(すみかとなっていたステップ(短茎草本の草原)であり、人間が利用するとすれば穀物栽培よりも自然放牧(ranching)による畜産に適していた。しかし、この地域にも19世紀末には西部開発の波が及び、政府や商業資本の宣伝や援助もあって、東部から移住してきた人々は有り余る土地の拡がりを見て、ここに農地を開き、家畜の飼養頭数を増やしていった。ただ、度重なる干ばつがそういう動きにブレーキをかけ、この地域の急速な開発動向が抑止されていたのも事実である。

 ところが、20世紀の10年代に始まったトラクターやコンバインなどの大型農業機械の導入が大規模な農地開発を可能にしたのに加え、折しも第一次世界大戦によってコムギ価格が上昇したことが強い追い風となって、ハイプレーンズ地域の多くを、気候的により適した家畜の放牧から大々的な穀物栽培へ移行せしめることになった。これらの大規模農場では投機的なコムギ栽培を行い、干ばつで不作になれば収穫もせずに放置するような管理をしていたが、大型農機に取って代わられて土地を失った貧農たちは、新しい土地と機会を求めてさらに西へ、ロッキーを越えてカリフォルニアへと向わざるを得なかった。『怒りの葡萄』はそういう貧農たちの物語なのである。

 1931年から続いた干ばつは、すでに1933年11月に南ダコタ州で大きな砂嵐を引起したが、先に述べた1934年5月の大砂塵はそれまでで最悪のものであって、このときにダスト・ボウルと呼ばれる中西部の広い範囲から(き上げられた表土の量は3億5000万t にものぼり、2000km以上も離れた東部諸州に昼なお暗い状態をもたらしたのである。同様な激しい砂嵐は翌1935年4月にも記録されているが、その後も1930年代を通じて、ダスト・ボウルからの砂塵はアメリカの大きな環境問題であり続けた。

 しかし、なぜ砂嵐は1930年代になって激しくなったのだろうか。開拓は1880年代ごろから進んだのであるが、まだ一面に裸の農地が連なっていない状態では、風食も局所的であっただろう。大型の機械が出現し、その作業効率を高めるために何十、何百ヘクタールという一続きの農地が開墾されるようになって風食は大規模化し、ついには砂嵐を捲き起こすことになった。1910年代から農業機械の大型化によってますます農耕地が拡大されていたところへ、何年も続いた干ばつがあって、ついに1930年代の大風食が引起されたと考えられよう。その原因のなかには自然の気象条件が含まれているのはいうまでもないが、それが大きな環境災害をもたらすためのお膳立ては、すべて人間のしたことであったといってよかろう。ダスト・ボウルの砂嵐は人災だったのである。

 アメリカ政府のこの災害への対応は極めて速やかだった。というより、それほどこの災害のインパクトは大きく緊急性が高かったのである。1933年には内務省に土壌侵食局(USDI Soil Erosion Service)が創設され、局長に土壌侵食研究に実績のあったヒュー・ハモンド・ベネット(Hugh Hammond Bennett)を据え、それを補佐する副局長としてローダミルクを登用した。さらに、その後1934年、35年と続いた大風食による、ダスト・ボウルや東部諸州の被害を承けて行われた機構改革では、内務省から農務省に土壌侵食局を移して土壌保全局(USDA Soil Conservation Service)を創り、侵食対策の基礎としての土壌調査をその重要な所掌事項の一つとする対応をとった。今日のアメリカの土壌調査と分類における卓越した成果の基礎は、このときに置かれたといってよい。二人の優れたリーダー、ベネットとローダミルクは長く土壌保全局を率いてその職責を果たした。


土から読む世界の文明史

 農業の生産性が高まって食料の余剰が生み出されたことにより、直接には農耕に携わらない人々が出現し、手工芸やその製品の商いに携わる人、祭祀(さいしや学芸に専念する人が生まれ、それらの人々が取引や情報交換の必要から一定の場所に集住して都市ができたと考えられる。そういう都市を統制する必要から統治機構が出現し、社会階層の分化が起こり、富と知識・技芸の蓄積が行われ、文明が花開くことになる。

 しかし歴史をひもとくと、こうして生まれた文明も、先に述べたようにその多くは短命に終り、先述のように、一地方において30−70世代(およそ800−2000年)以上にわたって進歩的な文明を維持することはできなかった。ローダミルクはその理由を「土地に書かれた記録」から読み取ろうとして、1938年から1939年に18か月間にわたり、古来文明の中心として長く栄えた地中海周辺諸地域から近東と西ヨーロッパへかけて広汎な踏査旅行を行っている。彼が見たものは何だったか?よく引用される彼の詳細な報告書、『7000年にわたる大地の征服(Conquest of the Land through 7,000 years)』(Lowdermilk, 1953)はその調査報告書である。そして、後にここから『土と文明』や『土の文明史』に多くが引用されたのである。

 北アフリカはかつてのローマの穀倉地帯であり、コムギやオリーブ油の供給源として豊かな農業を営んでいた。しかしローダミルクが見たのは、かつての大都市ティムガード(Timgad;アルジェリア北東部に位置する古代都市遺跡)やクイクル(Cuicul;同)などで、厚い砂に覆われた遺跡から掘り出された広壮な大円形劇場や大浴場の廃墟(はいきょであり、それらとは対照的な、現存する貧農たちの粗末な小屋であった。オリーブ搾油場の遺跡はあっても、その周辺にもはやオリーブの木は見られない。彼は、それらがすべて都市周辺にあった農地における風食と水食の結果であると考えている。この変化を気候の乾燥化によるとする説に対しては、彼はスース(Sousse;チュニジア中東部のスース州の州都)で見つかったオリーブ園の、ローマ時代から1500年を生き抜いたオリーブの木の例や、古来の手法で造成した新しいオリーブ園の成功例を挙げて反証としている。つまり、現在の北アフリカの砂漠は人が作り出したものであると彼は主張したのである。かつて、彼が黄土高原について同じことをいったのを思い出す。

 エデンの園に擬せられ、7000年にわたって少なくとも11の王朝を支えたメソポタミアについても、古代の都市文明崩壊の原因を、ローダミルクは、チグリス・ユーフラテス両河の上流集水域での土壌侵食がシルトを増やし、運河を塞いでしまい、生命の水の流れを止めたことに求めている。メソポタミア文明の崩壊の原因は土壌の塩類化に帰せられることが多いが、運河の梗塞(こうそくによる沖積平野の湿地化が、乾燥気候の下で塩類化を促進したと考えれば、これら両説に必ずしも矛盾は無い。ローダミルクはさらに、遊牧民の侵入による灌漑システムの破壊が古代バビロニア文明に止めを刺したと考えている。

 旧約聖書に書かれた古代イスラエル人たちの足跡を辿(たどったローダミルクは、乳と蜜の流れる約束の地、ヨルダン河谷の3000年後について、「高みの土地の半分以上で、土が基岩まで洗われて剥き出しになった斜面が見られ、そこからの赤土(red earth) が谷に留まっているところでは、今もなお耕作が行われているが、豪雨の度に沖積地を切り裂く大きなガリーによって侵食されている」と、土壌侵食による荒廃のすさまじさを記している。

 ローダミルクが最悪の土壌侵食状況を見たのが北シリアのハマ(Hama)−アレッポ(Aleppo)−アンティオーク(Antioch;現在はトルコ領アンタキアAntakya)の間に広がる100万エーカー(40万ha)を超える石灰岩の波状台地である。この地域はフランスの考古学者マッターン(Mattern)神父が “cent villes mortes”(100の死んだ町)と呼んだ人為の生み出した砂漠である。この地の遺跡は土砂に埋没されてはおらず、美しい石造りの町の廃墟は、直接剥き出しになった基岩の上に立っていて、その建物の玄関の敷居は現在の地表より3−6フィートも高い。それだけの土が侵食によって地域全体から(ぎ取られたのである。「土がなくなり、すべてがなくなった(The soils are gone, all is gone.)」とローダミルクは慨嘆しているが、ここには耕すべき土がなく、もはや人も住めない。

 ローダミルクによって拓かれた、土に記録された文明の歴史を読む手法が後にデールとカーターによる『土と文明』や、比較的近年のモントゴメリーによる『土の文明史』によって引き継がれたことはすでに先に述べた。彼らは調査の範囲をさらに広げ、世界中の土に書かれた記録を読んで、それをわれわれに紹介してくれた。北イタリア・ポー川の河口から2−3マイルも北にあった島アドリアが、現在では海岸から15マイルも内陸に位置する町となり、その街道は2500年前にエトルリア人が建てた家屋の土台から15フィートもの高さにあること;アメリカ東海岸南部の初期入植者たちは、奴隷労働によるタバコ、次いでワタの単作によって、次々と土壌侵食による農地の崩壊を引起し、ダスト・ボウルと並んで悪名高いガリード・サウス(Gullied South、ガリーによって刻まれた南部)を出現させたこと;などなどである。そして土壌侵食による文明基盤の掘り崩しは、単に歴史上の記録であるにとどまらず、現在も進行中の深刻な問題であることを強く印象付ける。

 ローダミルクは先に述べた旅行の途次、エルサレムの放送局の要請で土壌保全について話した折に、旧約聖書のモーゼの十戒に付け加えるべき第11戒を次の言葉であるとした。─『汝は忠実な執事として聖なる大地を受け継ぎ、その資源と生産力を世代から世代へと保全するであろう。汝はその子孫たちが永遠に豊かさを保ち続け得るよう、汝の農地を土壌侵食から護り、汝の飲み水が涸れ上がらないように気をつけ、汝の森を荒廃させないように護り、汝の家畜の群れによる過放牧から丘陵を保護するであろう。もし汝が大地の世話人としての、これらの務めのどの一つを仕損じたとしても、汝の稔り多い園地は不毛な石だらけの土地と役立たずのガリーと化し、汝の子孫たちの数は減り、貧しさのなかに生きるか、さもなくば大地の表面から消え失せてしまうであろう。』─一神教の世界に生きるものでなくとも、ローダミルクが旧約聖書にことよせて世界に伝えたかった切実な思いは十分に伝わってくるではないか。



<Lowdermilkの主要論文>
Lowdermilk, W.C. 1926. Factors influencing the surface run-off of rain-waters. Proc. Third Pan-Pacific Science Cong. Tokyo, pp. 2122-2148.(黄土高原などでの実験結果)
Lowdermilk, W.C. 1927 Mar. Erosion control in Japan. Oriental Engineer, 1-12. To rule the river is to rule the mountain. (1927Aug. Torrent and erosion control in Japan. "To rule the river is to rule the mountain". American Forests and Forest Life, Vol. 33, No. 404: 474-479.(日本の山地の急流制御と侵食防止)
Lowdermilk, W.C. 1969. Soil, forest, and water conservation and reclamation of China, Israel, Africa and the United States (2 volumes; the oral history interview, March/1967 - April/1968). Berkeley, 1969. 
https://www.biodiversitylibrary.org/bibliography/19145#/summary にてpdf がダウンロードできます。
Lowdermilk, W.C. 1929.Further Studies of Factors Affecting Surficial Run-Off and Erosion. Proceedings of the International Congress of Forestry Experiment Stations, (Stockholm), pp. 606-628。(黄土高原における実験結果の総括報告)
Lowdermilk, W.C. 1929. Influence of forest mulch and litter on surficial run-off and erosion. Proceedings of the International Union of Forest Experiment Stations.(学位論文)

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