世界かんがい施設遺産登録と地域振興の取組
淡山疏水

兵庫教育大学大学院 学校教育研究科 教授 南埜 猛

1.はじめに

 2014年9月16日、大韓民国光州広域市で開催された国際かんがい排水委員会の理事会において、「狭山池(大阪)」や「通潤用水(熊本)」などとともに「淡山疏水(たんざんそすい」が、第1回の世界かんがい施設遺産に登録されることが決定された。世界かんがい施設遺産は、「灌漑(かんがいの歴史・発展を明らかにし、理解醸成を図るとともに、灌漑施設の適切な保全に資することを目的として、建設から100年以上経過し、灌漑農業の発展に貢献したもの、卓越した技術により建設されたものなど、歴史的・技術的・社会的価値のある灌漑施設を登録・表彰する」ことを目的としている。

 本稿では、世界かんがい施設遺産の淡山疏水を紹介するとともに、登録により期待されている、灌漑施設の持続的な活用・保全方法の蓄積、研究者・一般市民への教育機会の提供、灌漑施設の維持管理に関する意識向上への寄与、さらに灌漑施設を核とした地域づくりにおける、淡山疏水での取組を紹介する。また、淡山疏水とほぼ同じ時期に行われた台湾の水利開発を紹介して、今後の取組についての提案を行う。


2.淡山疏水の地域と水利開発の展開

 淡山疏水は、「淡河(おうご川疏水」(1888年着工・1891年竣工)と「山田川疏水」(1911年着工・1919年竣工)の2つの疏水によって構成される。それぞれの疏水には、水源の河川名がつけられている。図1が示すように、この2つの河川は兵庫県最大の河川である加古川の支流の美の川、その支流の志染(しじみ川のさらに支流である。

図1 淡山疏水と溜池
図1 淡山疏水と溜池

 一方、受益地域は、加古川の左岸に広がる「いなみ野台地」である。この地域は、瀬戸内海式気候に位置し、年間の降水量が日本の平均の3分の2程度の1200mm前後であり、稲作においてもぎりぎりの降水量である。降水量が少ないだけでなく、年による降水量の変動も大きい。それゆえに、かつては30年周期の小飢饉、50年周期の大飢饉、3年に一度の不作といわれるような頻度の干ばつに見舞われる干ばつ常襲地域であった。

 いなみ野台地には、このような気候条件に加えて地形的な自然的制約もある。いなみ野台地は海岸から1kmから10kmの距離にあり、またすぐ西には前述の加古川が流れている。しかしながら、農地が広がる台地面と河川水面は数十メートルの差があり、その河水を直接利用することは近世以前の土木技術では難しかった。また、加古川の水は下流部にある聖徳太子ゆかりの五ケ井用水が強力な水利権を有し、その上流での水利開発は古田(こでん優先の原則のもと、長らく規制がなされてきた。それゆえに後述する淡山疏水の取水地点は、淡河川疏水が河口より40.6km上流の木津(標高は140m)、山田川疏水は同39.4km上流の坂本(標高は150m)に求めざるを得なかった。

 そこで、いなみ野台地の開発においては、その水供給の不足や不安定さを補うために、溜池が造られてきた。その築造は古代にまで遡る。いなみ野台地には、兵庫県で最古の由来を持つ天満大池があり、675年に築造されたと伝えられている。そのほか入ケ池(714年)や経の池(806年)などは、台地上の谷頭(こくとう付近や窪地といった地形を巧みに利用して築造された谷池(たにいけである。しかしながら、一部でこのような開発が進められたものの、いなみ野台地の大部分は原野として残され、枕草紙においても「野」(原野・荒野)の代表のひとつに挙げられている。

 いなみ野台地の開発が進んだのは、近世の新田開発の時期である。新田開発では、台地上を流れる草谷川や曇川といった中小河川の利用が開発の鍵となった。もちろん、それら河川の河水はすでに沿岸の村落で使用されており、古田である沿岸村落の権利が優先され、後発である新田の河川水利への参入は容易には認められない。

 そこで新田側は、稲作の灌漑期ではなく、非灌漑期の水利権を獲得することで活路を見出した。その代表的な開発の1つである大溝(おおみぞ用水では、草谷川を水源とし、非灌漑期の9月1日から翌年5月1日の水利権を得た。もちろん稲作のための水であるから、水が必要な時期は夏の灌漑期である。そこで、得た河水をストックする施設として溜池が築造された。大溝用水の開削とともに築造されたのが兵庫県で最大の溜池である加古大池である。加古大池は四方を堤防で囲った皿池である。開発当時の加古大池は5つの池からなる溜池であったが、1949年の大改修により統合されて、満水面積49haの現在の形となっている。大溝用水関係では加古大池を含め17の溜池が築造されている。近世においては、大溝用水と同様の手法で、疏水の開発とともに多くの溜池が築造されていった。

 さて、近代に入り、いよいよ淡山疏水の開発を迎える。淡山疏水においても、「非灌漑期の水の利用」と「河川と溜池をつなぐ」という近世に確立した地域の智恵が生かされた。すなわち、水源である淡河川と山田川の水利権を非灌漑期の9月20日から翌年5月20日に設定するという水利調整によって、その水利開発を実現した。

 そして、淡河川疏水と山田川疏水では、50か所を超える溜池が新たに造られている。近世の開発と異なるのは、淡河川と山田川がそれまでの台地上の河川ではなく、台地の外にある河川ということである。いなみ野台地の受益地域まで水を送るためには、長い水路、それも谷や山を越える水路の建設が必要であった。とくに淡河川疏水では幅約750m、深さ50mを超える志染川が流れる御坂(みさかの谷があり、その谷に疏水を如何に渡すかが実現の鍵であった。また、延長682mの芥子(けし山の隧道(ずいどう工事は3年4か月を要する難工事となった。

 御坂の谷の難題の解決に当たっては、横浜水道の建設にもかかわったイギリス人技師ヘンリー・スペンサー・パーマー氏の助言や協力を得、イギリスより輸入した軟鉄製の鉄管を用い、逆サイフォン工法により水を通した(御坂サイフォン:写真1)。淡山疏水の計画は近世にもなされた。しかし、水源地域が明石藩であり、受益地域が姫路藩であったために、水利調整そのものが困難であった。幕藩体制から近代国家への移行、それに伴う廃藩置県で兵庫県となったことにより、水源地域と受益地域が同一の行政組織に組み込まれたこと、そして測量や軟鉄などの西洋技術の導入が水利開発を可能にしたのである。淡河川疏水による営農の変化と経済的な発展は周辺地域を刺激し、新たな水利開発の要望となり、山田川疏水の計画が実施された。

写真1 御坂サイフォン
写真1 御坂サイフォン

 現代に入り、播磨臨海工業地帯の急速な工業化・都市化と営農労働力不足や地価高騰による農地流動化などの地域変容を受けて、1970年に農業用水に都市用水の開発を含めた東播用水事業が発足した。東播用水事業では水源を加古川上流の篠山川に設置した川代ダム、東条川に設置した大川瀬ダム、そして山田川に設置した呑吐(どんどダムの3つのダムを導水路でつないでおり(図2)、通年の給水を実現している。その事業によって新たな溜池は築造されなかったものの、既存の溜池の貯水量が水利調整において重要な役割を果たしている。東播用水事業は基本的に溜池への補給水としての位置づけであり、ダムからの水が来るからといって、溜池の必要性がなくなったわけでなく、「河川と溜池をつなぐ」という地域の智恵のもと成立した水利事業であるといえる。

図2 東播用水事業の概要
図2 東播用水事業の概要

3.淡山疏水と東播用水の伝承の取組

 淡山疏水を維持・管理してきたのは、「兵庫県淡河川山田川土地改良区」である。その受益地域を含めて広域な範囲を受益地域とする「東播用水土地改良区」が1972年に設立され、いなみ野台地の地域は両土地改良区による2元管理がなされてきた。2010年度から兵庫県淡河川山田川土地改良区の施設は東播用水土地改良区に管理委託がなされ、両土地改良区は2016年4月に組織合併し、現在の「東播用水土地改良区」となっている。

 この合併協議のなかで、淡山疏水と東播用水の多様な機能を発揮させ、農家と非農家の人々が力を合わせて魅力ある農業と地域を創り上げ、100年後の世代に引き継ぐことを目的とする TT未来遺産運動基本計画が2015年に策定された。 この「TT」 とは淡山(Tanzan)疏水と東播(Toban)用水のそれぞれの頭文字のアルファベットをとったものである。そして、その運動拠点として、淡山疏水と東播用水の歴史と役割などを紹介する「TT博物館」が2015年1月に設置された(写真2)。TT博物館は2つの展示室と屋外展示場を有し、第1展示室では、淡山疏水に関する模型・写真・図面・文書などのほか、疏水工事で使用した測量器具などが展示されている。第2展示室では、東播用水に関する写真・図面のほか、兵庫県淡河川山田川土地改良区と東播用水土地改良区に関する資料が展示されている。また、屋外展示場には歴代のサイフォン管などの実物の一部が展示されている。

写真2 TT博物館
写真2 TT博物館

 さらに、同博物館の資料保管室には、淡山疏水成立時の明治からの設計図や議事録などの各種資料が保管されており、それらは日本の農業・水利開発の近代化の過程を知ることができる貴重なものである。その一部は、文化庁補助事業である近代化遺産総合調査によって、デジタル化ならびにデータベース化がなされている。これまで淡山疏水の歩みは、『疏水事業沿革史』『淡河川山田川疏水五十年史』『淡河川山田川疏水史/創業77周年』『兵庫県淡河川山田川疏水百年史』という形で、その歴史を刻んできた。現在は東播用水との合併時の128年史が編纂中である。

 このほかTT博物館は、淡山疏水と東播用水の用水路・ダム・溜池・円筒分水所・サイフォンなどの水利施設を「サテライト」として位置づけたフィールド博物館としての一面を有している。また、関連の深い「いなみ野ため池ミュージアムため池資料館」と「稲美町郷土資料館」との連携を図った運用がなされている。

 淡山疏水の伝承にあたっては、教育活動が重要な鍵である。兵庫県東播磨県民局が淡山疏水を題材にした副読本『水をもとめて』を作成・発行し、いなみ野ため池ミュージアム運営協議会によって『水をもとめて』読書感想文コンクールが2009年度より開催され、2019年には第10回を記念した冊子が編集されている(写真3)。また、兵庫県加古川流域土地改良事務所では、『水をもとめて』読書感想文コンクールに参加する小学校を対象にして、教員向けの講習会、児童の関連施設へのバスツアーや社会見学の機会の提供などを実施している。TT博物館でも、毎年、8月に小学生の児童とその保護者を対象とする「淡山疏水・東播用水親子学習会」を実施している。

写真3 『水をもとめて』(左)と『読書感想文コンクール十周年記念文集』(右)
写真3 『水をもとめて』(左)と『読書感想文コンクール十周年記念文集』(右)

4.台湾の水利開発

 台湾は日清戦争後の下関条約により日本の一部となり、太平洋戦争終戦までの約半世紀にわたり日本の統治がなされた。その間、多くの日本人土木技師が台湾に赴任し、水利開発を行った。ここでは、桃園大圳(タオユエンたいしゅう白冷圳(パイルオンしゅう(「圳」とは「疏水」、「用水」を意味する)の2つの水利開発を紹介する。

 台湾の玄関口の1つである桃園国際空港は桃園台地にある。離着陸時に窓から下を眺めてみると、台地上に多くの溜池を目にすることができる。桃園台地の開発は遅く、18世紀に入って、中国大陸から移住してきた人々(福建省閩南(びんなん系と広東省客家(はっか系)によって本格的に進められた。これら大陸からの移民は、台地上の中小河川を水源とする用水と数多くの溜池によって灌漑の水を確保した。清代末での溜池の数は8000を超えるとされ、桃園台地に世界有数の溜池卓越地域が形成された。

 日本統治時代に台地の外を流れる大漢渓(ダーハンけい(下流部では淡水江(タンシュウイこう)を水源とする桃園大圳(1916年着工・1928年竣工)が計画された。その計画には鳥山頭(ウーシャントウダムを建設した八田與一技師も関わっている。桃園大圳では、新たに溜池を造るのではなく、既存の2326の溜池を統廃合し、効果的な244の溜池に集約するとともに、大部分の溜池を廃止することで農地を創出した。

 白冷圳(1928年着工・1932年竣工)は台中市にあり、サトウキビの育種場を含む新社(シンショーア台地の灌漑を目的とするものである。大甲渓(ダージアけいの上流で取水した水を16.7kmの水路を通じて送る計画であり、磯田謙雄技師によって設計がなされた。淡山疏水と同様に途中の山や谷を越える過程で、多くの隧道が掘られるとともに、鉄管を用いた逆サイフォン工法が用いられた。とくに第2サイフォンは全長346m、管径1.13mの鉄管が用いられた。この鉄管は日本(内地)製である。1999年9月21日に発生した921大地震で、この施設は破損し、配水機能は停止した。その後の復旧工事では、新しいサイフォン管が設置されるとともに、旧サイフォン管も修理がなされ、現在は谷を横断する2つのサイフォン管が並走する景観を見ることができる。


5.おわりに

 水利施設は人工物である。そのため常に人が手を加え、時には新しく更新することで、その機能が維持される。現在の御坂サイフォンは三代目である。初代の御坂サイフォンは先に述べたようにイギリスからの輸入品であった。二代目からは、国産のものが使用されている。そして管の素材も、軟鉄、鉄、ダクタイル鋳鉄と、時代とともに変化し、それぞれの時代の最新の技術が用いられている。

 現在、東播用水土地改良区は二期事業を実施している。この二期事業では、淡河川疏水の難工事であった芥子山隧道を廃止し、同隧道の前より淡河川疏水の水を山田川疏水の水路にポンプアップし、合流した山田川疏水の隧道も廃止して、芥子山の地下を通る新しいトンネルが掘られている。神戸電鉄緑が丘駅の北東にある「緑が丘南公園」では、明治の淡河川疏水の隧道、大正の山田川疏水の隧道、そして令和の新しい隧道の3つの隧道が交差する。掘削方法や壁面の素材など、それぞれの時代の違いを感じることができる貴重な場となっている。現在は、それらを学びの場としての活用が検討されている。

 本稿で紹介したように、鉄管を用いて逆サイフォン工法で谷を横切り水を送るという近代の技術はイギリスから日本に、そして日本から台湾へと伝播がなされた。そして「河川と溜池をつなげる」といった智恵の伝播も確認される。

 このような伝播に関わって溜池に注目してみると、先に言及した天満大池の築造は、歴史的にみると朝鮮からの渡来人の関与が考えられる。そしてその溜池は1000年以上にわたって、地域の人々が守り、維持してきた水利施設である。

 近年、SDGsが注目されている。これら溜池とその地域の歴史には、「持続可能な開発」のヒントが多く詰まっていると考える。

 台湾の桃園市政府は、溜池を親水施設として整備し、草刈りなどの維持活動の一部を負担している。郊外の農地に囲まれた溜池では立ち入り禁止などの看板は見られるが、市街地の溜池では公園として整備がなされ景観に配慮した柵などが設置されている。その公園内には「桃園埤塘(ひとう文化紹介」という看板が設置されている。「埤塘」とは「溜池」のことである。桃園市は、溜池を軸とする文化活動を推進し、溜池そのものの調査・研究の積極的な支援のほか、溜池を地域文化や地域資産としてとらえる試みや溜池を観光資源として活用する試みもなされている。これらの取組は、日本でも大いに参考になる。

 本稿で紹介した淡山疏水と桃園大圳の2つの水利開発の地域は、世界有数の溜池卓越地域である。また、ともにモンスーンの影響を強く受ける地域である。モンスーンとは、アラビア語の季節を意味するマウスィムに由来する季節風のことである。この季節風は、地域に雨をもたらすのであるが、年によって大きく変動する特徴がある。その不安定さを補う手段として、溜池が用いられてきた。インドやスリランカでも同様の理由で多くの溜池が築造されている。 淡山疏水と桃園大圳では、さらにその自然環境と「河川と溜池をつなげる」といった地域の智恵によって、溜池を造ってきた。

 このように溜池が卓越する景観は、自然と人間との相互作用のなかで生み出された複合文化遺産であるといえる。台湾政府は、すでに「桃園台地の埤塘」として、桃園台地の溜池群を世界遺産登録候補地リストに登録している。さらに広くみれば、淡山疏水の地域も含め溜池が卓越する地域はモンスーン・アジア特有の文化的景観とみなすことができる。灌漑施設の維持管理に関する意識向上への寄与や灌漑施設を核とした地域づくりにおいて、世界遺産登録を新たに活動目標として設定することを提案して、本報告を終わることにする。


<参考文献>
*いなみ野ため池ミュージアム運営協議会編(2010):『淡河川・山田川疏水開発の軌跡をたどるいなみ野台地を潤す“水の路”〜淡河川・山田川疏水史』,兵庫県東播磨県民局,112p.
*農林水産省ホームページ:「世界かんがい施設遺産」(https://www.maff.go.jp/j/nousin/kaigai/ICID/his/his.html
*水土里ネット東播用水(東播用水土地改良区)(2014):『東播用水40年のあゆみ』,116p.
*淡山疏水検討会編(2012):『淡河川山田川疏水調査報告書』, 兵庫県歴史文化遺産活用活性化実行委員会,220p.

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