世界かんがい施設遺産登録と地域振興の取組
五郎兵衛用水

佐久市五郎兵衛記念館 館長 根澤 茂

1.世界かんがい施設遺産登録への道

 佐久市五郎兵衛記念館は、地方自治体が設置する全国でも数少ない灌漑(かんがい用水開発者の記念館である(写真1)。

 当館が建設されたのは、この辺り一帯の県営ほ場整備事業の竣工と江戸時代初期寛永7(1630)年から約350年間、地域を潤してきた五郎兵衛用水の抜本的改修が完了した昭和48(1973)年である。先人たちは竣工記念碑の建立よりも、用水開発の歴史を正しく伝えようと散在していた関係古文書収蔵と、史料展示や研修集会など多目的に活用できる施設を、五郎兵衛記念館として農林水産省(当時、農林省)の補助を受け建設した。 なぜならば、近世土豪開発型用水の先駆けとされる五郎兵衛用水だが、歴史を亡失したため明治期に慣行水利権や水源涵養(かんよう林の多くを失い、昭和初期には地域は疲弊し廃村同様なのを憂い、歴代首相のご意見番ともいわれた安岡正篤(1898−1983)が、直々に五郎兵衛精神を説く私塾を開講し、地域を再生させたという数奇な歴史があるからである。

写真1 五郎兵衛記念館
写真1 五郎兵衛記念館

 当館は地域を再生させた灌漑施設の貴重な歴史を世界かんがい施設遺産登録へ進め、平成30年度、Gorobe Irrigation Systemとして願いは叶った。いま、その成果は地域づくり・人づくりに大きく貢献している。


2.土豪開発型用水の先駆けである五郎兵衛用水

 五郎兵衛用水は深良(ふから用水(静岡県)、辰巳(たつみ用水(石川県)、玉川上水(東京都)と並び、その規模と難度から日本の歴史的な四大用水の1つに数えられることもある。

 この用水の灌漑地域は9世紀から15世紀まで、日本国内最大規模の勅使牧(ちょくしまき(天皇家直轄牧場)で安寧(あんねいの日々であったものが、中世に信濃を覆った度重なる浅間山の大噴火、あるいは千曲川の大洪水、また戦禍により灌漑施設など社会基盤が破壊され、人々はこの地で耕作することを諦め、他国で流浪と飢餓の生活「佐久郡一郡逃散(ちょうさん」という不幸な歴史を残す地でもある。

 周知のように、アフガニスタンで故中村哲医師が行った灌漑施設建設は戦争難民・飢餓・家族別離の生活を解決した。400年前、日本の佐久の地に同様に挑んだ人がいた。それが市川五郎兵衛であり、 世界かんがい施設遺産の申請では彼の志と所業が高く評価されて、登録に(つながったと考えている。登録が「Gorobe Irrigation Canal」でなく「Gorobe Irrigation System」なことが、何よりの喜びと誇りである。


3.五郎兵衛の用水開発の手法と村の発展

 当時の古文書から武田信玄と市川五郎兵衛家との関係は深く、灌漑用水開発の核心部分である本流から取水のための巧妙な水勢工、そして山々を貫く隧道(ずいどう工事を担った技術者には武田の遺臣が関わっていたことが分かる。その後、彼らは全国へ散り、灌漑用水の開発を行っている(写真2)。

写真2 用水の掘貫(隧道)
写真2 用水の堀貫(隧道)

 五郎兵衛用水の開発で彼らは水源を標高2080mに求め灌漑地帯の標高600m台までの、高低差の克服や工事困難な基礎地盤の改良に、さまざまな知恵を絞っている。たとえば「築堰(つきせぎ」と呼ばれる高盛土により高低差を超えて、灌漑施設を延長する工事において敷枝工法(古代からの補強土工法;一方向にそろえて枝を敷き詰め、次いでこれに直交する方向にそろえて枝を敷き重ねてゆく)や杭付き胴木基礎(古代からの基礎工法;水平面で直交する木材と鉛直方向の杭との併用)を採用し、地盤の強化を図っている。また長大な土で築かれたこの「築堰」からの漏水を防止するために真綿を利用してグラウト工法(現在であれば、構築物の割れ目にシリコンなどの薬剤を注入する工法)の類似工法を試みるなど、この灌漑施設の工事に用いた手法は、この地域だけでも40か所を超える灌漑施設開発の大きな模範となっている。

 五郎兵衛の努力は実り、当時の記録によれば、荒廃地域が耕作地へと早々に再生し、その面積は当初の439haから40年後には870haへと飛躍的に拡大した。その恩恵により、飢餓と貧困のため遠くの地域へと逃散していた人々が、故郷へ帰還し、家族そろって安定した社会生活が送れるようになっている。

 このとき五郎兵衛は灌漑施設による地域の繁栄が永続するように、用水の維持管理補修には「用水普請(ふしん」、水源涵養林の保全には「山普請」として、そうした作業を人々に義務と定め残している。作業規模は変わったが、現在まで欠かさず人々により続けられている。

 用水路から始まり用水路で発展したこの村の特色に、「人足札」と呼ばれる独特な地域通貨制度がある。それは、人々が用水関連作業に出役すると村役人から交付される木札のことで、地域では通貨同様に通用し1600年代から1950年まで村役場により厳格に管理されていた。この制度によって、役所は用水の維持管理費の低減化、住民には多少の労働対価、地域商人には富の再分配といったように、3者に共益をもたらしていた(写真3)。

写真3 人足札
写真3 人足札

 時を経て1969年、基幹水路の大改修によって、受益者の直接出役年間9000人という作業は廃止に至った。施設維持の負担は消えたが、用水管理者である五郎兵衛用水土地改良区では世代間の用水継承を目指す活動として、地域の小学校と「田んぼの学習」教育プログラム化を協働している。その成果もあって、灌漑施設が地域の中心として大切に守られ続けている。


4.世界かんがい施設遺産登録を契機に

 2018年8月開催の国際かんがい排水委員会(ICID:International Commission on Irrigation and Drainage)国際理事会において、本用水の世界かんがい施設遺産登録が決定され、新聞・テレビで全国報道がされて、多くのことを経験した。たとえば、故中村医師の同級生が家族連れで来館してくれ、話題のなかで同医師の講演会を企画したが不慮の事故で頓挫したり、五郎兵衛用水の水を使って栽培されるブランド米「五郎兵衛米」を扱っている民間企業の経営者たちからは「登録を祝う(のぼりでもポスターでも好きなように発注して、その請求書は会社へ回せ」という嬉しい声もあった。


5.世界かんがい施設遺産登録で地域振興

 また、佐久市では世界かんがい施設遺産登録を地域おこしの好機として予算の重点配分を、民間の佐久市観光協会ではポスターの作成、特集号の発行とさまざまなイベント計画を進めてくれた。

 その1つに、世界かんがい施設遺産登録を祝い地元の道の駅「ほっとぱ〜く・浅科(あさしな」で計画された記念イベントがある。世界かんがい施設遺産の啓発掲示はもちろん、用水の恵みの特産米、農林水産省の地域再生事業で復興した全国でも佐久市矢嶋地区だけの天然手作り凍み豆腐(伝統製法の自然凍結・乾燥による、いわゆる高野豆腐)、地元特産野菜などの特売を行政・道の駅・観光協会の3者が協力し計画を進めた。しかし、残念なことに開催を前に、2019年10月の台風19号が佐久市内で甚大な被害を発生させ、開催は見送られた。

 だが、佐久市観光協会と地元の道の駅では改めて甚大な災害からの復興祈念「道の駅祭り」を計画中である。当館も協賛して、資料の展示と五郎兵衛米の炊き出しを予定している。

 いま1つ、実現したものもある。新たな地域観光掘り起こしに「佐久市内の温泉郷春日温泉」と「用水施設見学会」、そして「地産地消推進のため道の駅利用」という3者協働推進プロジェクトである。

 それは五郎兵衛用水頭首工が春日温泉に近いことから、春日温泉送迎車に当館からの説明員が同乗し、長野県史跡指定の隧道や懸崖(けんがい水路、水道橋跡など用水施設を案内し、途中で五郎兵衛記念館を見学、そして地産地消推進に当館近くの「ほっとぱ〜く・浅科」で五郎兵衛米の試食と地域の特産物のショッピングをするというものである。これまでは、観光施設の利用客の来館をただ待つだけであったが、嬉しいのは「当日、楽しかったから」とリピーターが増えたことである。


6.社会へ大きく発信

 世界かんがい施設遺産登録を契機とする地域振興は観光に留めることなく、独自事業として特別講演会も開催した。

 2019年3月16日に、佐久市の交流文化会館浅科 「穂の香ホール」(定員400名)を会場として、講師には風土工学デザイン研究所の理事長・竹林征三工学博士を迎えた。風土工学デザイン研究所の設立には、農業水利の神様といわれ土木工学の発展に寄与された元京都大学総長で文化勲章も受章された故沢田敏男先生が尽力された経緯がある。竹林博士はその土木工学に風土学(地理・歴史・民俗学)と美学を抱合して新たな学問「風土工学」、さらには「環境防災学」を構築された。題目は「日本の治水史・四千年の系譜─都江堰(とこうえん・大久保長安・五郎兵衛用水─」で、会場は満席となった(写真4)。

写真4 講演会
写真4 講演会

 竹林博士はこれまでの調査研究成果から、五郎兵衛用水と同時に世界かんがい施設遺産登録になった中国三大用水の1つで2300年前に開発された巨大水利施設「都江堰」の水利技術を、武田信玄が水害に悩む甲斐の国で実践に生かし人々を水害から守ったこと、その技術はさらに市川五郎兵衛に引き継がれ佐久の大地で花開いたことを、聴衆に分かり易く語られた。この講演会を意義深いものにしたのは、在中華人民共和国日本国大使館の仲立ちにより「都江堰」の地元である四川省都江堰市政府の協力が得られ、当日の講演資料や、会場の展示に貴重な現地写真が提供されたことである。世界かんがい施設遺産登録を契機に、草の根から国際交流の輪を広げることができたといえよう。

 また当日、会場ロビーで国内外のさまざまな用水開発についての貴重な文献・資料の展示を竹林博士の協力で行い、中国から日本へ伝えられた治水の4000年の歴史が講演とともに学べたと参加者から好評だったのは、主催者の大きな喜びとなっている。当日のこのような素晴らしい成果は、講演会ダイジェスト版で市内ケーブルテレビによって市内全域に放映され、世界かんがい施設遺産登録の重みと佐久市の誇りを、市民全体で分かち合うことができた。

 なお、長野県内では信州を紹介する総合情報誌『KURA(くら)』の巻頭を飾る「信州遺産」として、英文併記でカラー写真も大きく掲載されるなど、さまざまな雑誌にも掲載されるようになったのは、世界かんがい施設遺産に登録されたからだろう。

 世界かんがい施設遺産登録によって社会認知が進んだ好例として、長野放送・新潟放送開局40周年記念特別番組という両社にとり記念すべき番組の制作に当たり、長野県内を代表して五郎兵衛記念館に出演依頼があって、大きく放映されたことも挙げられる。


7.当地域における作付米の付加価値への効果

 世界かんがい施設遺産の登録が早速、地域に経済効果をもたらした1つに、五郎兵衛用水で灌漑される水田で作られるおコメの商品力アップがある。

 以前から「疏水百選」に選定されている五郎兵衛用水は八ヶ岳の原生林に涵養された銘水であり、また五郎兵衛田んぼの土壌は五郎兵衛新田層と学術上分類されるミネラル豊富な土壌であり、本地域で栽培されるコメは『五郎兵衛米』と商標登録され、食味は一昨年の全国大会で第1位の高評価を得ていた。それでも全国的なコメの需給関係から、今まで値切られていたのが実情であったのだが、世界かんがい施設遺産に登録されたというと、以前よりも高い価格で販売できるようになった。

 世界かんがい施設遺産登録が地域へ貢献した例として企画商品の開発、五郎兵衛米おかゆのレトルトパック化がある(写真5)。それは地元の福祉施設が世界かんがい施設遺産登録を契機に、独自に企画・製造・販売を始めたもので、容器には「平成30年度世界かんがい施設遺産登録五郎兵衛用水」と大きく印刷してある。普段使いはもちろんだが、昨年の災害時には乾パンや即席(めんよりも、重宝したと好評である。願いは、販売量が増加することによって、通所する人々と関係者の笑顔が増すことである。

写真5 五郎兵衛米の「おかゆ」パック
写真5 五郎兵衛米の「おかゆ」パック

8.登録を契機とした全国からの反響

 登録によって、五郎兵衛用水を全国へ発信ができ、さまざまな反響があった。

 五郎兵衛の崇高な精神は、生家に代々語り継がれ、幕末の子孫は、当時、埼玉県熊谷市が荒川の大洪水で被災したとき、私財を投じて堤防を築いて市街地を守り、洪水跡の荒れ地に桑を植え、やがて世界文化遺産の官営富岡製糸場の開業へと繋げて行ったことが分かったのである。これによって、関係市から視察団の訪問を受けるようになった。さらに、五郎兵衛と信州善光寺の関係から世界文化遺産官営富岡製糸場・世界かんがい施設遺産五郎兵衛用水・信州善光寺をセットにした観光コースの設定の可能性を観光業界と検討している。

 また五郎兵衛の子孫の慈善事業家たちが渋沢栄一および尾高敦忠と親しかったことから、渋沢に関係深い神奈川大学大学院歴史民俗資料学研究科の現地研修で中華人民共和国・モンゴル・大韓民国からの研究生18名と親しく交換を深めた(写真6)。

写真6 海外からの現地研修の受け入れ
写真6 海外からの現地研修の受け入れ

9.地域一体化の橋渡し

 佐久市は、2005年4月に旧佐久市・臼田町・浅科村・望月町の四市町村の合併で誕生したが、いま人々の心を一つのものにする触媒として灌漑用水の歴史がある。五郎兵衛は佐久市内で3か所の用水開発を行っている。その代表は五郎兵衛用水だが、あまり知られていなかった史実がある。慶長2年(1596)、千曲川とその支流2川の合流点にあるため三河田村と呼ばれ古代から栄えていた村が、千曲川の大氾濫流で流失したが、これが五郎兵衛が佐久平で最初に行った用水開発の発端となったのである。そのとき五郎兵衛は安全な場所へ新たな村づくりをするため、生活用水と灌漑用水を兼ねる「三河田用水」を開発し、三河田新田村84haを開村した。

 次に隣接して、灌漑面積が387haに及ぶ「常木用水」を開発している。それまでは活火山である浅間山からの熱水を水源とする灌漑用水であったので火山性の鉄分が多く、水稲は生育不良で常に凶作ともいえる状況にあった。五郎兵衛は新たな清冽な水源を軽井沢に求め、この用水によって鉄分が希釈されて微量要素となり、水稲は増収に転じ、佐久平を反収が非常に多い水田地帯へと変貌させた。

 佐久市では、毎年3月、合併記念イベントを市内各施設が企画している。台風19号による千曲川の大洪水で、佐久市内の被災家屋は1051世帯、農地の流失はいまもって正確な面積が算定できないという激甚災害を被った。田畑を流され尊い人命まで失われ、未だ心に深い傷を負っている市民が少なからずおられる。奇しくも、その被災地は江戸時代の被災地と重なる。当館は、当時の佐久の人たちが五郎兵衛と共に用水開発を行ったことを企画展示しており、平成合併以前の祖先たちの協働の歴史が再び脚光を浴びる形となっている。このことは、人々の心を改めて一つに結び付ける契機になるであろう。


10.次代を担う子供たちの活力の源として

 佐久市内の小学校では、市川五郎兵衛が人のために役立とうと生涯を通じ献身したことを副読本で学習の後、用水見学会でいまでは想像もできないような当時の苦心を見聞きし、さらに学校田での水稲栽培でイネの成長と収穫の喜びを実際に体験するという学習をしている。佐久市外の小学校にあっても、農業機械製造工場の見学に併せて、当館で灌漑用水の歴史とその大切さを学ぶことを新たに取り入れる事例が出てきている。筆者は、明日を担う子供たちが市川五郎兵衛の献身と勇気の歴史を学び、明日への糧とするよう当館で熱く語りかけている(写真7)。

写真7 子供たちの用水の懸崖部の見学
写真7 子供たちの用水の懸崖部の見学

 2017年、佐久市文化財団が主催する市民参加の創作ミュージカルが、五郎兵衛の用水開発を主題に4歳の子から80歳の老人までの総勢170人により上演され、好評を博した。世界かんがい施設遺産登録を機に、再来年、再上演されることが決定した。

 「地域づくりは、人づくり」ともいわれる。先人が大岩を(のみの一打ちひと打ちで、いや、そうした表現が許されないような精根を尽きさぬ仕事で掘り(いていったように、遅々たる歩みであっても、世界かんがい施設遺産登録を契機に地域は変貌を着実に遂げている。


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