土屋信行 著

『首都水没』

『首都水没』表紙

 タイトルは、かなりセンセーショナルだ。本書のような新書に限らず、著者よりも、むしろ担当の編集者が、少しでも読者の関心を引くようなタイトルを考え出すのであろう。しかし、本書を読み進むにつれて、このタイトルは読者の不安を徒らに(あおるために、付されたものではないと思えてくる。

 ちなみに、表紙カバー見返しの「本書要約」を示せば、以下の通りである。
 ─ゼロメートル地帯が4割を占め、多数の地下鉄が走る東京は、きわめて水害に弱い構造である。仮に利根川で氾濫が起きれば、浸水区域内人口約230万人、死者約6300人という膨大な数になると予想されるのだ。首都水没、驚愕のシミュレーション!─


洪水対策の視点からみた東京の特徴

 著者は、明治以前と明治以降とでは、災害への対処方法が違うと主張する。それでは、どのように違うのか。明治以前は「危ないことは避けること」が可能であったのに対し、明治以降は「逃げることではなく、その地に住み続けることを前提に、災害を回避することを目指してきました」と述べている。

 いい換えると、明治以前ならば、一度大きな災害があったところに住まないようにすることが可能であったが、明治以降では、一度災害にあったからといって遷都という途を選ぶことができず、同じ場所で災害対策を講じてきたという。そして、「現代社会は都市を移転させるのではなく現位置における復興を選択せざるを得ないほど、都市機能を集積させてしまった」と述べる。

 もともと東京は、山の手と呼ばれる古い地質の洪積台地から、下町と呼ばれる沖積低地に、河川によって運ばれた土砂が緩く堆積してできた地質構造を有している。このことから、下町は、もともと洪水に対して脆弱(ぜいじゃくであるという宿命を持っている。

 さらに、その脆弱性は、経済活動の集中によって高められている。たとえば、その端的な例として、戦後から高度経済成長期に経験した地下水の汲み上げによる、地盤沈下の進行が挙げられる。現在では、あまり耳にしなくなった「東京ゼロメートル地帯」の広がりは、洪水対策を考えるうえで大きな要因となる。

 本書によれば、干潮になっても水が引かない地帯が31.5平方キロ、満潮になると水没する地帯が92.8平方キロ、そして高潮災害が起こると水没する地域が周囲に広がっていて、これらを全て合わせると254.6平方キロとなり、これは23区の41%にもなるという。


地下鉄洪水の被害予測

 都市へのインフラ投資の継続によって、市民生活や経済活動が高度化する一方で、災害に対する脆弱性は大きくならざるを得ない。その一つの例として、地下鉄が挙げられる。

 東京で生活する人にとって、地下鉄のない日常生活は考えられない。それこそ空気のように、あって当たり前の移動手段である。本書では、中央防災会議が行った地下鉄水没のシミュレーションを丁寧に説明している。

 それによれば、荒川放水路の右岸のある地点(東京都北区志茂地先)で堤防が決壊した場合、決壊11分後には、決壊地点から700m離れた東京メトロ南北線の赤羽岩淵駅に到達。そして、堤防決壊後6時間で西日暮里など6駅、9時間で上野駅など23駅、12時間で東京・大手町駅など66駅、15時間で銀座・霞ヶ関・赤坂・六本木など89駅が浸水する。

 そして、最終的には、17路線97駅、延長約147kmが水没することになる。仮に、このような事態になれば、都市機能は全く麻痺してしまうであろう。


非常にもろいカミソリ堤防

 人や経済活動が集中している地域で、いったん堤防が決壊してしまえば、その被害が甚大であることは容易に分かる。そうであればこそ、堤防をより丈夫なものにし、維持管理をしていくことは当然である。そして、今後、予想される気候変動による洪水の激化や海面上昇に対応するためには、堤防をより高くする検討も必要になる。

 堤防の造築素材として望ましいのは、コンクリートよりも土である。なぜならば、コンクリートの耐用年数は50年であるのに対し、土を素材とした堤防ならば、半永久的な耐用年数を有するからである。しかしここでも、都市ならではの問題がある。土を素材として堤防を造築するためには、土が安定する断面となるように盛り土する必要がある(「安息角」)。その土質工学的に望ましい断面で築堤しようとすると、幅広い用地を取得することが必要であるが、都市部においては、これは非常に困難である。そこで、次善の策として、いわば仕方なくコンクリートで堤防を造築してきた。

 前述の通り、コンクリートの耐用年数は約50年。さらに、コンクリート堤防に必ず設ける「つなぎ目(目地)」は、ゴムやアスファルトで造られているため、耐用年数はコンクリートよりもさらに短い。このために、維持管理に手間がかかることになる。


気候変動によって、果たして、海面は0.82m上昇するのか?

 気候変動・地球温暖化の影響も、洪水や高潮対策を検討するうえでは、重要な要素となってきている。まず、水害に関する気候変動による影響予測はどのようなものか。以下の引用は、IPCC(気候変動に関する政府間パネル)第5次評価報告書の予測に基づいた、我が国政府の認識である。

 「洪水については、A1Bシナリオ(1980〜1999年平均を基準とした長期(2090〜2099年)の変化量が1.7〜4.4℃(最良推定値2.8℃))によれば、洪水を起こしうる大雨事象が日本の代表的な河川流域において今世紀末には現在に比べて有意に増加し、同じ頻度の降雨量が1〜3割のオーダーで増加することについて、多くの文献で見解が一致している。」(「気候変動の影響への適応計画、平成27年11月27日 閣議決定」)

 また、高潮・高波については、「海面上昇について、1986〜2005年平均を基準とした、2081〜2100年平均の世界平均海面水位の上昇は、RCP(Representative Concentration Pathways:代表的濃度経路)2.6シナリオで0.26〜0.55m、RCP4.5シナリオで0.32〜0.63m、RCP6.0シナリオで0.33〜0.63m、RCP8.5シナリオで0.45〜0.82mの範囲となる可能性が高いとされており、温室効果ガスの排出を抑えた場合でも一定の海面上昇は免れない。」(引用、同)となっている。

 さて、上の閣議決定の影響予測部分を要約すると「色々と海面上昇の予測値はあるが、その範囲は0.26〜0.82mの間である」となる。この要約だけを見ると、「0.82mの海面上昇を見込んで、全ての施設を嵩上げして整備しよう」といいたくなる。
 ところが、気候変動適応策を考えるうえでは、それだけでは十分ではない。たしかに、0.82mは予測値の最大値ではあるが、その予測値を算出するために置いた前提(シナリオ)は、数多くあるうちの一つに過ぎないからである。本書においても、「0.82m上昇」の記述はあるが、この値が多数あるシナリオのうちの一つから導かれたものであることの丁寧な言及はない。

 0.82mという「数字が一人歩き」するのは、望ましいことではない。そして、これまで防災施設整備の基準となる数値(たとえば、堤防の高さ)を変えることになれば、それにともなう諸々の計画の見直しや、嵩上げなどの工事に要する財源は膨大なものとなることはもちろんである。

 であるからこそ、上述した海面上昇の将来予測に対して、閣議決定では適応策の基本的考え方を次のように記載している。

 「堤外地及びその背後地の社会経済活動や土地利用を勘案しつつ、軽減すべきリスクの優先度に応じ、…(中略)…ハード・ソフトの適応策を最適な組み合わせで戦略的かつ順応的に推進することで、堤外地・堤内地における高潮等のリスク増大の抑制、及び港湾活動の維持を図る。」

 また、同じく水害については以下の通りである。

 「比較的発生頻度の高い外力に対しては、これまで進めてきている堤防や洪水調節施設、下水道等の整備を引き続き着実に進めるとともに、適切に維持管理・更新を行う。これらにより、水災害の発生を着実に防止することを目指す。その際には、諸外国の施策も参考にして、気候変動による将来の外力の増大の可能性も考慮し、できるだけ手戻りがなく追加の対策を講ずることができる順応的な整備・維持管理等を進める。」

 霞ヶ関文学の見本のように読めるかもしれないが、予測値に対応できるように、これまでの基準を見直して施設の機能水準を上げる、とは言明していないことが重要である。この閣議決定は、ホームページから容易にダウンロードできるので、関心のある方は本書と合わせて一読することをお勧めする。

国立研究開発法人 国際農林水産業研究センター(JIRCAS)
農村開発領域 領域長 藤原信好

*文春新書(本体価格) 760円

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