ダイズが歩んだ道

豊年製油株式会社(現・J-オイルミルズ)元取締役中央研究所所長
一般財団法人 杉山産業化学研究所 元研究所長 加藤 昇

1.ダイズの日本史

 ダイズの祖先はツルマメであり、今も日本各地の野原で見かけることができる。ツルマメから変化した初期のダイズは、中国をはじめとする東アジアのいたるところで発見されていて、日本で生まれたダイズも、近年のDNA分析によって確認されている。我が国に残されている記録において、ダイズが最初に登場するのは大宝律令(701)である。ここにはダイズを原料とする「(ひしお)」などの記録があり、すでに飛鳥時代(664-939)から、ダイズは民衆にとって重要な穀物であったことがうかがわれる。

 では、遺跡などの出土品から、我が国のダイズの歴史はどこまで遡ることができるのか。現在、最も古いとされるのが山梨県北杜(ほくと)市にある酒呑場(さけのみば)遺跡から出土した縄文時代中期の土器に見られるダイズであり、約5000年前のものとされている。このことから、我が国では縄文時代中期には、日本の中部地方か西関東あたりでダイズの栽培が始められ、その後、西日本へ拡散していった可能性が高いと考えられている。この時代に続く弥生時代前期のものとしては山口県宮原遺跡から、弥生時代後期の静岡県井場遺跡・滝川遺跡、さらには群馬県の八崎遺跡、千葉県阿玉台北遺跡からダイズの出土が続いている。

 そして、これらの遺跡からはコメがダイズと共に出土するようになる。この両者の出土比率は九州周辺地域では弥生前・中期でほぼ同等であったのに対し、西日本地域では弥生中期に、東日本地域では弥生時代後期から古墳時代にかけて、同等になっている。この頃から、我が国ではコメとダイズを主要な穀物として、栽培し始めていたと考えることができよう。


2.海を渡ったダイズ

 次に現代のダイズ大国アメリカに、ダイズが持ち込まれた経緯をみる。イギリスの船乗りボーエン(Samuel Bowen)が1758年に東インド会社からの依頼を受けて、交易を開くため中国に向かった。しかし、中国の皇帝は外国からの侵略を恐れて彼を拘束し、4年間の投獄の後に釈放したことが、中国の記録に残されている。釈放後、イギリスに引き返して、航海依頼主から相応の報酬を受けて、64年にアメリカのジョージア州サバンナに移住する。その時、彼は中国から持ち帰ったダイズをアメリカに持ち込み、税関長のヨング(Henry Yonge)にダイズを栽培するよう持ちかけている。翌65年、ヨングは自分の農場にダイズを栽培するが、これがアメリカにおける最初のダイズの栽培であろう。ボーエンはダイズを新大陸に導入したことにより、イギリス政府から表彰されている。

 記録によれば、ボーエンは1766年から9年間に亘って、醤油(しょうゆ)やダイズ入りスパゲティなどを、イギリスに徐々に輸出している。彼がダイズを中国から持ち出し、アメリカで栽培しようとした理由は、発芽させたダイズが船員の壊血病予防に有効であるとの噂を、中国で聞いていたからであったと、後に手記で述べている。当時、船乗りたちにとって、壊血病は死を意味する恐ろしい病気であり、船乗りであった彼が、ダイズの噂に敏感であったことは容易に想像される。

 1851年、日本人漂流民を太平洋上で救助したアメリカの帆船オークランド号はそのままサンフランシスコに入港しているが、港で検疫をした医師は、彼らからダイズを贈られている。このダイズはその後、当時の農業委員会に相当するCommissioner of Patentsに渡された。いくつかの農事試験場で栽培試験が行われ、53年にその栽培報告が出されている。また、54年にペリー提督が日本から持ち帰った2種類のダイズも、やはりCommissioner of Patentsに提出されている。


3.アメリカでの本格的なダイズ栽培の開始

 前述のように、最初にダイズがアメリカに渡ったのはいくつかの偶然によるものであったが、これらを契機にして、アメリカ農務省は1898年に本格的にダイズ栽培に取り組み始める。しかし、いざ栽培を始めてみると、いくつかの障害に直面することになる。その一つは、アメリカの土壌には満州や日本のような根粒バクテリアが存在せず、そのことがダイズ育成の大きな壁となった。

 そこで、当時の研究者たちが考えたのが、人工培養の土壌バクテリアをダイズ種子にまぶしてから、播種するという方法である。こうすれば、ダイズの根に根粒バクテリアが付着して、生育状態が改善されるというものである。それまでは、ダイズを栽培した農場の土を、次の年に他の農場まで運ぶという方法で土壌バクテリアを広めつつ、栽培面積を広げていったので、遅々として進まなかったが、この新たな方法により、作付面積は急速に拡大していった。

 20世紀に入って、アメリカのダイズへの取組は、一段と積極的に展開されることになる。農民は、新たに導入されたダイズに大きな期待をかけていた。当初は、コムギなどの輪作の一環として取り入れ、「農地の地力の改善」「輪作障害の回避」「農作業の季節的分散化」などを目的としたものであったが、ダイズの「高たんぱく・高脂肪」という特徴が認識されるにしたがって、商品作物として重要な地位を占めるようになっていった。同国におけるダイズ搾油は、すでに日本が満州で取り組んでから、約20年遅れてのスタートとなった。このようにダイズ油の自国生産へと向かう契機となったのは、ヨーロッパや日本でダイズ搾油が活発に行われていることを知ったこと、および1921年にダイズ製品の輸入に関税が課せられることになったことである。

 1922年にはイリノイ州ディケーターでステーレー社(A.E. Staley Co.)がエキスペラー(連続式圧搾機)によって、ダイズ搾油を始めている。これが、アメリカにおける大手企業のダイズ搾油事業参入のスタートとなった。続いてアーチャー・ダニエルズ・ミッドランド社、セントラル・ソーヤ社、ラルストン・ピュリナー社、スペンサー・ケロッグ社など、その後のダイズ搾油業を代表する企業が顔をそろえることになる。こうしてダイズ生産が急速に拡大し、36年にはドイツを抜き、42年にはついに満州を抜いて世界第1位となり、第2次世界大戦が終わった45年からダイズを輸出し始め、急速に輸出量を拡大して現在に至っている。


4.ヨーロッパへ向かったダイズ

 ヨーロッパへダイズが紹介されたのはアメリカよりも早く、17世紀にはすでにダイズが認識されつつあった。1603年に出版された日本イエズス会編集『日葡(ポルトガル)辞典』には、ダイズ・味噌(みそ)・醤油について記載されていて、これがヨーロッパへダイズが紹介された最初とされている。

 1670年代には、東インド諸島からイギリスやオランダに向けた輸出品のなかに、ダイズが記載されている。さらに、91年から92年にかけて、日本に滞在していたドイツの植物学者ケンペル(Engelbert Kaempfer :1651-1716)が日本の植物について、帰国後の1712年に『廻国奇観』を出版し紹介しているが、そこでダイズとその加工品も詳細に記載している。彼は長崎出島の医師として滞在して、その間に江戸にも出府している。  

 この時代、ケンペルと同様に日本の植物をヨーロッパに紹介している人物として、スウェーデンの植物学者ツェンベリー(Carl Peter Thunberg:1743-1828)やドイツのシーボルト(Philipp Franz Balthasar von Siebold:1796-1866)が挙げられる。シーボルトはオランダ商館の医師として来日し、帰国後ミュンヘンの王宮庭園で日本を紹介する展覧会を開き、そこでダイズなどを紹介している。

 20世紀に入ってからのダイズに対する取組は、ドイツがもっとも積極的であった。1908年頃になると、ドイツは大量のダイズを満州から輸入し始めている。満州ダイズはハンブルグに陸揚げされ、そこで搾油作業が行われていた。1928年には、オーストリアのラーヅロー博士(Dr. Laazlo, Ladislaus Berczeller)が、食用を目的としたダイズ全粒粉Edelsojaを開発して、ドイツに紹介するとともに、その料理本を出版して市民も知るところとなる。

 1931年になると、ドイツにダイズ搾油工場が次々と出現するようになり、年間24万6000トンの処理量に達するものもあった。こうして、33年には世界最大のダイズ輸入国となる。自国でもダイズ栽培が試みられたが、ダイズは登熟までに150日を要し、高緯度の北ヨーロッパでは日照時間が不足していた。ナチスドイツ軍は戦争の気配が濃厚になるにしたがい、海路での輸入や満州からのシベリア鉄道での託送に依存することのリスクを認識するようになり、ルーマニアをはじめとするバルカン諸国でのダイズ栽培を積極的に推進するようになる。この国策を具体的に展開したのが、当時の世界において有数の規模を誇っていた軍需産業であるIG・ファルベン社であった。同社はルーマニアにダイズ種子を持ち込み、同国のダイズ関連企業がこれに協力し、栽培可能な村々の小農に種子と根粒バクテリアを配布して、栽培方法も指導した。


5.満鉄で飛躍したダイズ

 日露戦争はロシアの実質的には降伏ともいえる講和で幕を下ろし、1906年(明治39年)に「南満州鉄道株式会社」(満鉄)が設立される。満鉄は鉄道事業の収益性を維持するために、鉄道沿線に豊富に栽培されていたダイズの輸送を事業の主体とした。当時の満州ではダイズは数少ない商品作物とされ、その生産量の8割以上が商品として輸送されていた。記録によれば、満州の貿易額の5割以上をダイズが占め、昭和初期には400万トン超の輸出が続くほどの主要な商品作物となっている。

 鉄道網の拡大はダイズの商品化をさらに促進し、「ダイズ作付地の拡大」「生産量の増大」を推進していった。満鉄は大連に「農事試験場」と「中央試験所」を建設し、ダイズ研究に取り組み、ダイズの価値を高めることに注力した。「農事試験場」では品種改良や栽培試験を、「中央試験所」では利用研究を進め、近代的なダイズ研究のスタートをきった。

 このほかに満鉄中央試験所が成功させた成果として、ダイズのたんぱく質の高度利用を目的とした研究で、「たんぱく質人造繊維・水性塗料・速醸醤油製造法」の技術展開などが挙げられる。ダイズ油の利用研究では、「ダイズ硬化油・脂肪酸とグリセリン製造法・レシチンの製造法・ビタミンBの製造法」などを確立していた。また、当時は「石油の一滴は血の一滴」といわれた第2次世界大戦の直前の日本であり、燃料油の開発は国家的緊急課題であったために、ダイズ油を原料とするバイオ燃料の研究にも取り組んでいた。彼らが開発したこれらの技術を、戦後に継承して発展を遂げた日本企業は枚挙に暇がない。満鉄は、日本の敗戦によって消滅するが、そのおよそ30年間に行ったダイズ研究が、日本産業の近代化に大きく貢献したことは広く認められている。


6.中国ダイズの変遷

 中国では、農家で収穫されたダイズは「糧桟」と呼ばれる穀物問屋が買い集めて、各地の「油房」と呼ばれる圧搾工場で油と粕に加工された。日清戦争後、日本の商社が進出して、これらを買い集めて日本やヨーロッパに輸出し、20世紀になるとヨーロッパの商社も加わり、油房は満州のもっとも重要な産業に発展していった。進出した日本商社は満州ダイズをほぼ独占的に買占め、ダイズ油やダイズ油から作ったマーガリンをヨーロッパ諸国に輸出し、粕は日本で肥料として販売することにより事業を拡大し、満州ダイズは国際商品として大きく発展する。1870年代のダイズ3品(ダイズ・ダイズ油・ダイズ粕)の輸出量は276万2000トンであったが、1920年代になると613万9000トンと飛躍し、満州ダイズは世界経済に華々しくデビューしていった。

 しかし、敗戦によって日本が満州から撤退すると、中国では糧桟のなかに官憲と密接な関係を持つ「官商筋糧桟」と呼ばれる組織が現れ、満州ダイズは官憲筋糧桟による買占めに始まり、輸出事業への進出など、ダイズ流通機構を全面的に掌握しようとする動きへと変わっていった。外国商社の締め出しといった閉鎖的展開もあり、1942年にアメリカが満州を抜いてダイズ生産量世界1位になって以降、世界のダイズの舞台は満州からアメリカに移っていくことになる。日本のダイズ輸入も戦前は満州を中心としていたが、戦後はアメリカに代わっていった。


7.第1次世界大戦前後のダイズ産業

 ヨーロッパでは棉実を油脂原料として輸入していたが供給不安定となり、代わる油脂原料として満州ダイズに注目が集まり、20世紀初頭にイギリスに満州ダイズが初めて輸出された。ドイツもダイズの価値に注目して新しい搾油技術の開発に着手し、大量のダイズを満州から輸入するようになり、ダイズ産業の舞台はイギリスから同国へと移る。日本が満鉄を通じて近代的搾油技術を導入したのは、この頃に開発されたドイツ技術に基づいたものである。ヨーロッパでのドイツとアジアでの日本が、近代的ダイズ産業の世界の2大拠点となった。

 しかし、第1次世界大戦が終わるとイギリスもドイツも搾油産業が壊滅的な打撃を受け、満州からダイズ油を輸入せざるを得ない状況になっていた。一方、第1次世界大戦勃発によって、ダイズ油をヨーロッパから輸入できなくなったアメリカは、日本と満州からダイズ油を輸入せざるを得なくなる。こうした特需によって、日本のダイズ搾油産業が急速に発展した。日本はドイツに代わって、アメリカのダイズ油需要に応えていったのである。

 一方、ドイツ政府はダイズ搾油産業を戦後復興の重要産業と位置づけ、国内のダイズ搾油産業を保護したために急速に回復し、1932年にはダイズ油生産量18万8000トンとピークに達し、ヨーロッパ諸国やアメリカに輸出し、第2位の日本を引き離して、ダイズの輸入量・搾油量ともに世界1位となった。アメリカは日本や満州からダイズ原油を輸入して、国内で精製していたが、1930年代に入り、国内のダイズ生産が増大するにつれ、国産ダイズ保護のためにダイズ輸入に高関税を課す。そして、前述のように42年には満州を抜き、世界最大のダイズ生産国に躍り出る。


8.第2次世界大戦で飛躍するアメリカのダイズ

 1930年代のアメリカのダイズ搾油業の躍進は、第2次世界大戦の勃発により、さらに前進する。戦争当事国である日本(満州)からのダイズ油輸入が止まるだけではなく、日本が制海権を握っていた南アジアからのパーム油とヤシ油の輸入も閉ざされることになった。これらは、アメリカの輸入油脂の3分の2を占めていた。

 1941年12月、真珠湾攻撃によって日米開戦となるが、翌42年にアメリカ農務省は「ダイズと戦争:勝利のためにダイズを増産してもらいたい」というビラを全米農家に配布した。「合衆国連邦政府は、戦争に勝利するためダイズ油を必要としている。極東の戦争で輸入が途絶えた10億ポンド(約45万トン)の油脂を賄わねばならない。同時に、我が同盟国は10億ポンド以上の油脂を今年中に送るよう要請してきた。これだけの増産をするためには、ダイズの作付面積を拡大してもらいたい。昨年は600万エーカー(約243万ha)だったが、それを900万エーカーに、できることならば1000万エーカーにしてもらえないだろうか。ダイズ油がどのように役立つかって?大半は食用に充てられる。そして、さまざまな兵器を錆から護る塗料や油性ニスにも大量に回される。石鹸にもなる。もちろん、そのような訳でダイズは重要な戦略物資だから価格支持も約束する。今でも、かつてない高値だし、ここ数年の平均の2倍近い水準になっている」との呼びかけに、ダイズ生産農民は敏感に反応して、作付面積の拡大は期待を超える規模になり、ダイズ油の生産量は62%増となった。

 1945年、第2次世界大戦が連合国軍の勝利で終結したが、アメリカのダイズ生産者には戦時の特需に対応した増産体制が本質的に生産過剰をもたらすという悲観論、ヨーロッパや日本は基本的に食料不足で大きな市場になるという楽観論とがあった。朝鮮戦争が休戦になると、農務省はダイズ生産者の組合であるアメリカ大豆協会(2013年からアメリカ大豆輸出協会と改称)と共に、海外市場開拓に積極的に取り組み、1955年10月にはアジア市場の調査が行われ、「日本は極めて有望な潜在市場」であると報告された。

 翌56年4月、同協会の初めての海外事務所が東京に開設された。ダイズ油と食肉(ダイズケークと呼ばれるダイズの絞りかすで飼養される)の消費拡大が展開され、58年には日本はアメリカ産ダイズの世界最大の輸入国になった。もちろん、市場拡大の努力は世界で展開され、たとえばヨーロッパ市場調査は、大戦終結まもない48年に、アメリカ大豆協会の当時の会長が私費を投じて自ら赴いている。こうした拡大戦略に支えられた、その後のアメリカダイズの増産は周知の通りであり、2015年現在、その作付面積は3300万ha、生産量は1億600万トンに達し、輸出量も4800万トンと世界第1位のダイズ王国を誇っている(国内での搾油向けの使用が多く、輸出量ではブラジルに次ぐ4800万トンである)。

 一方、第2次世界大戦中のドイツ軍にとって、ダイズは重要軍事物資としての役割を果たしていた。ダイズ粉は重要な栄養源であり、当時のロンドン・タイムズもダイズを「肉の代用となる魔法の豆」としている。ドイツはダイズ供給先を満州依存から分散するため、前述のように東ヨーロッパ諸国での生産に力を注いだ。たとえば、第2時世界大戦の直前にはルーマニアでダイズを栽培し、それを輸入していた。しかし、これら地域からのダイズの栽培も、1940年の13万6900haをピークに下降線をたどる。大戦が進むと搾油産業は壊滅状態になり、49年まで立ち直れなかった。満州ダイズも日本の敗戦によって崩壊し、世界のダイズはアメリカ独壇場の時代が始まる。


9.現代のダイズ地図

 今日、世界はダイズ輸出国と輸入国に極端に分かれている。2015年の世界のダイズ生産量は3億1320万トンであり、その83%をアメリカ・ブラジル・アルゼンチンの3国で占めている。輸出量も、この3国で世界の約9割を占めている。一方、輸入国では中国が突出して全輸出量の63%を占め、EU27か国11%、メキシコ3%、日本2%と続く。まさに世界のダイズ地図は、3大生産国と巨大な中国という輸入国によって展開している

 ダイズが商品作物として世界に登場してきたのは満州ダイズがその幕開けであり、それを演出したのは満鉄と日本商社であった。しかし、満鉄の撤退後、満州ダイズは発展できず、主役はアメリカダイズに移っていった。このアメリカを追っているのが、ブラジルとアルゼンチンである。そして、それらのダイズを買い集めているのが、かつてのダイズ王国であった中国という皮肉な姿となっている。

 ダイズは20世紀に誕生した遺伝子組み換え技術を活用して、世界規模で作付面積を飛躍的に拡大している。かつては満州など冷涼地を適地としていたが、いまや熱帯のアマゾン流域やアフリカにまで生産地を広げている。半世紀前の1964年には世界のダイズ作付面積は2500万haにすぎなかったが、2015年には1億2000万haと4.8倍にまで拡大している。今後、ダイズの品質面での機能性などを高めながら、さらなるダイズ新時代へと向かっていくであろう。


<参考文献>
菊池一徳, 『大豆産業の歩み その輝ける奇跡』, 光琳社出版, 1994
石田武彦, 中国東北における糧棧の動向:満州事変前における, 北海道大學經濟學研究 = THE ECONOMIC STUDIES, 24(1): 141-194, 1974
日本植物油協会, 植物油INFORMATION 第87号
T. Hymowitz, J. R. Harlan, Introduction of soybean to North America by Samuel Bowen in 1765, Economic Botany, Volume 37, Issue 4, pp 371–379, The New York Botanical Garden Press, October 1983
Compiled by William Shurtleff & Akiko Aoyagi, HISTORY OF SOYBEAN CRUSHING - SOY OIL AND SOYBEAN MEAL (980-2016):EXTENSIVELY ANNOTATED BIBLIOGRAPHY AND SOURCEBOOK, Soyinfo Center, 2016
Compiled by William Shurtleff & Akiko Aoyagi, HISTORY OF SOYBEANS AND SOYFOODS IN GERMANY (1712-2016), 2nd ed.: EXTENSIVELY ANNOTATED BIBLIOGRAPHY AND SOURCEBOOK, Soyinfo Center, 2016

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