原 洋之介 著

『アジアの「農」 日本の「農」』
  ─ グローバル資本主義と比較農業論 ─

『アジアの「農」 日本の「農」』表紙

 わが国の食料自給率は、昭和40年にカロリーベースで73%であったものが、年々減少傾向を示し、近年では平成22年以降、4年続けて40%を下回っている。食料の多くを輸入に頼る一方、海外の低価格な農産物によって、わが国の農業を衰退させてはならず、環太平洋パートナーシップ(TPP)協定交渉では輸入農産物の関税について議論が続いている。

 本書の著者・原洋之介は、わが国の農業について、農業規模の零細性、世界市場価格より高い農産物価格、そして低い食料自給率など、その特殊性を指摘している。そして、そもそも「農」は国や地域によって多様なものであるとして、自らの調査・見聞と既往の文献にもとづき、モンスーンアジア諸国の「農」の特性とその成り立ちを読み解き、さらには資本主義経済との関わりについて考察している。


 原は、「農業を外から動かす力としての資本主義・開発経済を解明する経済理論と、生態・土地・人口の変化に応じた歴史的変化を探る農業動態論を組合せた経済史モデル」を用いて分析し、東南アジアの水田農業を大きく2つのタイプに区分している。ひとつは歴史の古い時代から開発され、共同体的な慣習や画然とした村落領域ができ上がっていて、資本主義とは親和的ではない農業である。本書で紹介されるベトナムの紅河デルタ、インドネシアの中東部ジャワなどの稲作集落などがこれに当る。これらの地域は10世紀以前の東南アジア古代期に成立し、社会面での共同体意識が強く、前近代に灌漑施設などが建設されていて、人口密度が高い、第一次産品の輸出余力がない、1人当たり耕地面積が極端に狭小、自給的主穀生産が主流、などの特徴を有する。

 これに対し、もうひとつは、共同体的規制が希薄で個人志向が優先的であり、アメリカの農業発展にも似た資本主義に親和的な農業である。タイのチャオプラヤー・デルタ、ベトナムのメコン・デルタ、ミャンマーのエーヤーワディ・デルタなどのように、新しく開発され、人口密度が比較的に低く、第一次産品の輸出余力があり、国際市場に開放された地域である。これらの地域は、現在、世界のコメ輸出の拠点であり、タイとベトナムは世界の全輸出量の5割弱を占めている。一方、両国は、前述の紅河デルタや東北タイなどのように、デルタ地域とは異なる伝統的な農業形態・農村社会を有していて、それぞれの国のなかにおいてさえも一様ではない。


 東アジアの朝鮮半島および台湾の水田農業は、輸出を目的にした大規模開発、増産を行った点では上記の東南アジア諸国のデルタ開発と似るが、その成立過程は異なる。朝鮮半島では15〜16世紀の李氏朝鮮時代に山間平地帯の開発、西海岸地帯の干拓が行われ、水不足を補うための溜池(ためいけ)や取水堰が造られ、独自の農法、農村社会も発展していた。一方の台湾でも、17世紀初頭に漢人移入者により農地の開墾、水稲作が開始され、同時に中国式の土地所有制度が持ち込まれた。

 そこへ、朝鮮半島では20世紀初頭、台湾では19世紀末に日本の植民地政策が始まり、日本へのコメ輸出を目的に水稲作の改革が行われた。いずれの地域でも、日本の資本投入によって、土地改良事業が実施され、水利組合の設立が進められた。また、水稲品種に関しては、朝鮮半島では気候帯の類似した東北地方で栽培されていた品種が持ち込まれ、台湾では現地品種の改良による蓬莱米(ほうらいまい)が育種され、普及した。両地域では、日本の植民以前に小農制が存在していて、そのことによって、日本の稲作技術、品種が受け入れられたのでは、と考察されている。


 では、わが国の農業・農村はどのようにして成り立ち、どのような特徴を有するのだろうか。原は、昭和前期までを柳田國男の農政学、昭和後期以降は東畑精一の農業経済学を中心に、わが国の農業・農村の個性と変遷を読み解いている。わが国では、江戸時代初期の人口の増加に伴い、大地主の次男、三男への相続による土地の分与や、土地を借りて耕作する小作層の増加によって、小農化が進んだことを挙げている。一方で、農村内では、村の共有財産である入会地の存在や、ユイ(原文ママ。一般的には「結」と表記されている)などの共同労働や相互扶助、ハチブ(原文ママ。同じく、たとえば「村八分」)と称されるような強い相互制裁・相互規制などの、わが国の伝統的な農村の仕組みが生まれたとしている。

 これに対し、明治時代の地租改正以来「村の土地は村で利用する」といった旧来からの伝統的制度が崩壊し、さらに第二次大戦後、農地改革を経て登場した小規模自作農体制は、都市化や非農業経済の盛隆につれて、農業生産を主体とする家族経済から兼業農家へ変質した。零細規模経営の非効率性を克服し、自立経営を育成することを目指して農業構造改善事業が実施されたが、稲作においては依然として生産性向上の余地がほとんどない、零細規模の兼業農家が現在も多数存在し続けている。

 原は、「水田農業再建の鍵とは、農地を集積する農家への効率的な支援や耕作放棄を食い止める組織的な営農の育成である。零細分散錯圃(れいさいぶんさんさくほ)(評者注記;農家の1戸当たりの圃場(ほじょう)がきわめて狭小で、しかも分散した状態)の農場の再編のための新しい制度の構築や、農道・用水路の維持のための集落組織の再編もこれからの課題であろう。」と述べている。


 私の考えるところでは、これらの提言は、現在、わが国で進められている政策とも一致している。その一方で、すべての農家・農地がこの政策に対応でき得るわけではなく、大規模化される経営体と、中山間地などの小規模経営との間に格差が生じることが想定され、政策を進めるうえで慎重な対応が必要である。

 この問題は、国内にデルタの大規模経営と伝統的な小規模経営を抱えるモンスーンアジア諸国とも共通するものであろう。確かに、アジアの農業は多様であるが、その一方で、共通点も多数みられる。それらの国々と協調できること、またはわが国が貢献できることもあるのではないだろうか。その意味でも、各地域の農業の特徴と歴史を理解し、比較することは必要であり、わが国と周辺国の農業を経済・歴史の視点から読み解いた本書は、問題を考える契機となる良き参考書である。

独立行政法人 国際農林水産業研究センター
農村開発領域 研究員 池浦 弘

*書籍工房早山刊 本体価格=3300円

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