ザンビア西部に住むアンゴラ難民の
生計戦略と今後のアフリカ研究と
支援についての提言

東京外国語大学 アジア・アフリカ言語文化研究所
研究機関研究員 村尾 るみこ         

はじめに

 日本においてアフリカ研究を先導する日本アフリカ学会は、2014年に創立50周年を迎える。今日、学会には設立当時より多岐にわたる学問分野の研究者が加入し、幅広い領域での研究が展開されている。そして各研究においては、設立当時と異なり、「それぞれの分野でどういう関わりをアフリカと結んでいくか、自分のやっている研究が現実の諸問題とどう関わるかといったことを自問せざるを得ない状況(アフリカ学会創立記念40周年座談会編集部 2004)」にあるといわれる。
 他方、近年、日本で語られるアフリカの「現実」は、経済成長などによって躍進しているとするものが目立つ。だが、たとえば紛争が多発し長期化するアフリカの現状があり、そこで生起する諸問題を現地の実態から捉えてみると、上述のような楽観的なアフリカ理解であってよいのか、とまどうのも事実である。とくに、アフリカを対象とする研究や開発支援の各領域において、従来のアフリカ理解を再考するという未完の取り組みは、今日いかに進めることが可能であろうか。この小稿では、フィールドワークに基づく実証的な学際的研究から、アフリカの難民や農民といった枠組みでの従来の理解の再考について検討してみたい。

 アフリカにおいて、紛争から逃れた人びとが自立した生計をいかに営むかは、難民支援をはじめ開発支援の現場で焦眉の課題である。とくに今日、難民の発生によって国際機関やホスト国の経済的負担が過重となっていることが問題視されるなかで、支援を一切受けず、また難民認定のないままホスト国の農村部に定着する広義の難民の生計維持の在り方が大きな関心を集めている(Glooba-Mutebi 2004, Backewell 1999)。彼ら広義の難民は、難民認定を受けた人口の約4〜7倍と推計され(Hansen 1977)、一般的に広く注目される条約難民に比べてマジョリティである。広義の難民は、研究者や実務家らによって自主的定着難民ともよばれる。

 これまで、自主的定着難民については、新たな環境で親族関係を基盤とした互助的営みに依拠して、速やかに食料自給を達成し、成功的に生活再建を果たすことが指摘されてきた(ex. Hansen 1977)。他方、彼らは後からきた新参者であり、当該地域社会で社会的に優位でなければ、農業適地を必ずしも獲得できるとは限らない。とくに、小稿で取り上げるアンゴラから紛争を理由にザンビア西部へと移住した自主的定着難民・アンゴラ移住民は、ザンビア西部の社会的制約下で乾燥した土地に利用を限られるなかで、キャッサバ栽培を基礎とした生計を営んできた(村尾 2006 ; 2012)。

 アフリカでのキャッサバ栽培は、その多くが食用を目的としている。これは、主に工業的な用途を目的として栽培されるアジアと大きく異なる特徴である。新大陸からアフリカへと伝播したキャッサバは、地域間の交易を通して広まり、干ばつに強い作物として、また休閑期間が短縮され地力が低下した畑での救荒作物として、アフリカ各地で栽培されるようになった(Jones 1959)。小稿では、このキャッサバを主作物とする自主的定着難民・アンゴラ移住民が捻出したキャッサバ販売の実態を社会関係の維持に基づくキャッサバの確保に着目して明らかにし、その生計戦略の特徴を考察する。それを通じて、アフリカ農業・農民の食料生産面を、当該地域の環境に適応した合理的なものとして楽観的に捉える視点と、土地生産性の向上がみられない粗放で経済発展をもたらさないものとして悲観的に捉える視点との乖離(島田 2008, 池野 2010)という課題、および一面的なアフリカ難民理解の在り方にアプローチする。
 以下では、アンゴラ移住民やザンビア西部州の概要やキャッサバ販売の詳細を、これまでの24か月間にわたるフィールドワークで得た情報資料をもとに紹介していく。

1.アンゴラからの移住民の生計活動

 私がフィールドワークを行ったザンビア西部州は、首都から600km離れ、国内でも「辺境」に位置する(図1)。西部州の州面積はザンビアの国土面積75万2610km2の6分の1に相当する12万6000km2である。人口をみれば国の総人口1030万人のうち、西部州にはその8%に相当する78万を上回る人が居住し、人口密度が6人/ km2と国内で2番目に低い。また州人口の9割は、州都や県庁から離れて散在する村に住んでいる。

図1 ザンビアとLN村の位置
図1 ザンビアとLN村の位置

 ザンベジ川氾濫源の東岸に位置するLN村は、アンゴラ移住民が住んでいる村のひとつである。村の歴史は、1947年に十数人が生活適地を求めて移住したことに端を発している。その後、アンゴラ紛争から逃れた人びとも移住したため、2004年4月現在で79世帯289人が居住するまでに増加した。村びとは、バンツー系農耕民で、ンブンダ、ルチャジ、ルバレ、チョクエのいずれかの民族集団に属する。小稿で紹介する情報資料は、このLN村付近で収集したものである。

 LN村のアンゴラ移住民は、ザンベジ川氾濫原外延に広がる疎開林で、農耕や漁撈、採集、家禽の飼養、木材の切り出しなど、アンゴラでも行っていた生業を営む。しかし今日の生業形態は、移住後、彼らにかかるようになった制約によって強く影響されている。かつて、ザンベジ川氾濫原にはロジ王国が築かれていたが、植民地支配とザンビア独立を経てもなお、その王国組織が今日まで、この地域の資源利用を統率する体制が保たれている。そのため移住民は、氾濫原などの肥沃な低地を耕地や漁場、放牧地として占有しないよう、利用を制限されてきたのである。彼らは現在も、ロジの人びとが利用してこなかった疎開林の焼畑と屋敷畑で、農耕に特化した活動を余儀なくされている。そのうえ、疎開林には痩せた砂土が堆積するため、自給可能な栽培作物はキャッサバに限られている。

 またLN村付近は、首都から700kmも離れた辺境の地であるため、現金稼得の機会も限られる。たとえば男性の現金稼得には、村外で行う木材の切り出しや出稼ぎがある。また女性の場合には、県庁の公設市場で購入した嗅ぎタバコやトウモロコシの粉などを村内で小売りしたり、村で醸造した酒を販売することがある。しかし、どれも季節限定的である、元手がかかる、掛売りなどによる現金回収率が低いなどの理由により、安定して日銭を確保するには不都合な点が多い。そのため、この地域では、痩せた土地で収穫されるキャッサバが、自給可能な主食作物であるだけでなく、現金を得るための唯一の資源となっている。


2.ロンボの発案と販売の広がり

 アンゴラ移住民は移住直後から、主食作物や交換財としてキャッサバに生計を依存していた。1990年代以降になるとザンビアで構造調整政策が本格化するなか、国内で物価が高騰した。辺境にあるこの地域では、就労機会がさほど増加しないまま、この物価高騰の影響を受け、より安定的に現金を稼ぐ必要性が増大した。
 その後、1990年代後半に、LN村の隣村に住むある男性が、キャッサバを加工してロンボを発案し、販売するようになった(写真1)。ロンボとは、収穫後のキャッサバを3〜4日間水に浸して発酵させた後、皮ごとゆでて作る酸味のある軽食である。ロンボは皮さえむけば、歩きながらでも手軽に食べられるうえ、安価であるので、すぐに市場で人気の軽食となった。

写真1 ロンボを市場で販売する女性たち
写真1 ロンボを市場で販売する女性たち

 やがて、先のロンボを発案した男性をまねた人びとによって、ロンボ販売は近隣の市場などで急速に拡大していった。ロンボ販売の担い手は男性ではなく女性である。これはキャッサバの発酵・製粉および調理が従来女性の仕事であり、その延長としてロンボへの加工と販売が始まったためと説明される。そして今日、ロンボ販売による現金収入は、月に5回以上販売した場合に地方公務員の月給に相当するほどの高収入となった。ロンボ販売で得た現金は、動物性たんぱく質や日用品の購入のほか、農作業の労賃、学費、医療費など、移住民の生活全般を支えている。


3.モノの不足を補う居住集団

 ところが、ロンボ販売には大きな問題がある。それはロンボの材料となるキャッサバの不足である。以下では、アンゴラ移住民の社会組織を説明しながら、この不足について検討したい。
 アンゴラ移住民の社会では、3〜4世代の親族が共住する、リンボという居住集団が構成される(Oppen 1996)。リンボは、ンブンダやルチャジ、ルバレ、チョクエの社会で共通してみられる。移住民の社会は夫方居住婚で、リンボは基本的に母系親族と婚入した女性やその子供たちで構成される。しかし、その集団編成の在り方は大変ゆるやかで可変的である。

 LN村の場合、23のリンボが集まって1つの行政村を構成している。同じLN村内で異なるリンボに住む者同士が親族関係で結ばれていることもある。そしてこのリンボは、互助的に生計を営む単位となっている。しかし、個人間での土地や家畜といった財の相続はほとんどみられない。また焼畑の経営単位はたいてい個人で、それぞれの畑から収穫される作物は、夫婦であっても事前に承諾が求められるなど、個人のものとして認識されている。

 このリンボで特徴的なのが、メンバーの流動性が非常に高いことである。アンゴラ移住民たちは、リンボ間を頻繁に移動する。なかには、新たに生活適地を求めて転入・転出する者もいる。リンボ間の移動でとりわけ目立つのが、離婚と結婚を一生のうち2回、3回と繰り返す女性たちの存在である。この社会では、婚入した女性やその子供は女性の母方親族の住むリンボの成員と考えられていて、離婚すると母方親族が住むリンボに帰ることになっている。しかしアンゴラに母方親族が住む女性たちは、そのリンボへ行くことができないので、関係が遠くても受け入れてくれる親族を求めて移動を繰り返さざるをえない者もいる。実際、調査地では2004年からの3年間で、112人が転出し、133人が転入している。このうちの実に8割前後は、結婚や離婚を理由に移動した女性とその子供たちである。運搬などで労力のかかるロンボの売り子となるのは、初婚を迎える10代後半から離婚と再婚を繰り返す30代前半までの、まさに頻繁に移動する女性たちが中心となる。

 また、そうして女性があるリンボから移動する時は、耕地をそのリンボに返し、移動先のリンボで新たに耕地を得てキャッサバ耕作を開始することになっている。しかし、調査地でさかんに栽培されるキャッサバの品種は、収穫まで1年以上かかるため、移動後は自分のキャッサバが収穫できない状態となる。つまり、ロンボ販売の担い手である若い女性たちは、実質的には頻繁に、ロンボの材料となるキャッサバが不足するという状況に陥ってしまう。そのため女性たちは、キャッサバの不足を補うために、同一リンボ内外で頻繁にキャッサバのやりとりを行っている。


4.生計を支える居住集団の維持

 ここで、LN村でどのようにキャッサバがやりとりされるのかを検討する。表1は、あるリンボに住む女性のうち、2003年11月から9か月間にロンボを販売した全ての女性について、それぞれの販売回数と各回のキャッサバの入手先を示している。

表1 ロンボの販売回数と材料の入手先 (2003年11月より9か月間の全販売回数)
表1 ロンボの販売回数と材料の入手先 (2003年11月より9か月間の全販売回数)

 彼女たち8人は結婚や離婚を期に移動してきた者や、母方の親族の多くがアンゴラにいて、ザンビアにいる数少ない母方親族に身を寄せるために、近年、このリンボへきた女性である。主に若い女性がロンボ販売の担い手となることは前述したが、表の女性たちの年齢をみてみると、No.7のように、年長者であっても移動してきたばかりであれば、新たな生活に必要な現金を獲得するためロンボを販売する。そうして売り子となる女性たちは、自分の耕作するキャッサバだけでは十分な量が収穫できない場合に、同じリンボで父母や親族、さらには異なるリンボの親族や知人からも入手する。そうした入手先は、リンボ長とその妻など役職があるため比較的にリンボから動きにくく、広大な面積を有しているメンバーとなる。そのため、同じリンボのなかでも、数人の入手先が同じ人物に集中しがちとなる。たとえば表1のNo.1や2は、1の父親でかつ2の夫の父方親族にあたる同じ男性から入手している。また姉妹であるNo.3, 4, 6は母親から入手しているが、この母親は孫にあたるNo.4の娘5や、従妹にあたるNo.7とその娘8など比較的遠い関係の女性の入手先ともなっている。

 この一方で、全販売回数に占める割合は少ないが、表のNo.2, 3, 5, 6, 7のように異なるリンボの親族や友人たちからキャッサバを入手することもある。これらは、異なるリンボの親族から販売を依頼された場合、あるいは親族関係はなくとも親しくなった知人に自分から申し出て販売を請負った場合である。ただし、この8人の例でも示されるように、一般に異なるリンボからのみ入手することはない。

 販売後、女性たちはあらかじめ交渉した内容に沿って見返りのモノをやりとりする。同じリンボの者同士で売り上げ利益を配分する場合、利益は全て販売した女性のものになる。ただし、その後、自分が以前キャッサバの入手先とした人物から、その見返りとして販売を頼まれた場合は、全ての利益を渡す。同じリンボのなかでは、キャッサバを与えることに対して、見返りとなるモノの種類や数量などを取り決めることを厳密に求められているわけではなく、何かの形で返されたり返されなかったりと大変ゆるやかである。つまり、こうした同一リンボ内でのモノのやりとりは、いわゆる一般的互酬性の原則で行われる傾向にある。しかしながら、異なるリンボから入手したロンボを販売する場合は、現金や食事の材料、除草・収穫といった労働など、必ず初めに見返りの条件が取り決められる。

 こうした見返りをめぐるやりとりの違いは、同一リンボの者による、若い女性、または新参の女性への配慮によって生じる。それを知る女性たちは、少ない見返りでも許されたりする。ときには、見返り自体を免除されうる同一リンボの住人を入手先に選ぶ。
 にもかかわらず、女性たちが異なるリンボの者とやりとりを行う理由のひとつは、それが次善の策となっているからである。つまり、その時期に同じリンボのなかで収穫可能なキャッサバを耕作する者がいない女性たち、あるいは親族関係の近い者同士が優先的にやりとりするリンボ内で、新参者になりやすい女性たちは、キャッサバへのアクセスが困難となるのである。しかし、場合によっては、同一リンボにキャッサバを耕作する者がいるときでさえ、異なるリンボの者とやりとりをすることもある。それは移動性の高い女性たちが、何よりも、生活全般を支えるリンボという集団内での人間関係維持を目指すような思案を行うからである。同一リンボの者とでは、見返りがないままとなったり、見返りが少ないといった理由で、どうしても不満が生じてしまう。人間関係の安定していない新参の女性たちは、そうして生じた不満が高じて人間関係の不和につながり、やがてリンボを出て行かざるをえない状況に追い込まれることを回避するために、異なるリンボの居住者ともやりとりを行うのだ、と説明する。


おわりに

 アンゴラ移住民は、マクロな政治経済変動下で社会的に制約を受け続けてきた。キャッサバの不足に際しては、居住集団の関係維持を果たすため、集団内外の関係を通じてキャッサバを得ている。そうして移住民は、高収入を得ながら生計を維持しているのである。
 アンゴラ移住民の生計戦略を総じてみてみると、アフリカ農民がその経済活動において、より利潤を追求する合理的側面と、人間関係の維持を重んじるというアフリカ・モーラル・エコノミー的側面(杉村 2004)との2つが混合した戦略となっている。とくに、その混合した戦略が、痩せた土地で十分な収量が得られるといわれるキャッサバを唯一の資源として確保し、農業に依存した生計維持の限界を支えていることは注目に値する。

 以上、アンゴラ移住民の生計活動は、確かに自らの生計戦略によって、成功的なものとなっている。しかし一方で、彼らのキャッサバ栽培は現状では自給が可能であるが、休閑期間がないため、今後いずれは限界がくるものである。すなわち、アンゴラ移住民の生計活動は、アフリカ農民を楽観視するか、悲観的にみるかという2元論(島田 2008、 池野 2010)的視点で捉えられるものではなく、成功している面と限界という楽観的・悲観的側面の双方混ざった複雑な状態にあるのである。

 さらに、アンゴラ移住民の生計戦略からわかることは、彼らが難民化という脆弱な状況を克服し、自ら生活を再建するというある種楽観的な自主的定着難民像とは異なり、生計維持に困難を抱え続ける存在であることである。また、彼らの生計は、日本に住む私たちのそれと同様に、マクロな政治経済変動の影響を受け、時間が経過するごとに変化していることも事実である。

 以上、グローバルな政治経済変動が展開する21世紀において、日本に住む私たちが「アフリカ農民」「自主的定着難民」に対する従来の理解の枠組みが実態とずれていることを述べてきた。アフリカ理解を再構築するには、無論、今後のさらなる調査研究が必要である。しかし、そうしたアフリカ研究における積み重ねが、前世紀から今もなお残される、私たちとアフリカの人びとが「援助する側/される側」「研究(記述)する側/される側」にあるとする開発支援や研究の方法論的課題へ、改めて再考を迫ることへつながるのではないだろうか。さて、膨大な非条約難民は、どのような「支援」が受けられるのであろうか。


<日本語参考文献>
1) 池野旬『アフリカ農村と貧困削減─タンザニア 開発と遭遇する地域─』京都大学学術出版会. 2010
2) 島田周平『現代アフリカ農村─変化を読む地域研究の試み─』日本地理学会海外地域研究叢書6.古今書院. 2008
3) 杉村和彦『アフリカ農民の経済─組織原理の地域比較─』世界思想社. 2004
4) アフリカ学会創立記念40周年座談会編集部「日本アフリカ学会創立40周年記念座談会」アフリカ研究. Supplement. pp. 119-138. 2004.
5) 村尾るみこ『創造するアフリカ農民─紛争国周辺農村を生きる生計戦略』昭和堂. 2012.

<英文参考文献>
1) Backewell, Oliver. Returning Refugees or Migrating Villagers? Voluntary Repatriation Programmes in Africa Reconsidered, New Issues in Refugee Research, Working Paper No.15. Geneva:UNHCR. 1999.
2) Golooba-Mutebi, Frederik. Refugee Livelihoods Confronting Uncertainty and Responding to Adversity: Mozambican War Refugees in Limpopo Province, South Africa, New Issues in Refugee Researh. Working Paper No.105, Geneva:UNHCR. 2004.
3) Hansen, A. G. Once the Runnning Stops: The Socioeconomic Resettlement of Angolan Refugees (1966-1972) in Zambian Border Villages, Cornell University. Ph.D. 1977
4) Jones, William O. Manioc in Africa, Stanford University Press, Stanford. 1959.
5) Oppen, von A. Terms of Trade and Terms of Trust: The history and contexts of pre-colonial market production around the Upper Zambezi and Kasai、 Muenster, LIT Verlag. 1996.

前のページに戻る