柴田直治著

『バンコク燃ゆ』

 ──タックシンと「タイ式」民主主義──

『バンコク燃ゆ』表紙

 本書は、バンコクに4年間駐在した朝日新聞の記者が、在任中に見たタイの政治と社会の混乱を記録したものである。2010年4月に、反政府抗議活動の一環でバンコク中心部を占拠していた群衆を軍が強制排除した時の市街戦のような映像は、日本のテレビニュースでも何度も取り上げられたので、記憶されている方も多いと思う。この混乱を軸にして、本書ではタイの民主主義の歴史と現状、経済成長と中間層の登場、都市と農村の格差から生じる社会的な摩擦など、タイの社会を多角的に捉えている。また、本書では、この混乱を引き起こした原因を探ることに力点を置いている。さらに、タイの事情に加えて、近隣の東南アジア諸国での民主主義の状況にも言及している。

 タイの政治家、政党、軍、王室、そして、政府を支持する市民と反対する市民などの具体的な動向や力関係などは、本書を通読する必要があり、ここで紹介することは差し控えたい。なぜなら、今回の混乱に登場する登場人物の数が多いこと、およそ10年間にわたる政治闘争の過程で登場人物による合従連衡(がっしょうれんこう)が繰り返されてきたことなどから、簡単に要約することが難しいからである。しかし、これらの事情について、筆者は主要な登場人物に直接面談するなどして、彼らの行動や主張を平易な文章でまとめている。いわゆる「虫の目」で、ひとつひとつ関係者の動きを記述し、全体を通読することによって、読者が今回の混乱の概要を「鳥の目」で把握できるように工夫されている。また、このような混乱を見ることによって、タイの社会に内包されている大きな問題を、外国人である私たち日本人が知ることができるのである。

 現在のタイの1人当たりGDPは4000ドルを超え、中進国に分類される。近年、バンコクを訪れたことがある人ならご承知のように、市内の目抜き通りには超高層ビルが林立し、高級専門店が入るショッピングモールなどの豪華さは東京などとも遜色がない。この反面、バンコクと地方との経済格差は極めて大きく、東北部の1人当たり総生産はバンコクの1/8、また、北部は1/5となっている。

 このように経済成長を謳歌するバンコクを中心とする首都圏では、高等教育を受けたテクノラートや成功した自営業者などの中間層が徐々にその厚みを増し、高級官僚、高級軍人、また、規制業種における資本家などといった既得権益を享受してきた階層と新しく勃興してきた中間層との間で利害の衝突が生じている。

 また、首都圏と地方部の経済格差は、首都圏への人口の流入と農村の人口の流出をもたらしている。未だ公的な健康保険や高齢者の最低限の所得を補償する年金といった制度が機能していない社会状況のなかで、これらのセーフティネット機能は、従来から、大家族制に依存してきていた。しかし、地方部からの若年層を中心とする人口流出は大家族制を徐々に切り崩し、セーフティネット機能が弱体化してきている。このことが、政府からの公的支援を求める地方部の住民の声を大きくしていると、筆者は指摘している。

 昨年の争乱は、軍によって一応の正常化をみたが、タイ社会が抱える問題が解決されたものではない。これらの問題については、今後、政府によって対策が取られていくことになる。このなかで、主要な対策の一つとして、必ずや農村開発による地方部の住民の所得向上を目指すことが採用されると予想される。農業部門では、コメの生産拡大のための品種改良、低廉な肥料や農薬の供給、そして、灌漑施設の整備などが実施されるであろう。また、就業機会を拡大するための工業の導入や関連する社会資本整備などが、対策のメニューになるのではないだろうか。

 自然、歴史および文化など、わが国とタイでは多くの違いは存在するが、首都圏と地方部の経済格差の縮小を図る政策には、国によって大きな差違があるとは考えられず、わが国の経験をタイに伝えることは重要なことであろう。この場合、相手国の実情を可能な限り把握して、そのうえで、わが国の経験を両者で相互に評価するという努力が求められるのである。この点からも、本書はタイ社会を知ることにおいて貴重である。

 もう一つ指摘しておきたいことは、日本を含む「アジアの民主主義」に対する懐疑を、筆者が投げかけていることである。「アジア諸国は経済規模が拡大しても民主的なプロセスに向かない国々ではないのか(中略)経済発展すれば中間層が厚みを増し、民主化の旗手となる。そんな仮説は、タイで都市中間層が選挙による問題解決よりクーデターを支持したことであっけなく崩れた。欧米が中国やベトナムに期待する仮説でもあった。」との問いかけは重い。「アジア諸国の中間層は、開発と成長がもたらした消費社会の最大の享受者として、政治的には現状維持を支持する」という指摘は、「アジア諸国」を「タイ」と置き換えるだけでなく「日本」と置き換えても、なんら違和感がない。選挙によって成立した政権を軍が転覆させ、その後に成立した政権は選挙に負けることを恐れて、選挙による民意への問いかけから逃げ回るという現在のタイの政治情勢を見ると、軍の関与を別にすれば、わが国の政治情勢にも通じるところがあるといえよう。

 欧米の民主主義とは異なるアジアの民主主義が存続しえるものなのか、あるいは、欧米の民主主義が普遍性を持っていて、アジアの現状がそこへ向かう過渡期にあるのか、評者として判断する見識は有していない。しかし、地理的にも経済的にも、わが国と深い関係があるアジア諸国の社会を観察し理解しようとすることは、相手を知ることと同時に日本を考えることでもある。このような観点からも、本書は有益な示唆を与えてくれるのである。

日本水土総合研究所 総括技術監 河田直美

*めこん刊 本体価格2500円

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