エジプトにおける稲作をめぐる議論と
水利組合強化に対する取組み

国際協力機構(JICA)
エジプト水管理改善プロジェクト・フェーズ2 チーフアドバイザー 進藤惣治

1.はじめに
 エジプトでは、年率で2%の急激な人口の増加に加え、砂漠開拓を中心とした農地の拡大で水需要が急拡大している。一方で、水資源の大部分を賄うナイル川の利用可能水量は、スーダンとの2国間協定により年間555億立方メートルと規定されているほか、国土の大部分が砂漠のため、新たな水資源の開発にも制約がある。
 エジプト政府は2017年を目標年とする国家水資源計画を策定するとともに、水資源消費の8割以上を占める農業セクターにおいても、灌漑改善事業、農業排水の再利用、灌漑施設の改修などによる水資源利用の効率化を推進し、新たな需要に対しては農業用水の節水により、必要な水資源を創出することを計画している。同政府は、ドナーの支援を受けながら、水資源を適切に管理するために、水利組合の設立や末端水路の改修を含む灌漑改善事業を1980年代から実施し、水利組合に末端水管理の役割を担わせるための法律改正を含む施策を推進してきた。
 しかし、ドナーの資金援助による灌漑施設の整備は進んだものの、設立された水利組合の数は少なく、水利組合が十分に機能していない状況にある。このため、設立した水利組合の活動を促進、管理、評価、モニタリングし、新規の水利組合の設立を促進する行政組織である水資源灌漑省中央灌漑指導局(CDIAS)の能力強化の必要性が指摘されている。

2.農業用水利用の歴史的経緯と稲作
(1)エジプトの農業と農業用水利用
 本題に入る前に、エジプトの農業と農業用水の状況について簡単にまとめたい。
 エジプトの国土面積は、100万kmで日本の約2.65倍。ただし、国土の大半を砂漠が占めており、農地はナイル川流域を中心にした360万haである(『農業統計 1999〜2000』による)。地中海に近い北部ナイルデルタ地域では、冬場を中心に50〜300mmの降水量があるが、首都カイロでは20mm程度にすぎず、さらに南部の内陸部ではほとんど雨は降らない。したがって、灌漑なしには農業は成り立たない。
 古代の歴史家、ヘロドトスの「エジプトはナイルの賜物」という言葉とともに、ナイル川の洪水を利用した「ベイスン灌漑」は広く知られているところである。ただこれは、ヘロドトスが述べるように「河がひとりでに入ってきて、彼らの耕地を灌漑して、また引いていく」わけではなく、「ハウド」と呼ばれた「ベイスン」(くぼ地、流域)と「ジズル」(堤)を組み合わせ、水路や畑の傾斜を考慮した高度な灌漑技術で、洪水を効率よく利用するために水路が張り巡らされていたとのことである。
 ナイルの洪水は8月から10月にかけ、規則的に発生したため、エジプトの農業は元々小麦など冬作中心の農業であった。洪水が去った後、小麦の種をまき、春に収穫をする。
 19世紀以降、夏作の振興を目的として、ナイル川本川に堰建設が開始され、水不足を補う目的でアスワンダムも建設(1902年完成)された。こうした一連の施設建設により、河川の水位が低下する夏場でも取水可能となり、綿花などの夏作が振興された。さらに、エジプト革命後、人口増による水需要拡大への対応と産業の振興を図る目的で、アスワン・ハイダムを建設し(1970年完成)、現在に至っている。ハイダム完成で、伝統的なベイスン灌漑が姿を消し、通年灌漑農業に完全に移行した。
(2)エジプトの稲作
 エジプトでは、毎年のように夏になると農業用水の不足にみまわれる。農家は水資源を管轄している水資源灌漑省にダム放流量の増加を要請するのみならず、ときには農家同士が水をめぐって争うという事態に至る。こうしたことから、「稲作は水を使いすぎる」と、つねに批判の対象となっている。2008年8月には、農業土地・開拓大臣が、上エジプト地域(カイロ以南のナイル川上流地域)の稲作を2009年度から全面禁止する旨発表した。下流部のデルタ地域でも、水稲の作付制限を行っている状況である。
 エジプトのコメは日本と同様に水稲栽培であり、収益性が高いことから、作付面積は近年急激に増え1)、水不足の一因といわれている(表1)。政府によるコメの作付制限も守られていないのが実態である。水利用の調整も、現在、当プロジェクトのほか、欧米援助機関の協力で水利組合を育成し、水利調整ができるような体制を構築しようとしているところである。
 なお、エジプトのコメの単位収量は世界的に見ても最高水準といえるが、元をたどれば日本から1917年に導入されたものである。ヤバニという品種名のジャポニカ米がその起源といわれ、これを元に品種改良が進められた。「ヤバニ」はアラビア語で「日本」の意味である。

表1 エジプトにおけるコメと小麦の作付面積と収量
表1:エジプトにおけるコメと小麦の作付面積と収量

3.エジプトの水利組合と我が国の技術協力
(1)エジプトの水利組合
 エジプトの農業水利は、ナイル川に設置された堰を起点とする大規模な水路システムを構成している。図1はナイル川下流部デルタ地域の水路システム模式図である。水路は大きく分けて、幹線水路、支線水路、末端用水路(メスカ)、ほ場内水路(マルワ)に区分され、幹線・支線水路は政府が、メスカとマルワについては、農家と水利組合が管理している(図1)。

図1 ナイル川デルタ地域の灌漑用排水路システム模式図
図1 ナイル川デルタ地域の灌漑用排水路システム模式図

 また、この水路システムの管理のため、政府は、3層の水利組合の育成を急いでいる。すなわち、メスカレベルを管理するWUA(水利組合:Water User's Association)、支線水路(Branch Canal)を管理するBCWUA、それに灌漑区(District)を管轄するDWB(District Water Board)である(図2)。なお、現在、エジプト政府は支線水路以下を水利組合(BCWUA)に移管すべく灌漑排水法の改正を進めているが、現時点では国会審議中で、まだ成立のめどは立っていない。したがって、支線水路は依然として政府管理に置かれている。それぞれの水利組合の標準的な規模と役割は以下のとおりである。
(1)末端(メスカ)レベルの水利組合(WUA):
 メスカの支配面積は、おおむね50〜100フェダン程度(1フェダンは約0.4ヘクタール)、農家数は約20〜100戸である。メスカの施設は全てWUA所有であり、WUAは原則、組合員から資金を徴収し、メスカの施設の管理運営を行う。
(2)支線水路(Branch Canal)レベル(BCWUA):
 支配面積は、千〜数千フェダンに及ぶ。支線水路内の水利調整を実施。灌漑排水法の改正案(現在、国会で審議中)が成立し、法人格が付与されることを前提とすれば、将来的には、組合員から資金を徴収して支線水路内の施設の管理運営を行うことが期待されている。
(3)灌漑区(District)レベル(DWB):
 政府の定めた灌漑区ごとに設立される水利組合。灌漑区は、支線水路が5〜20本に加え、上水道・工業用水など他の水利用者も参加する。BCWUA同様法人格を持たないため、実体的な活動はまだ行われておらず、設立も全国で5か所にすぎない。

図2 エジプトの灌漑システムと各水路レベルの水利組合の関係
図2 エジプトの灌漑システムと各水路レベルの水利組合の関係

(2)我が国の協力の経緯
 冒頭に述べたとおり、エジプトは、農業用水利用の効率化を推進し、農業用水の節水により新たな水資源を生み出す計画としている。その手段として、水利施設の改修を行うとともに、水利組合を中心とした参加型水管理(PIM)2)の推進し、将来的にはその水利組合へ施設管理を移管(IMT)3)する計画である。
 こうした計画に対して、欧米援助機関は1980年代から協力を開始している。1990年代以降は、メスカの改修を支線水路単位で実施するとともに、WUAを束ねる形でBCWUAを設立している。用水の効率的利用を図りながら、BCWUAには、地域の水利調整、および将来的には、支線水路単位で施設管理を移管するとしている。
 しかし、これまでの結果をみると、上記の取組みは成功しているとはいえない。施設の建設に当たって、農家に対する事前説明が不十分であるほか、農家の合意形成も行われることなく、政府主導で事業が進められたため、WUAの設立は遅れ、WUA主導の水管理は機能していない(表2)。

表2 水利組合の設立実績と目標
表2 水利組合の設立実績と目標

 エジプトの水利組合設立・活動強化が難航するなかで、日本の土地改良区を中心とした参加型水管理は国際的にも評価が高く、エジプトにおいても先進事例として広く認識されている。こうしたことから、1996年、エジプト政府から日本に対し支援の要請が出された。ただ、エジプト政府の要請内容は、水管理改善から農村地域の環境改善まで含む幅広いものだったため、まずは、開発調査を実施し、事業計画を作成したうえで、本格的な事業を開始することとなった。これまでの我が国の支援は以下のとおりである。

(1)開発調査「中央デルタ農村地域水環境改善計画調査」(1997〜1999年)
 C/P4)機関:公共事業水資源省
 実施内容:マスタープランの作成、優先地区の選定、水利組合組織強化と灌漑施設の改善、水管理システムの改善を含んだパイロット事業を提案
(2)プロジェクト方式技術協力「ナイルデルタ水管理改善計画(WMIP5)
 (2000年3月〜2007年2月)
 C/P機関:水資源灌漑省灌漑改善局(IIS)
 実施内容:バハル・ヌール支線水路地区を対象に末端水路(メスカ)の改修支援と水利組合の組織化(メスカの改修事業自体は世界銀行の融資)
(3)技術協力プロジェクト
「水管理改善プロジェクト・フェーズ2(WMIP2)」
 (2008年6月〜2012年3月:予定)
 C/P機関:水資源灌漑省灌漑指導局
 実施内容:6か所のパイロットサイトにおいて、水利組合の組織強化・活動強化、水管理システムの改善、水利組合組織強化普及のための計画策定

4.水管理改善プロジェクト・フェーズ2(WMIP2)の展開
(1)プロジェクトの目標
 エジプト政府は、水利組合の育成と活動強化を図り、水利組合自身に灌漑システムを管理させることで、水不足の解決や利用効率の改善を図ることとしている。具体的には、灌漑区、支線水路、末端水路レベルの水利組合が全国的に組織され、経済的にも技術的にも自立した運営が行われ、かつ、効率的な水管理が行われることが最終的な目標となる。
(2)プロジェクト活動
 プロジェクトの目標は、「水利組合の設立・活動強化に向け、水資源灌漑省灌漑指導局スタッフの能力が強化される」ことである。具体的なアウトプットとして、以下の目標が設定されている。
・アウトプット1:パイロットサイト内で、各階層の水利組合が組織され活動する
・アウトプット2:水利組合強化の手法が開発される
・アウトプット3:水利組合強化に向けた組織が全国的に設立される
(3)プロジェクトの手法
 プロジェクトの目的をより実践的に解釈すると、「水利組合の強化により、地域における農業用水の問題を解決し、より効率的な水利用を図ること」にあると考えている。これまで水利組合の組織はあるものの、活動していないところが多いのは、活動が組合員たる農家の利益になっていないからである。したがって、プロジェクトとしては、水利組合自身が地域の問題を解決し農家から信頼を得ること、また、組合活動によって状況が改善すれば、農家にとっても活動参加のインセンティブになるものと考えた。
 WMIP2における活動の大きな流れは、図3に示すとおりで、1)水利組合(農家)や関係者の参加により問題を分析、2)これに基づいて、必要な学習・訓練の実施と問題解決のための計画作成を行い、3)最終的に、いくつかの問題について、解決を試行する。

図3 WMIP2の基本プロセス
図3 WMIP2の基本プロセス
注6 注7
出所:International Fertilizer Development Center [2007] The World Factbook

(4)プロジェクトの成果
 プロジェクトは、主たる目的を灌漑指導局の強化においており、当初は、カウンターパートと水利組合のトレーニングで終わる予定だったが、WMIP2プロジェクトとしては、可能なかぎり地域で、しかも水利組合を巻き込んで実践的な対応をとることが、プロジェクトの経験を残すことにつながると考えた。JRW(共同の施設補修)は、問題分析を行ったうえでの具体的な対策の一環として、政府と水利組合が共同で作業し、経験は政府職員のみならず、水利組合側にも残ることを期待した。
 これまでのプロジェクト活動によって、パイロットサイト内の水利組合の活動は強化されつつある。プロジェクトのPDMでは、活動の評価指標として、水管理計画・維持管理計画の策定と実施状況、維持管理費の徴収、水利紛争の状況などを数値評価することとしている。プロジェクトの成果は、終了時に、これら指標により評価されることになる。
 このほか、プロジェクトの活動によって、エジプトの大きな課題の一つである支線水路水利組合(BCWUA)による維持管理費の徴収問題に目途がつけられたことが大きいと自負している。

5.おわりに〜水の文化摩擦を乗り越えるために
 エジプトでは、「稲作は水を浪費する」ものと考えられている。水資源がかぎられたなかで、また、水不足が毎年のように発生するなかで、水田を見る目は厳しい。政府も躍起になって稲作の規制を強めている。稲作が水を浪費するという議論は、エジプトにかぎらず、国際的な場、たとえば経済協力開発機構(OECD)でもたびたび議論されてきた。このなかでは、「水に価格づけをし、経済的なインセンティブを付与」することによって、水の利用効率を上げられるという経済学的な視点から、議論が行われている。また、欧米各国はエジプトに対し、さまざまな形で政策アドバイザーを派遣し政策決定に影響を与えている。昨年行われた上エジプト地域での稲作全面禁止を進めたのも欧州某国の関係者だったとの情報もある(2010年8月22日付け産経新聞の記事参照)。
 稲作は水の浪費なのか。確かに水田は、用水路から畑作物よりも多くの水を取り入れる。しかし、全てが水田で消費されるわけではない。日本での研究によれば、取水量と降水量の合計の2/3が排水路や地下水に還元されるという報告もある。
 日本以上に小規模農家が多く、土地利用調整も行われていないエジプトでは、水田と畑作が混在している状態にある。ほ場に設置されている暗渠排水にはバルブが設置されていないため、水田からは多量の排水が排水路に流れ出ている。夏期の排水路には比較的多量の水が流れているが、エジプトの農家自身、排水路の水は汚染がひどく利用できないと考えている。ゴミが投棄されているほか、家庭からの汚水も処理されずそのまま流入し汚染が進んでいるからだ。排水の再利用も一部では行われているが、多くの人々にとって、水は循環し、上流の排水が下流で再び使われるものという認識は無い。
 エジプトでは、水稲の作付を制限し、小麦の作付を増やそうという動きがあるが、これには同意しかねる。水稲は夏作、小麦は冬作で両立可能だからだ。こうした動きの根本が、水利用にあるならば、まさに稲作と小麦の文化摩擦であろうかと思う。欧州の影響で、小麦文化圏に組み込まれているエジプトに、水田を中心とした水の循環を理解してもらう必要がある。水循環の一つは、排水を汚さず、再利用することがその手段の一つであると確信している。
 排水再利用は、2017年を目標とした国家水資源計画において、新たな水資源確保の柱の一つであるものの、具体的な行動に移されていない状況である。エジプト政府は、排水再利用に関し、我が国に協力を要請している。住民を巻き込んだ水質の保全を中心とした、我が国の貴重な経験がこの分野にも生かされることで、水田の役割の認識深化と水の文化摩擦解消が図られればと思う。

<引用文献・参考文献>
1)加藤 博、「ナイル」、刀水書房、2008年
2)橋本 晃、「灌漑を基軸とするエジプトの農業発展」、齋藤晴美監修「アフリカ農業と地球環境」pp161〜181、家の光協会、2008年
3)進藤惣治、「エジプトにおける参加型灌漑管理への取り組み」、
土地改良の測量と設計Vol.71、2010年3月
4)村上大介、「稲作に忍び寄る文化摩擦」、産経新聞記事、2010年8月22日

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