高まる里山イニシアティブへの認識
生物多様性締約国会議で国際パートナーシップが発足

共同通信社 編集委員 井田徹治

1.はじめに

 日本の「里地・里山」のように、農林水産業を中心にした人間の手が加わることによって、長きにわたり維持されてきた環境と、そこに存在する生物多様性を保全し、持続的に利用してゆくことを目指した「SATOYAMA(里山)イニシアティブ」を日本政府が提唱。その実現のための「国際パートナーシップ(IPSI:International Partnership of SATOYAMA Inisiative」が、10月、名古屋市での生物多様性条約第10回締約国会議(COP10)の期間中に正式に発足した。

 COP10の決議のなかにも、SATOYAMAイニシアティブを世界の生物多様性保全上、重要なものと評価し、国際パートナーシップへの参加を推奨することなどが盛り込まれた。

 急速に失われている生物多様性の保全のためには、人間の手が及んでいない自然環境の保護とともに、人間の手が加わることで維持されてきた「二次的自然地域」の保全も重要であることを主張してきた日本の姿勢が、国際的に認められた形だ。

写真1 2010年10月、名古屋国際会議場で行われたCOP10会議

写真1 2010年10月、名古屋国際会議場で行われたCOP10会議

2.人の営み

 日本人は昔から自然を巧みに利用しながら生きてきた。遠くの「奥山」と、人々が暮らす「里地」との間をつなぐ比較的標高の低い山地や森林も、日本人にとっては重要な環境だった。このような場所を人々は「里山」や「里地」と呼ぶようになった。人はそこで木を切り、薪(たきぎ)を拾い、キノコや木の実を採った。童話の桃太郎のなかで、おじいさんが柴刈りに行った山も里山だったのだろう。

 里山の周囲には水田が広がり、人工的な田畑や果樹園、と自然の森林や草地がモザイクのように入り組んだ光景がつくられた。人間の手が適度に加わることで形成された多様な環境は、さまざまな生物にとっても重要な場所になった。トンボやカエル、メダカやフナなどの魚、キツネやタヌキ、さまざまな鳥。日本人にとって身近な生き物の多くは、里山の生き物だ。

 原生的な自然と都市との中間に位置し、集落とそれを取り巻く二次林、それらと混在する農地、ため池、草原などで構成されるのが里地・里山のランドスケープ(風景)の特徴だ。その自然環境は、農林業などに伴うさまざまな人間の働きかけによって形成、維持され、生物の生息地として、また木材などの天然資源の供給源として重要なだけでなく、景観や文化の伝承の点からも重要な地域となってきた。この里地や里山のように、農林水産業などの人間の営みにより長い年月にわたって維持されてきた場所は、日本だけでなく世界各地に見られる。

3.危機に立つ里山

 だが、こういった自然環境やそこに暮らす人間の知識や伝統的な自然の利用の方法は、都市化や産業化による開発、中山間地の過疎化などによって失われ、多くの地域で、結果としてその場にあった生物多様性が失われていることも分かってきた。

 中山間地では、住民の高齢化と不況による農林業の衰退や過疎化の進行によって、里山の維持管理ができなくなり、その荒廃が進んだ。都市部では宅地開発や大学建設、墓地開発などによって郊外の里山や里地が次々と破壊されていった。

 昔から日本の里山の生物として親しまれてきたメダカやカエル、トンボ、ゲンゴロウ、タガメといった生物の絶滅が心配されるようになってきたことは、その象徴的なできごとだ。日本で古くから行われていた稲作も里山のランドスケープのなかの重要な構成要素の一つだった。河川の流域に存在する「氾濫原(はんらんげん)」は、生息地や繁殖地として多くの動植物に欠かせないものだったのだが、農耕が広く行われるようになって以来、日本列島ではこの氾濫原の役割を、水田が果たした。水田は多様な水生生物や水鳥などの生息地となり、洪水の調節や地下水など周辺の水資源の涵養などさまざまな機能を果たしてきた。だが、稲作の「近代化」が進み(近年、さまざまな見直しがなされている)、大量の農薬や化学肥料が使われ、三面コンクリート張りの用水路などが整備されるにつれて、この水田の生態系が失われ、多くの生物の個体数が減少した。野生絶滅したトキやコウノトリ、多数のトンボや昆虫など、日本の絶滅危惧種のなかには、水田の生態系に依存していた生物が少なくない。

 政府は生物多様性保全国家戦略のなかで、日本の生物多様性への危機の一つとして「人間活動や開発による危機」とならんで「人間活動の縮小による危機」を挙げ、里地・里山地域など、自然と人間社会の動的な均衡の上に成立している生物多様性に対して、地域社会の側が衰退したことにより動的な均衡が崩壊しつつある点を挙げている。

 これは自然に対する人間の働きかけが減ることによる悪影響で、かつては薪や炭、屋根ふきの材料などを得る場であった里山や草原が利用されなくなった結果、 里地や里山に特有の生物が絶滅の危機に瀕するようになった。

 その一方で、シカ、イノシシなどが分布を拡大して農林業被害や生態系への影響が発生するなどの問題が発生している。これも、里山環境の危機的状況の典型的な姿だ。

写真2 荒廃した「里山」
写真2 荒廃した「里山」

4.世界の里山

 「世界で急速に進む生物多様性の損失を止めるためには、保護地域などによって原生的な自然を保護するだけでなく、このような世界各地の二次的自然地域において、自然資源の持続可能な利用を実現することが必要だ」というのが、「SATOYAMA」の保全と再生を目指そうと世界に呼び掛けた日本政府の主張だ。

 実は日本の里山のような例は世界各地に存在する。フィリピン・ルソン島北部の山岳地帯には、古くから棚田を営む山岳少数民族の生活圏があり、森林が比較的よい状態で残っている。棚田での稲作や焼き畑耕作などを行う少数民族には「ムヨン」と呼ばれる私有二次林で、さまざまな資源の利用がなされている。ムヨンでは薪の採取のほか、ドリアンやマンゴーなどの果樹、竹やラタン(籐)、マホガニーなどの樹木の栽培が行われ、生態系が持続的に利用される一方、周囲には豊かな生物多様性が保たれてきた。

 生物多様性が非常に豊かなことで知られるアフリカ・マラウィのマラウィ湖周辺のある村では、コミュニティレベルで、さまざまなタイプの土地利用が進められ、湖の淡水魚の資源管理も持続的に行われ、生物多様性が比較的良好な状態で残されている。

 南米のアルゼンチン東北部には「チャクラ」と呼ばれる、伝統的な土地利用の手法が存在する。都会と原生の自然林が残る地域との間に位置するチャクラは、薪炭林として利用される二次林や植林地、農地などがモザイク状に入り組み、多様性が豊かな池や河川がそのなかに存在するという、まさに日本の里山と同じような形態の土地で、地域の人々の暮らしの維持とともに、生物多様性保全上も重要な機能を果たしているという。自然林と人間の手が加わった土地とを巧みに組み合わせた土地利用の方法は、ブラジル・アマゾンの先住民の間にも存在する。

 イギリスやフランス、ドイツなどの欧州諸国でも農業活動と生物多様性保全との関連が注目され、農地や休耕地を利用した生物多様性保全活動や自然再生事業が進んでいる。

写真3 愛知県海上(かいしょ)の里山

写真3 愛知県海上の里山

5.国際協力

 日本で確立された里山の自然環境の管理の手法に加えて、これらの世界各地に存在する持続可能な自然資源の利用形態の事例を調査・研究し、地域の実情に応じた天然資源の持続的な管理・利用のための共通の理念を構築しようというのがイニシアティブの狙いだ。

 イニシアティブは、1)里山に代表される多様な生態系のサービスと価値の確保のための知恵の結集、2)革新を促進するための伝統的知識と近代科学の融合、3)伝統的な地域の土地所有・管理形態を尊重した上での、新たな共同管理のあり方──を三つの行動指針とし、人間の暮らしと生態系や自然とが調和的な関係を持って共存できる社会づくりへの貢献を目指す。

 アジアやアフリカの発展途上国では、今後も人口の増加が予想され、農地開発などが、生態系破壊や生物多様性の損失の一大要因となることが予想されることからも、イニシアティブは重要なものとなる、というのが日本政府などの主張だ。

 イニシアティブの提唱以来、環境省と国連大学が中心になって、日本全国各地の里山での資源利用に関する取組み事例を収集・分析してきた。また、これらの管理手法が各地で失われつつあることから、里地・里山の利用・管理手法を再評価し、里山の再生や保全につながる新たな利活用手法の導入、都市住民や企業などが里山保全への参加を促進する方策などを検討してきた。

 政府はCOP10の開催を機に、この取組みを世界に広げることを呼び掛けた。そのための国際的なプラットフォームとして日本政府が発足させたのが、SATOYAMAイニシアティブのIPSIだ。

 COP10期間中の10月19日、会場内でのサイドイベントの形で開かれた同パートナーシップの発足式典には、日本の関係者のほか、パートナーとなる海外の環境保護団体、政府関係者、研究者など約500人と多くの人々がつめかけ、パートナーシップへの期待を口にした。この段階で参加を表明したのは、9か国の政府、そして地方自治体、研究機関、環境保護団体など51の団体に上る。このなかには石川県、愛知県、兵庫県、名古屋市といった日本の地方自治体や旭化成などの企業、国際協力機構(JICA)なども参加している。

 式典には生物多様性条約のアフメド・ジョグラフ事務局長も参加し「日本とともにこのユニークな取組みを実施し、地域の文化と自然を保護していきたい」と述べた。

 SATOYAMAイニシアティブの目的と活動に関する理解と情報共有の促進のため、関心を持つ組織のネットワーク化とその拡大を奨励することがIPSIの目的で、各国政府や地方自治体、環境保護団体や研究者、民間企業や国際機関などから広く参加者を募る。

 IPSIは、各国で行ったケーススタディの成果を収集、分析、整理したオンラインデータベースを整備、その成果を各国での生物多様性保全への政策や意思決定に生かすための研究の支援なども行う。また、各国の援助機関との連携を進めることによって、二次的自然の保全と再生、持続的な利用によって発展途上国の貧困解消に貢献するような援助プロジェクトに、多くの資金が提供されるように働き掛ける。

写真4 中国四川省の竹林
(写真提供:INBAR国際竹籘ネットワーク)

写真4 中国四川省の竹林

6.決議も採択

 COP10で採択された、生物多様性の持続的な利用に関する決議のなかでも、SATOYAMAイニシアティブへの言及がなされた。決議は「SATOYAMAイニシアティブを、生物多様性および人間の福利のために、人為的影響を受けた自然環境を理解・支援する有用なツールとなりうるものとして認識する」と指摘。条約の締約国会議として、このイニシアティブを支援することを表明した。

 決議はまた、国際パートナーシップについて「ケーススタディの収集・分析、人為的影響を受けた自然環境におけるプロジェクトや活動への支援など、SATOYAMAイニシアティブが特定した活動を実施するメカニズムであることに留意する」と言及。「締約国その他の政府および関連する機関に、SATOYAMAイニシアティブをさらに発展させるためにパートナーシップに参加することを奨励する」との表現で、各国にIPSIへの参加を呼びかけた。

 また、里山との関連では、農業の生物多様性に関する決議において、「生物多様性保全における水田農業の重要性を認識するとともに、ラムサール条約での水田決議を歓迎し、その実施を求めること」なども決定された。

 COP10に向け、日本の里地や里山に代表される二次的な自然の保全と利用に関する知識の重要性や、その保全と再生の重要性を世界に訴えることを目指してきた日本政府としては、パートナーシップへの認識が高まり、決議のなかで、国際的にそれが認められたことは、大きな成果となったといえる。

 会議に向けたSATOYAMAイニシアティブの提唱以来、日本国内でも里山や里地の環境の重要性を見直そうとの運動が高まりを見せ、自治体レベルでの取組みや環境保護団体の活動も徐々に盛んになってきた。各地で広がる自然再生の試みのなかでも、かつては身近な場所にあった里山の自然を再生しようとの事業が増えてきた。

 岩手県では、墓石の代わりにガマズミやクルミなどの里山に典型的な在来の樹木を植える「樹木葬」を中心に、日本の自然環境の再生に取り組む寺院の試みなどが成果を挙げているし、熊本県の阿蘇山周辺では、放牧される赤牛の「オーナー制度」によって資金を集め、失われつつある草原の自然環境の再生と生物多様性の保全を進めようとの試みが進んでいる。いずれも、里山や里地の環境に「新たな価値」を見出し、資金の流れを作ることで里山の荒廃に待ったをかけようという方向で、今後、この種の取組みがさまざまな形で進んでいくことが期待される。

 水田や農地、湿地や湿原など日本固有の生態系が持つさまざまな生態系サービス、つまり「自然の恵み」に対する認識が高まり、それを守る試みには、その対価を払おうとの機運も次第に高まっていくはずだ。

 だが、会議のなかで、海外の参加者などから「SATOYAMAイニシアティブで日本政府が何を目指しているのかが、明確でない」、あるいは「二次的自然の保全の重要性は理解できるが、何よりも重要なのは、残り少なくなった原生の自然とそこにある生物多様性の保全だ」との反応が少なくなかったのも事実である。当初、パートナーシップに参加を表明した政府の数は日本を含め9か国でしかなかったことも、日本が提案する里山イニシアティブへの理解が必ずしも進んでいないことの現れだろう。

 日本政府は、開会中の国連総会に、これからの10年間を「生物多様性の10年」として、各国が生物多様性の保全に特に力を注ぐことを提案しており、COP10でもそれを支持する決議が採択された。

 長い社会情勢の変化のなかで進んできた里山や里地の環境の変化や荒廃も問題は、一朝一夕には解決できない。

 COP10に向けたその場限りの提案や問題提起に終わらせず、世界各国に「二次的な自然」の保全と再生の重要性を訴え、その取組みを支援する息の長い努力が必要となることはいうまでもない。

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